第二章 彼女との出会い

第五話 であい

 〈予知夢〉というものを見たことがあるだろうか。本来、夢とは自身に関連した事柄が目の前に次々と現れて、追及する暇なく過ぎ去ってしまうものである。起こった出来事が現実ではありえないものでありながら、けれど意思とは関係なしにその物語はズンズンと先へ進んでいき、重大な事件や事故に巻き込まれる寸前でハッと我に返る。気が付いた時にはすっかり目が朝陽に慣れているのだ。ちょうどいいところなのに!と、逃した獲物を追うように、もう一度深く目を閉じてみても、そこに広がる世界は先ほどとはまた別の虚構か、もしくは映像のない深い闇の中であり、私たちはそれが夢だと分かっていながらも、その不自然な世界に順応し、のめりこんでいってしまう生き物なのである。

 今朝の私はまさにそんな感じだった。深い誘惑の溝にはまってしまい、抜け出すどころか深いところ、奥へ奥へと沈んでいってしまったのだ。夢に女性が出てくることはしばしあるのだが、今朝のは少しばかり異様で、私の肩くらいの背に、垂直に伸びた黒髪と、瞳から飛び出さんばかりに斜めに反った長い睫毛、薄い眉毛は細くきっちり揃えられ純潔そのものだ。ひとたびこちらを見つめれば、そのてのひらより小さい童顔が真っ赤に染まり、誰しもが目を逸らしてしまうほど、透き通った肌は中に電灯を宿した雪明りのように、安らかで儚い粒子を発光している。

 そんな薄幸の少女が、私の夢に突如として現れたのだ。その時の私は、たしか緑の深い芝生がどこまでも続く広い競馬場に立っていて(これは彼らと根岸に行った後の話である)関係者や観客、競走馬のいなくなって閑散としたコースを、まさにレース前の競走馬がそうするように、ひとりでトボトボと歩いていたのだ。どこへいくわけでもなく、ただ前を向いて歩を進め、東の空から差し込む太陽の穏やかな光など気にも留めなかった。頭上は一面青い空。薄く張った雲から太陽が煌々と輝き、昨晩の驟雨のせいか、つゆを含んだ葉先にまだ青臭さが少し残り、一帯は春とは思えないほど冷え込んでいた。そんな陽の射しこむ朝の競馬場を歩く私の目線の先に、観覧席に腰を下ろす彼女の姿が、まるで八十年代洋画のワンシーンのように、はっきりと見て取れたのだ。

 私はじっとその少女を眺めていた。少女もまた、長い髪が時おり風で揺れて、目元を薄く透かすことなどお構いなしに、じっと私を見つめていた。互いの瞳の色がはっきりとわかるまで、私たちはそうして互いを見つめ合っていた。競馬場の芝生にたった一人で立つわたしと、陽の遮った観覧席で手を添えて座っている彼女は、互いにひと言も口を開くことなく視線を送り合っていた。次第に私は彼女の隣に座り、まじまじと顔を見てみたい、その美しい瞳、髪、睫毛の全てを、精巧にできた美術品のように、いつまでも自分のものにできたらなと、日が暮れるまで、そんな彼女を見ていたいという衝動に駆られて、彼女のいる観覧席に近づこうとコースを逸れ、歩をゆっくりと進めていった。

 その時、頭上を照らしていた太陽が、左から流れてきた雲の群れに一瞬で飲まれ、辺りは日が暮れたように光を閉ざした。薄暗くなった会場に、どこからか竜巻のような突風が幾つも吹き荒れると、私の行く手を、進む道を阻むように風で邪魔をする。私はまともに前へ進むことができないから、腰を下げ気味に目線だけを彼女の方へ向けて、歯を食いしばっていた。闇に紛れた観覧席はごうごうと風が鳴って、いつしか彼女の姿は見えなくなっていた。私は風を押し返すように何とか右足を前に出し、再び観覧席へ顔を向けた時、後ろから馬の叫び声が、それも一頭ではなく何十頭ものうねりと足音が、鼻息と地響きを荒々しく上げてこちらへ走ってきた。雄々しい息つがいと、おびただしい量の砂を含んだ突風が私を包み、もつれた足をそのままに、這うようにして馬と竜巻から逃げるように進むが、砂塵と風で見えなくなった視界は、時速六十キロの馬に到底かなうはずもなく、馬は私の背を正確に捉え、轢き殺さんばかりに駆け寄ってくる。このままでは芝生の上で肉の塊になってしまうと、動かない右足を引きずるようにして息を飲み、最後の力を振り絞って逃げようと試みるが、暗くなった視界と足音、馬のけたたましい叫びが、自分がどこにいるのかもわからなくさせていた。

もう駄目だと諦めかけた時、ふと私の身体に、最後にもう一度彼女の姿を見てみたい。死ぬ前に彼女の顔を拝みたという、愚かな願望が稲妻のように走り、骨が折れんばかりに力を込めて首だけ後ろへねじ曲げると、馬の蹄が大きく私をとらえたその瞬間、突き抜ける痛みの衝撃で、私は飛び上がるようにして布団からがばっと起き上がったのであった。

 カーテンのすそから幾筋もの光の矢が毛布に落ちていた。本来の私なら、目が覚めた途端に、なあんだ夢だったのかと安心して、再び心地よく床に就くのだが、今回の場合は少し違う。部屋を照らす光の粒や外の喧噪、枕元で鳴り響くアラームのやかましい音が私に、何か重大な事柄を訴えかけて止まないのである。普段の起床と少し違う部屋の空気と雰囲気に、胸のざわめきが汗で濡れた身体に重くわだかまると、私は携帯のアラームを止めて起き上がり、洗面所へ行こうとドアノブに手をかけたその瞬間、足元に落ちていた履歴書の証明写真の自分と目が合って、私はここ数日、怒涛どとうの如く勢いで決まったコンビニバイトの初出勤日が今日であることを、ようやく思い出したのであった。

 寝汗と冷や汗をだらだらと垂らしながら、通勤ラッシュの過ぎた最寄り駅の階段を一段跳ばしで駆け上がっていると、鼻先にうっすらと甘い匂いが抜きぬけて、その胸をくすぐる華やかな香りに思わず振り返ると、駅前ロータリーの隅に植わった巨木の枝先に、桃色を覆うように芽生えた浅緑色の葉が、四月下旬の仄暖かい日差しに生き生きと映っている。葉桜の群れが、通学の学生を見下ろすように枝を開いていた。急がなければとわかってはいながらも、私は階段の中腹で立ち止まり、穏やかな春の風物詩、その葉桜から放たれる清々しい居住まいを全身で感じていた。気持ちの良い涼風が、電車をのせてホームいっぱいに流れこみ、駅の名を告げた到着アナウンスが、一斉に乗客の足音をともなって私の耳に流れる。ふと我に返り、まずい、このままでは乗り遅れてしまうと、向きなおした身体に力を乗せて、私は葉桜の香りが漂う構内を足早に通り過ぎた。

 降客の波に揉まれつつ、階下のホームまで目前というところで、階段の後方で女性の悲鳴がひとつ聞こえた。耳だけ注意をむけると、どうやら前を歩いていた人間が突然倒れたらしい。動かない老人の横で助けを求める女性の、その青ざめた虚ろな表情が、なんとなく私の胸にささった。黙って逃げるわけにもいかず、改札へ急ぐ人波を縫い、「どうしましたか」と近づいて事情を聞いているうちに、ホームに留まっていた電車は風の如く去っていく。女性の緊張した声と、車体を包む風の音が同時に小さくなっていく。この際、バイトなどどうでもいいのだと、焦る気持ちを深呼吸で押し殺し、私は「大丈夫ですよ」と自分に言い聞かせるように女性に言うと、保健の授業で習った応急手当を急いではじめた。基本的な安否確認から胸骨圧迫まで、やれることはひと通りやった。とにかく救急隊が来るまでが境目だと思って息を飲んだ。横を通る乗客の珍しそうな視線が、次第に私の内側に溶け込んで羞恥の渦に飲まれていく。駅員と救護隊が担架を持って駆け付けた時、私の身体は汗でびしょ濡れだった。息つく暇もなく行った応急処置は、これといって役に立ったとは思えなかったが、老人は薄いながらも、確かに呼吸をしていることが確認できたのだ。

 女性は丁寧に私にお辞儀して、担架で運ばれていく老人の後を追っていった。取り残された私は閑散とした上り線のホームをゆっくりと歩いた。隅に付けられた時計は、もう言い訳のしようがないほどに、約束の時刻を過ぎていた。私は疲労のため息をつくと、遅刻した理由を伝えるべく携帯を出して、三回目のコールで店長が出た。

「もしもし」

「あ、今日からアルバイトで働かさせていただく者なんですけど、駅で体調の悪い方を救助していてですね、それで乗る電車を―」

「あ、そう」

冷めきった男の低い声が耳元で響いていた。私は首を傾げた。これは面接で会った店長の声ではない。おかしい、確かに店長の番号にかけたはずなのに、話し方も雰囲気もまるで違っている。この声の主はいったい誰だ。

「きみ、遅刻だよ。しかも初日から。困るなあ。そんなんじゃこの先やっていけないよ」

「ええっとですね、あのー乗る電車を逃してしまいまして。はい―二十分ほど遅れるというか―いえ、もちろん急いだんですよ、しかし―はい―はぁそうですか」

店長は面接の時の物腰柔らかな印象とうって変わって、捲し立てるように私に非難の声を浴びせた。

「いや、でもそういうわけじゃなくて、はぁ。はい―いえ、できます―はい――はい―以後気を付けます。はい―すみませんでした、気を付けます―はい―はい失礼します」

 電話を切った後も腕の震えが止まらなかった。乾いた口に僅かに残る苦い唾を飲みこんで、吐き気のような酸が喉から込み上げる身体に深呼吸でじっと耐えるしかなかった。面接時は穏やかで、終始笑顔を振りまいていた男とは似ても似つかぬ物言いと、自分のことしか頭にないといった冷酷非情さが、私に怒りを超えた虚しさをもたらして私の心を深くえぐった。あの口調からすると、店についても延々と非難され続け、印象は最悪だろう。仮に私が本当のことを言ったとしても、全ては遅刻した言い訳に過ぎないと言って、冷たくあしらわれる光景が目に浮かんだ。

 私は俯いたままホームを歩いた。止まっていると、絶望感が身を浸すような気がして堪らなかった。なぜこんな目に遭うのだと自分を責め立てようと試みる度に、人が倒れていると分かったあの一瞬、怪我人を見捨てるという罪悪感が長く尾を引く辛さと比較した。けれどそれでも、やはりこの非情な苛立ちから逃れることはできないと、やりきれない思いでホームの隅に呆然と立っていることしかできなかった。

 何もかも嫌になってしまった。こんな空虚な頭では、待ち時間が長く感じられて仕方がない。どうせならこのまま電車が来なければよいのにと、上部の時計を眺めつつ、ふと上り線のホームに視線をやると、ラッシュ時刻を過ぎたというのに人がまばらに並んでいる。寛容な会社が増えたものだと退屈しのぎに眺めやっていると、コートを羽織るサラリーマンの群れの隅に、ひと際目を引く長い髪と紺のスカート、この時間には珍しい女子高生が、吸い込まれるように私の視界に入っていったのだ。

 その時の一瞬の光景が、私には遠い過去の記憶にも、またつい今しがた見た鮮明な景色のようにも思えた。虹のような光の矢を何本も貫かせ、薄い青空から覗く太陽のような輝かしさと、崩壊した街並みに沈む月の、もの哀しそうに微笑む明かりを同時に孕んでいた。懐かしい若葉のような香りが鼻先を撫でて私を包む。風でなびく黒髪は、なめらかな首筋をほんのりと浮かし、白く形のいい耳が孤島のように小さく覗いたと思うと、まっすぐで確かな指が、器用に髪を耳元へ流した、長く反った睫毛が震えるように手元の文庫本をとらえると、笑っているようにも、はにかんでいるようにも感じられる不思議でひ弱な笑みを、初めて「恋」という言葉を知った天使のように、華やかに見せるのだった。

 時が止まったような一瞬に、私は全てを奪われたような心持で、ただその少女を眺めていた。それはあまりにも唐突に起こった幸せな時間だった。穏やかな日差しにさらされて煌めく長い髪、細くなだらかな稜線を描く小さな鼻、青白い肌に目立つ膨らんだ薄桃色の唇。名状しがたい表情その全てが、今朝私の夢に出てきた少女にそっくりだったのだ。

 警笛を鳴らしながら滑り込む上りと、私の乗る下りが同時にホームになだれ込み、荒れたレールの軋みと走行音が一帯にとどろいて、さえぎる車体で向こうホームの景色を捉えることができなくなった。扉から数名の乗客が私の方へ降りていき、駅名を告げた電車は生き物のように大きく息を吐いた。私は我に返って電車に乗り込むと、優先席の前の吊り革に摑まった。頭に血が上ったような浮遊感が、電車が走り出した後も私の身体を侵し続けていた。

 ホームに佇んでいたあの少女が、今朝見た夢の中の彼女に違いないと、そう断言できる明確な理由を私は持っていなかった。あの時間に電車に乗る女子高生は幾度となく見かけたことがあるし、また、それが長い黒髪であることもしょっちゅうだった。しかし今、ホームに電車が滑り込んだあの一瞬、彼女は私の顔を見なかったか。ホームの屋根を斜めに貫く陽光が、彼女の仄白い顔いっぱいに突き射して、その眩しさにひるむ目線の先と、呆然と彼女を見つめる私の視線が、互いのホームに車両が入り込むあの刹那、繋がれた糸のようにしっかりと合致していたのではないだろうか。

 私は電車に揺られながら、その時の彼女の顔を何度も思い浮かべた。一瞬の出来事なのだから、もちろん彼女の顔などはひどく断片的で、夢と異なる部分も多少はあったに違いないが、私は目が合った時の、あの耐えがたい動揺の先、嬉しさが胸いっぱいに広がる恍惚を、確かに全身で感じていたのだ。私はあの一瞬に馬の蹄を掻き立てる地の音と、心臓から沸き立つ情熱を抱き、その美しさに慄いていたのだ。  

 突如として目の前に現れた不思議な少女―その存在は、深く私の目に刻み込まれて、コンビニに到着し、店長に深く頭を下げている間も、初心うぶな輝きを奥底で放ち続けていたのであった。

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