第15話
砂漠の国は夜になると一気に気温が下がる。夏とはいえ、昼間と同じ格好をしていては体が震える時もある。
そろそろナディアが戻ってくるはずなのにやたら時間がかかっているな、とキーランが不安になり、様子を見に部屋から出る。キーランとナディアの部屋の他に、ホテルの最上階で宿泊している人はいないようで、誰の気配もなく廊下はシンと静まり返っていた。
乾燥した空に雲ひとつなく、月明かりの青白さがガラス窓から差し込んでいる。廊下の明かりは燭台の上の蝋燭のみだったが、今は全て消えている。月明かりで明るいとはいえ、これではナディアが戻るにしても足元が悪いだろうと考えたキーランは、再び部屋に戻ってマッチを持ち出し、一つ一つ灯し直した。
ナディアが上がってくるであろう階段から自分たちの部屋の前までの十箇所ほど灯し終えて、さて侍女の部屋まで迎えに行こうと振り返ると、ちょうど階段から上がって方向を変えたナディアを正面に捉えた。
ナディアはベージュの薄くて長いショールを羽織り全身をすっぽり覆っている。うっすら毛先が濡れてまとまりが強いウェーブの髪の毛を揺らしている。
急いでキーランが駆け寄ると、ふわりと花のような香りが鼻孔をくすぐった。
「待たせてしまってごめんなさい」
「いや、ナディーになんともなくて良かった。安心したよ。次からは俺が迎えに行くまで待つようにしようか」
「それじゃあ心配しすぎにならないかしら…?」
「何かがあってからじゃダメだから最善を尽くさせて」
愛を確かめ合ってからというもの、日に日にキーランが過保護になっているような気がしているナディアがじっと訝しげにキーランを見る。
「……あまり行きすぎると窮屈に感じて抜け出してしまいますわよ」
「ナディアが苦しむことになったら俺が悲しいから、そうならないように全力を尽くすよ」
ナディアの肩を抱いて歩き出すキーラン。周りに人がいないのを良いことに、肩を抱く力が強めで密着度が高い。
部屋の扉までナディアを連れてきたら、「先に部屋で休んで」と言ってキーランが再び蝋燭の炎を消しに階段の方まで小走りに向かって行く。
部屋の前の燭台に使いかけのマッチとその箱を見つけて、もしかして…とナディアが先ほど向かい合った時のキーランを思い出す。
(思ったよりも時間がかかってしまったから、申し訳ないわ…)
そう反省すると同時に、この炎ひとつひとつを自分のためを思って灯してくれたキーランに感謝の気持ちを抱く。キーランが一つ隣の燭台の火を消すと同時に、ナディアも同じように、蓋を被せて火を消した。
「待っててくれたの?」
「ええ、…ふふ。キーラン、ありがとう」
二人は夜の空気に包まれる。蝋燭の燃えた匂いが漂い、ふと切なさを覚える。
キーランがナディアの手を取って扉を開けると、部屋の明かりが眩しいくらいで一瞬ナディアの目が細まる。キーランはそのままナディアの手をひいて部屋を突き進み、バルコニーにつながる扉窓のカーテンを開けた。
「まだここからの景色を見れていないだろう?」
窓を開けると半円状のバルコニーにはチタン性のテーブルと椅子が置かれている。部屋からクッションを持ってきたキーランが、同時に部屋の明かりを消す。クッションを椅子の上に置いて、ナディアを誘導した。
腰掛けたナディアの眼前には夜に埋もれるグレーに染まった砂丘が広がっている。風もなく静かな空間の中、隣でキーランも腰掛けると「ナディー」と声をかけた。
キーランの方を見ると、キーランは人差し指を上にして楽しげな微笑みを浮かべている。
何があるのかと見上げたら、そこには満点の星空が見えた。
そこでやっとナディアの視野が広くなり、グレーに見えた砂丘が星空と一体化して今までに見たことのない景色を生み出していることに気づいた。
「わぁ………!」
「俺たちの国だと森が多いから、ここまで広大に開けた景色もないだろう?」
「ふふ、ずっと感じてたけれど、本当に外国に来ているんだと実感していますわ。こんなに素敵な景色もあったなんて……同じ星空のはずなのに全然表情が違いますのね」
「ナディーが喜んでくれたならよかった」
「一生の思い出ですわ!」
思わず席から立ち、バルコニーの縁に手をかけて景色に向かう。
ナディアが落ちてしまわないようにキーランもそばに寄り添う。二人は隣り合って砂丘と星空を眺めた。
月明かりが二人の背後から世界を照らしている。
「そういえば気になっていましたの、キーランがこの国を選んだ理由を。部屋もここを選んだのも、この景色のためだったりしますの?」
「バレちゃった? この部屋、他の場所と違って別の宿泊客が見えないようにできているから、景色に集中しやすいんだって」
「まあ、それではとても人気だったのでは?」
「…実はそれもあって、旅行がこの時期になってしまったんだよね」
二人が結婚して、1年と2ヶ月ほど経った。区切りが良いわけではないが、二人で旅行ができるならと特別気にしてはいなかったが、なるほどそういう理由があったのかとナディアが納得する。
「次は、私がキーランに見せたい景色をプレゼントしたいですわ」
与えられるだけではくすぐったすぎる。
それに、この溢れる愛おしさを返すには同じように愛したいとナディアは強く思った。
「…俺は、ナディアがいるこの景色を見れただけで相当贅沢だと感じているよ。君を連れてきたかったっていうのはもちろんだけど、何より、俺がこの景色の中にいるナディアを見たかったっていうのが本音なんだ」
キーランが自身の毛先をもて遊んでいる。いじっていた手を、今度はナディアのまだ濡れている毛先に移動させて掬い上げる。
「ナディアは星空がよく似合う」
キーランと目があう。視線を合わせるようにして体を屈ませているのだ。
ナディアの髪を掬い上げていた右手を、今度は彼女の後頭部にまわす。キーランの瞳が伏せられ、二人の唇が重なった。
バルコニーの縁に置かれていたナディアの手を、キーランの左手が包み込み、指を絡ませるように繋がれる。
指の間が触れ合うと、ただ手を繋ぐよりもずっと熱を感じ、鼓動までもがシンクロしていく感覚がする。
「っ……キーラン…」
「どうしたの?」
「恥ずかしいわ、外でこんな…」
まつ毛が擦れ合ってしまうんじゃないかという距離で抵抗するも、キーランが再びナディアの唇にキスを落とす。
肩にかけていたショールがするりと抜けて床に落ちると、キーランはナディアの背中に腕を回した。
こんな情熱的な口付けは知らない。
「……?」
やっと唇が離れたかと思うと、ナディアの顔に影をかけたままキーランが動かない。
「…ナディー」
「は、はい」
「この、姿は……」
さっきまではベージュの長いショールで隠されていたナディアの真っ白なネグリジェが姿を現していた。
「これもリタが用意してくれたの。フリルが可愛くて私も気に入っているわ」
「フリル……」
フリルがあしらわれている場所に視線が注がれる。ナディアの胸元まで肌が露出している部分を囲むようにして柔らかく曲線が連なっている。
ショールが巻かれていて隠れていた部分の衝撃で、キーランがフリーズしていた。
「やっぱり迎えに行くんだった……」
「わ、ちょっと重いわキーラン」
ナディアの肩口に顔を埋めるようにのしかかり、再びナディアを抱きしめる。
体格差のせいで少しでも重心が崩れたら倒れてしまいそうなのを踏ん張るものの、キーランが抱き止めているので要らぬ苦労である。
「しかもまた生地が薄いじゃないか」
「お昼の衣装と同じくらいよ? まあ、このまま外を出歩くことはできない作りになっているけれど…」
「隠していたからってちょっとの時間でも一人歩かせるんじゃなかった。こんな格好にさせるなんて注意が必要だな」
「下の階で距離も無かったんだし結果誰とも遭遇しなかったから良いのよ。私がリタに言ってショールで隠すだけで良いと言ったのだから怒らないであげて」
「だとしたらもっと反省してもらわないとダメだ。この国の文化がそうだったとしても、君の魅力でおかしくなる人が何をしでかすかわからないんだよ」
キーランがやれやれと目元を押さえて呆れている仕草をするが、叱られている一方でナディアは彼の耳が昼間のように赤くなっているのを見つけた。
「……私、キーランのために、リタに綺麗にしてもらったの」
「!」
先ほどはナディアが動揺したが、今度はキーランを困らせる番だとマインドを切り替えている。
「お昼の時みたいに、褒めてはくれないの?」
とはいえ、風が吹いて外気に肌がさらされていると実感するとナディアも慣れていないので照れてしまう。
頬に赤みがさし、真っ向からキーランを見つめる作戦も、上目遣いに留まってしまう。しかし、それが効果的だった。
キーランがナディアを軽々と抱き上げ、部屋に連れ戻し、そしてそのままベッドの方へ向かう。ベッドに腰掛けるようにして下ろされ、キーランがその前の床に座り込むようにして俯いている。
「本当に、これ以上は抑えが効かなくなりそうだから勘弁してくれないかな」
「……そんな、抑えなんて必要ないのに」
「だから……」
そうやってナディアを見上げたキーランの頬を、ナディアが両手で包み込み、頬に唇を落とす。
「…私、キーランが、私には星空が似合うって言ってくれて嬉しかったわ」
ナディアは夜のような色のドレスを思い出していた。
「……あの日」
キーランがナディアの瞳を見据えながら、少し言い淀みつつ言葉を紡ぐ。
「冬の、首都でのパーティーの日に、ナディアが着ていたドレス姿が綺麗で」
「…!」
「星みたいにナディアが一番輝いて見えたから、そういう印象が抜けなくて…でもその衣装はきっと合わせてきたものだったから、綺麗だと思うと同時に悔しさもあったんだ」
同じ青い衣装に身を包んだつもりだったが、昼と夜のようにわかれていた。
そんな苦い思い出だったが、キーランが見つけてくれていたのなら、あの衣装にも意味があったのだとナディアはほころぶ。
「あのドレスは、同じ青いドレスの中でも私が一番気に入っているものを選びましたの。合わせたつもりが全然合わないドレスになってしまったのだけれども」
「そうなの?」
「ええ、私は深い青だったけれど、彼はハリストンさんと同じような水色で…今思うと本当に揃っていなかったのだわ」
眉を下げて笑ってしまうと、キーランがようやく立ち上がってナディアの左隣に腰を下ろし、腰に手を回して寄りかかる。
また重いわ、とくすくす笑って、キーランが一息ついて続ける。
「あの日の俺の衣装の色言ってもいい?」
「?」
「ちょうど、あの空に似た暗い青色」
ナディアがハドリーと踊っている姿見た時、二人とも自分に似合う青色で素敵だと感嘆したものだった。
その日のキーランは家族で参列しており、全員深い色で揃えていた。キーランは紺色のタキシードを着ていて、ナディアを見かけた時も、自分が隣に並んだらきっとお揃いに見えただろうに、と切なくなったのを覚えていた。
「……それってなんだか、運命みたいですわ」
「今ちょうど俺も思っていたところだよ」
二人はもう一度視線を交わらせる。今度はベッドに手をついて、覆い被さるようにキスをする。
キーランに求められるまま後ろに倒れ込んでいくナディアを追いかけるように、深い口付けを重ねていく。
ナディアの視界は、キーランと天蓋だけ。
キーランの視線に熱を感じる。
「綺麗だよナディア」
動揺させたかったのに、こんなにもストレートに言われてしまったらもう勝てないとナディアは思った。
だから最後の抵抗に、今度こそ視線をまっすぐ向けて言った。
「キーラン、愛していますわ」
ナディアの言葉に、返事はない。
そのままもう一度覆い被さり、言葉を交わす余裕もなく、愛し合うだけ。
夜の空気が肌を震わせることはなく、たまに通る風に撫でられて心地よさを覚えるばかりだった。
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