第四話 どらごん
タバコを吸い終わったAがようやく『根岸のドラゴン』について語り始めた時、手元の携帯は午前一時をさしていた。待ちにまった秘密の全貌なのだけれど、ここでは彼の話した内容をいくぶん要約して伝えたい。なぜなら、彼は酒には酔ってはいなかったものの、タバコによる脱力感と深夜による眠気、生粋の説明下手によって引き起こされた口述が、至極曖昧でわかりにくかったからである。彼の説明はあっちへ行ったりこっちへ行ったり、本筋が常に横へ逸れてしまうのだ。初めは落ち着いた
そのためここからは彼の話した内容について、私が理解したものだけについて述べていくことにする。彼の説明は余計な部分は多いが、大事な箇所は声に力が乗っているため、内容をかいつまんで聞いておけばそれほど難しいものでもないのだ。
前述のとおり、彼の祖父はなが年石材屋を営んでいた。祖父の父親(Aの曽祖父)が大正時代に始めた石屋をそのまま受け継ぐかたちで、横浜と川崎の真ん中辺りに位置する「子安」という駅から歩いて二十分の場所に「森本石材店」は立派な板看板を掲げて営まれていた。
そんな祖父は生粋のはまっこで、生れてから一度も横浜から出たことがないほど地元に愛着を持っていた。幼い頃のAは、夏休みやお正月などの長期休暇の際に、必ずと言っていいほど祖父の家を訪れて、仕事場で作業に勤しむ石工職人としての祖父の後ろ姿を毎回飽きずに眺めては、Aの住む町(私たちの地元)について懐かしそうに語る祖父の昔話に耳を傾けたと言う。彼はその時汗まみれで上裸になった祖父の、その年齢とは似つかわしくない引き締まった身体に見惚れて、十年経った今でもその隆々とした筋肉がありありと目に浮かぶらしい。日々の作業からなる強靭な肉体の情景は、夏休みの一週間を祖父の家で過ごすという心細さを、石を削る度に広がる大きな背中が信頼に似た安心で包み込んでくれていたのだろう。
そんな祖父が心疾患で入院を余儀なくされたのはAが高校一年生になった冬休みの頃で、県外で寮生活をしていた彼はすぐさま帰郷してお見舞いに訪れた。幸い命に別状はなく、二週間の入院であっさりと仕事に復帰したが、彼はその時の祖父の顔色の悪さや、ここ最近で見違えるほど痩せ細った二の腕の小ささを眺めては、いつ悪化してもおかしくはないと覚悟を決めたと言う。面会のベッドでは至って平穏に接していた祖父とは対照的に、彼の母は深刻そうに眉をひそめ、退院が決まっても表情は一向に晴れなかった。
それから二年後、三年生になった彼の引退試合でもある「春の高校バレー」の最終予選を控えた十一月の初旬。顧問に呼ばれた彼は練習を中断し横浜へ向かった。祖父の容態が急に悪化したのだ。それも、今度の入院は緊急の手術を要するもので、これは後に母親から聞いたことなのだが、祖父はこの時一度死にかけたと言う。Aが息を切らして病院へ訪れた頃には既に昏々と眠っていて、手術が成功したと父親から聞かされた時、彼は安堵のあまり膝から崩れ落ちそうになったという。一晩明けて祖父が目を覚ました時、思いの外元気そうなその表情に彼は笑顔で迎え、部活の近況や学校生活について取り留めなく話した。顔色は悪かったものの、彼の話に何度も相槌を打ち、時おり感嘆のような声を洩らす余裕もうかがえ、この様子なら三週間ほどで退院できそうだなと父親も笑顔を見せていた。
大事を取って学校へ戻るのを週明けに伸ばし、練習を休むことを顧問に伝え、久しぶりに父親とショッピングモールで買い物をしていると、携帯に着信が入り息を飲んだ。耳を近づけると、病院にいる母親からだった。「おじいちゃんがAを呼んでるから早く来て」慌てて病院へ戻ると部屋の前に母親が立っていた。どうやら祖父がAと二人だけで話がしたいと言っているらしい。恐る恐る扉を開けてベッドの縁に近づくと、祖父は目を閉じているのに誰が入ってきたのかわかるのか、口をパクパクと鳴らして彼の名を呼んだ。昨晩は割合元気そうに見えたが、やはり幾本もの管が繋がれた身体は祖父を、衰えた病人そのものに映していて、彼はそのやつれきった姿を直視することができなかった。
何分かの沈黙の後、ようやく開いた口から言葉が
祖父の話のあらましはこうである。あるところに大きな
吉兵衛の馬車に乗り、清一郎が辿り着いた場所はおよそ日本とは思えぬ場所だった。
競馬場の裏にある馬小屋の空き地に車を止め、先週の台風で石材や木材が散らばっている倉庫群の一棟を指さした禿げ男は、二人に厩舎の修繕と新しい事務所の設計を申し付けた。設計図を開きながら西洋人と建設の内容を詳しく語る吉兵衛を横目に、清一郎は先ほどの競走馬の姿を脳裏に描き、全身を震えさせる興奮が次第に頭から爪先までに渡り、全身を侵しているのを感じた。彼は初めて見た競馬に震えるほど感動したのである。
それから吉兵衛と清一郎は根気よく働いた。観覧席とは異なり、まだ殆どが木造だった競馬場の設備に破損は付き物で、二人は事務所が建て終わった後も常駐のような生活を余儀なくされた。ふたりは土地の空いていた裏手の倉庫の隅に二階屋を
そんなある日、清一郎と吉兵衛は競馬場から少し外れた外国人居住地に新しく洋館を建てて欲しいと依頼を受け、吉兵衛の弟子と共に朝早くから骨組みを打ち立てていた。依頼を申し付けたのは二人に厩舎の修理を命じたあの白髪の西洋人である。清一郎は普段通り巧みな手つきで次々と柱を立てていき、予定よりも早く土台を終え、二階に手を付けようと木柱に足を掛けたその時だった。清一郎は誤ってそれを踏み外してしまい、背中を打ちつけるような形で地面に落ちてしまったのだ。
病室のベッドで目を覚ました清一郎は医師から聞かされた衝撃的な内容に言葉を失った。打ちつけられた際に砕けた腰骨の損傷が靱帯にまで及び、手術をしたとしても元のように力仕事をすることはできない。仮に一時的に仕事に復帰できたとしても、次に切れた時には半身不随は免れないと、無表情の医師は彼に冷たくそう言い放った。清一郎はベッドで毎晩泣いた。手術による痛みよりも、今後大工として一人前になれないという悲しさのほうが勝っていた。次第に彼は全てのことが嫌になって食事を口にしなくなった。心配した吉兵衛やその何人もの弟子たちはお見舞いの度に上等な洋菓子を持ってきて食べろ食べろと促したが、彼の表情は晴れるばかりか、さらに沈んで暗くなっていくように感じられた。
予定通り手術が成功し、退院まで二日と迫ったある日、清一郎の病室に珍しい来客が現れた。紺色のスーツを上品に着こなしたその紳士は、彼や吉兵衛に仕事を与えたあの西洋人であった。白髪の紳士は彼の容態を聞くや否や、すぐに彼を病院から連れ出し自家用車に乗せた。まだ左足に痛みの残る清一郎は「どこへいくんですか」と不満げに尋ねるが、紳士は温和な笑みを浮かべるだけで口を開こうとしなかった。
ここまで読まれた方なら薄々勘づいていると思われるが、何を隠そうこの「清一郎」という男は祖父の父、つまりはAの曽祖父であり「森本石材店」の一代目である森本清一郎のことである。病室での祖父の言葉はそこを境に急に聞こえが悪くなり、言葉が途切れがちになって当時の場所や地名など、ハッキリと聞き取れる箇所が少なくなったが、どうやら清一郎とその西洋紳士は根岸競馬場へ訪れ、彼はそこで「根岸のドラゴン」なるものを見たというのだ。すると、もう元の身体に戻ることのないと言われた清一郎の身体が、時間が経つにつれ着実に動くようなっていったという。その後、清一郎は吉兵衛のもとから離れ、競馬場近くに店を構えて独立した。戦期はマレーシアに駆り出されたものの、危なげなく帰国し接収後の根岸の地で石工職人としての役割を勤め上げ死んでいったと、しわがれ声でそう語ったAの祖父は、彼にその話を伝えた二日後の明け方に、安らかに亡くなったという。
なぜAの祖父がこのような話を唐突に思い出し、孫であるAに聞かせたのか、その真意は私にはわからないが、何らかの意図が、Aに何かを伝えたかったということに間違いはないだろう。自分の死期が近づいていることを悟った祖父は、自分の父が残したこの「根岸のドラゴン」なる伝承を彼に託したのだ。全てを話した祖父は、何をしろなど助言することなくそのまま眠ってしまったらしい。横浜になが年店を構え、その土地に愛着を持ち続けてきた祖父との思い出は、そんな不思議な出来事で幕を閉じたとAは言う。
「オレはその話を聞いて、『根岸のドラゴン』を見つけてくれって、そう解釈したんだ。多分、じいちゃんは子どもの頃、清一郎に何度もその話を聞かされて、自分も願いを叶えるドラゴンに会いたいって、そう思ったに違いないんだ。それが年とともに記憶が薄れていって、ようやく思い出したのが死ぬ直前だったってわけなんだよ」
「じゃあ、オマエのじいちゃんは直接『根岸のドラゴン』を見たってわけじゃないんだな?」
話を終えたAに私は口を出した。
「多分、そうだと思う」
「それならだいぶ信憑性に欠けるんじゃないか?なんせ大昔の話だろ」
「オマエ、オレのじいちゃんが嘘ついてるって言うのかよ」
Aは不貞腐れたように唇を突き出す。慌ててBが「まあまあ」と微笑で間に入り「そういうわけじゃないけど」と付け足す私。
「冷静に考えて、今も昔もドラゴンがいるとは到底思えないし、その願いってやつも、単純に清一郎さんが頑丈だったってだけなんじゃないのか」
今度は語調を抑え、Aの表情を窺いながら尋ねる。言っていることは理解できるが、それでも何か飲み込めないものがあるといった表情で俯くAは
「オマエ、宇宙人とか信じる?」
と私の顔を見つめた。
「はぁ?」
「だから宇宙人だよ、UFOとか。じゃなきゃ未確認生物。ネッシーとか雪男とかツチノコとかいっぱいいるじゃん?そういうの信じてるか?」
「オレはいると思うなあ。何だかそっちのほうが面白そうだし」
興味のある話にすぐに食いついてくるB。能天気な彼の好きそうな話題だ。
「いないとおもう。いるんならすでに見つかっているはずだし」
「だからさあ。そういうのを見つけに行くんだよ。今から」
自信満々なAに思わずため息が零れる。いるわけないじゃないか、そんなもの。
「だいたい、そういうのって科学的に証明されていないんだぜ?ヒツジ男だったりトイレの花子さんだったり。都市伝説っていうのは最初から世の中に広めるためにつくられたものなんだよ」
「科学的とかいうなよ!こういうのはなあ、夢なんだよユ・メ。ドリーム。信じていない人には見えなくて、信じてる人の下に現れるんだよ」
Aはそう言って乱暴に箱から七本目のタバコを抜き取ると、すばやく左手で火を点けた。ボッという鉄製のライターの炎が長く伸び、苦笑する私とBの顔を艶めかしく照らしてキャップに消えていく。煙の中から現れたAの顔は、心なしかとても幸せそうに見えた。
暗闇の根岸森林公園に足をつく三人の男の影が電柱の光にうすく伸びていた。道の両脇を生え散らかした雑草の穂が風とともに一斉に垂れ、コンクリートブロックに描かれたグラフィティが水色に光っている。緩やかなアスファルトの先に見えるのは米軍基地のゲートで、金網を張り巡らした門には「立ち入り禁止」の文字が、さまざまな言語で赤く書かれている。フェンス越しに検問所のような小屋がひっそりと構えられ、数年前までは米兵が二十四時間体制で通る者をチェックしていたと思われるガラス窓には、幾筋もの埃が暗い室内を透かして見えた。
「ほんとうに誰もいないんだな」
「人が住んでいないと廃墟同然だ。住民の退去が済んでから五年も経ってるらしいぜ」
返還合意がなされて数十年。それから住民の退去が住むまでに五年もの歳月を経た米軍基地「根岸住宅地区」は、森林公園を侵食するように一部分が有刺鉄線の内側に入っており、そこから先へは未だに進むことができない。フェンス越しに内部の様子を確認することもできるが、住民の退去した住宅地は米軍の大きな家だけがあちこちに取り残されて、電灯の灯らない一帯はまさにゴーストタウンだった
「これだけ暗いんなら懐中電灯持ってくればよかったな」と携帯のライトを照らしながら門に近づいていくA。まさか、中に入るのではと慌てて後ろについていく私の腕を掴みながら「何だか不気味だね」と心細そうなB。
デコボコな石畳になったゲートの前まで近づいたAは、三メートルほどある鉄フェンスを強く掴むと、躊躇せず押し引きを繰り返した。短い金属音がギシギシと一帯に大きく響く。「バカ、見つかったらどうすんだ」と私がその手を制すも「人がいないんだから見つかるも何もないだろ」と引きちぎらんばかりにフェンスを掴むAは無邪気な子供のように笑顔だった。
「監視カメラとか、まだあるかもしれないだろ」
「そんなものあるわけないだろ?このゲートだってもうすぐ壊されるんだから」
「だとしてもだよ。通報されたらどうするんだ」
必死に止める私に「この中にドラゴンがいるかもしれないだろ」と喚き続けるA。猪突猛進な彼のことだから、もしかするとそのままフェンスに足を掛けて、有刺鉄線が張られているにもかかわらず、軽々と飛び越えて基地の中へ入ってしまうのではないかと、私は気が気でなかった。彼の肩を掴みながら絶えず周りに目を配って、人が来たら即座に逃げられるように中腰で構えていた。その時、静かだった公園内にアスファルトの軋む音とライトが私たちの目を塞ぎ、二台のバイクが坂を登ってこちらへやってきた。ボラードの脇に律儀にバイクを止め、懐中電灯を光らせてこちらに近づいてくるその影は、遠くからでもあきらかに一般人ではなかった。
「逃げるぞ」
Aの声で私たちは一目散に走りだした。ほれ、言わんこっちゃない、と私は久しぶりの外出で言うことの効かなくなった両足に鞭を撃ち、何とか警官から逃げようと無我夢中で走った。乳酸のたまったふくらはぎは重く、暗闇のせいでどこを走っているのかもわからなかったけれど、風を切るように両手を動かして前へ前へと進んだ。芝生広場の方へ逃げるAとその反対であるドーナツ広場に駆けていくB。ライトに照らされながら私はAの背中を追って走る。警官は二手に分かれた私たちに戸惑っているのか、止まりなさいというような言葉を二三回叫んで全速力で追ってくる。芝生広場の坂を下りながら、何とか視界にとらえたAと並走しながら「おい、どうするんだよ」と息を切らす私。「タバコは靴の下に隠したけど酒はBが持ってるからなあ」と能天気な笑みを浮かべる余裕からして、彼は警官に追われるのが初めてではなさそうだ。遊歩道の脇に植わった何本もの木々が街灯を遮って互いの顔さえ見えない。左のふくらはぎが破裂しそうなほど張って限界が近い。草原を囲うようにできた石道を駆けながら「もうダメだ」とへばる私に「まだまだぁ」と速度を上げる彼は語尾に変なアクセントがつい別人みたいだ。
私はその声を聞いて、息を切らしながら笑った。脇腹が痛くなるくらい大声で笑った。思えば、こんなに笑ったのは中学生ぶりだなと思った。私は笑いながら、雲に隠れつつある満月の薄明かりを目で追った。すると「根岸のドラゴン」というAの言葉が、ずっと昔から存在する聴きなれたリズムとして、私の身体に溶け込んでいった。その昔、ここ根岸の地に競馬場が建てられ、何百何千という馬がこの草原を疾走していった。土埃を上げ、前を向き、何を求めるわけでもなく地面を駆け抜けていった。その姿が、百年という時を経て、今私の目の前に存在しているような。暗闇の草原で警官に追われる男たちの泥臭い姿は、いつしか月明かりに照らされた二頭の馬のように雄々しく、勇敢で、清々しい青春の苦い塊となって、暗闇の根岸の地に煌々と輝いていた。芝生から沸き起こる青臭い水の匂いと、もうすぐ開くであろうサクラのかすかな甘い匂いが鼻を抜け、両足の感覚がついになくなった私は、芝生の上でばたりと倒れた。苦い息が頭上の月をおぼろに透かす。草木の匂いが鼻いっぱいに広がる。湧きあがる鼓動が、地面の底でうねりを上げる馬たちの地響きに聞こえる。こうして全力で走るのも、たまには悪くはないなと、汗の光る笑顔でそう思った私は、仰向けに倒れるAの姿を警察のライト越しに見つめた。
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