第13話

これ以上話すことはないだろうと思い、ハドリーの母が泣き止むのも待たず、付き人たちに退室をお願いした。

付き人の二人はハドリーの母を介抱して扉へ向かう。部屋を出ようとした時に、ハドリーの母はナディアへ向き直り、深く深く頭を下げた。

パタリと扉が閉まれば、ナディアもふぅ…と深いため息が漏れた。


「ナディア様、予定外の対応、お疲れ様でした」

「リタ………ありがとう。紅茶、淹れなおしてくれましたの?」

「すっかり冷めていましたから」

せっかく淹れてくれたのに一口も手をつけることがなかったため、紅茶を淹れてくれていた別の侍女に「ごめんなさい」と眉を下げた。侍女はブンブンと首を横に振り、逆に申し訳なさそうにしていた。

「この後の話も長引かないといいのですが……お疲れでしたら日を改めるのはいかがですか?」

「いいえ、いっそ今日一日でわだかまりを解消させましょう。明日ゆっくりと眠ることにするわ」

少しお茶目な振る舞いでナディアは言った。ぐっと腕を伸ばして、一度体をリラックスさせる。

「ウェルス子爵様のおかげで、これからの謝罪の注目点も見えてきましたもの。かえって先に訪問していただいて助かりましたわ」

思考を切り替え、再び応接室の準備に取り掛かることにした。先ほどの訪問で使った食器や、よれたクッションなどを整えさせ、あとはキーランとハドリーを待つだけになった。



部屋も整え終わり、太陽が西に傾いた頃、部屋で本を読んで待っているナディアたちの元に、ノック音が響く。

メイドが扉を開けると、キーランが「お待たせしたね」と部屋に入ってきた。扉は開いたままだ。向こうにハドリーがいるのだろう。

「話し合いは無事まとまりましたか?」

「うん。爵位保持についての確認や合併後の財産分与とかも、現在の体制を大きく変えずにできるだろうと確認が取れた。あとは首都でこの書類を提出して確認をいただければひとまずは安心かな」

「円満に進んだのでしたらなによりですわ」

ナディアがふわりと微笑むと、キーランは脱力したように深い呼吸をした。

いまだ開かれた扉の向こうの人が入ってくる気配はない。ナディアが視線を向ける。

それに気づいたキーランが、もう一度扉の方へ近づく。

「君のためにナディアが場を用意してくれたんだ。入るといいよ」

応接室は緊張感で満たされた。

ナディアの表情も固くなる。

こんなにも顔を合わさなかったのは人生で初めてのことだったから、長らく会わなかった幼馴染にどう接したらいいのか、ナディアもわからなかった。

おずおずと入室したハドリーは、一瞬ナディアと目が合うと、罪悪感に苛まれたように眉間に皺を寄せて視線を逸らした。彼もまた、どのように対面すればいいのか測りかねていた。

ナディアはソファから立ち上がる。

「どうぞ、こちらへおかけください」

先ほどハドリーの母と話をした際に自分が座った一人がけ用の椅子を指す。しかしハドリーはそちらに移動する前に、深く頭を下げた。

「ハドリー?」

キーランが突然の振る舞いに困惑して呼びかける。ハドリーの頭は下がったまま、絞り出すように声を出す。

、今まで、本当に申し訳なかった」

「……!」


ハドリーはずっと、ナディアのことを愛称で呼んでいた。それが親密さの証だと嬉しく思っていた時もあった。けれど、キーランと結ばれて、大事な時はナディアの名前をしっかりと呼んでくれるたびに、心が温まるのを知ってしまった。ハドリーにしっかりと名前を呼ばれなかったことを思い出して、やっぱり向き合ってもらっていなかったのかもしれない、と考える日もあった。

まさか、こうした形で名前を呼んでもらえるとは思いもしなかった。

ナディアの返事を聞くまでは、ハドリーは頭を上げようとしない。


「……どうか、頭を上げてください。貴方のお話を元に、その謝罪を受けるかどうかは判断させていただきます」

この場は、その精査のための懺悔室だ。


ゆっくりと頭を上げ、ハドリーは促された椅子に向かう。

ナディアとキーランがソファに腰掛けた後に、彼も腰をかけた。

ハドリーは、ナディアとキーランが並んでいる姿を初めて真正面から見ることになった。

「改めて、結婚おめでとう。だいぶ、遅い挨拶になったけどな」

長い間親密だった幼馴染の空気ではない。控えるメイドたちも、迂闊に唾を飲み込めないくらいこの場は冷え固まっているようだった。

元婚約者と、現夫、そして事の中心人物、ゴシップを取り扱う記者がいたら、面白おかしく取り立てられても仕方がないほどだ。それは本人たちが一番実感していた。

冷えた空気からナディアを守るように、キーランはそっとナディアの手を握る。

「ハドリーからお祝いの言葉をもらえて俺たちも本当に嬉しいよ」

キーランの言葉に、ナディアはハッとした。キーランの横顔に、意地悪な様子は微塵もない。心からの謝辞だった。

「どう足掻いたって俺たちは三人幼馴染なんだ。今こうやって顔を合わせることができたのも、結婚を祝うのも、本当は当たり前にしたはずのことだった。どうしてそれに気まずさを覚えなくちゃいけないのか、話し合おうか」

「っ………」

ハドリーは顔を赤くする。

「ああそうだ、俺のせいだ…」

唇を噛んで、この場から立ち去りたい気持ちを堪えている。

ナディアはハドリーがどう続けるのか、じっと見守った。


「俺は、ナディアの愛情に甘えていたんだ」


ハドリーは自身の服が皺になるのも厭わず握りしめる。


「小さい頃から、ナディアが俺を大切にしてくれてることに気づいてた。幼いころは俺もそんなナディアのことが好きだったんだと思う。気恥ずかしくて言葉にはしてなかったけど」

言葉にして伝えていたら何か変わっていたのか。ハドリーもそんなもしもを繰り返していた。今更な話だ。

「ナディアが、婚約のこともあって俺のことを絶対に捨てないのだという確信があったから、何をしても許されるだろうと思ってた。たとえ俺の気持ちがナディアに向いていなくても……ナディアを、蔑ろにしても、それでもナディアはずっと俺のことを見捨てないって……本当に、バカな話だけど」


学園にいた頃は、確かにそうだった。

どれだけ自分に目が向いていなくても、少しの交流で好きの気持ちが溢れた。それがナディアの恋心をいつも新鮮にさせていたし、そのたびにハドリーを大切にしようと気持ちを新たにしていた。

蔑ろにされていると気づいていたはずだったが、ハドリーが好きだからという気持ちで見て見ぬふりをしていた。


「俺が大切にしなかったら、大切にしてもらう義理なんてないって、ナディアと婚約が解消されてレイナとも学園の頃みたいに仲良くいかなくなってからやっと気づいた」

「………ハリストンさんとは、今も続いていらっしゃるのですか…?」

確認のためにナディアが尋ねる。

「続いてるって言っていいのかわかんないけど、俺はまだ関係は終わってないつもりでいる」

気持ちはまだレイナにあるということなのか、そう思ったナディアは、昔の古傷が疼くような感覚がした。

しかしハドリーが間髪を容れずに続ける。

「レイナが俺と本気で添い遂げる気がないというのは知ってる」

ハドリーの視線はキーランに向かっていた。何かを確認するような目つきだった。

キーランが「ナディアには話していなかったことだけど」と口をひらく。

「うちと、ハリストン家との婚約の話が卒業後にあったんだ」

「そうでしたの…」

「俺は既にナディアを迎え入れるつもりだったから、その話はすぐ断ったんだけど、その頃にハドリーと話す機会があったからね」

ハドリーはその時殴られた頬の痛みを思い出して眉を顰めた。そして自嘲するように薄笑いを浮かべた。

「学校では成績も良くて、自分で言うのもアレだけど人気があって、ステータスとしては優れていたんだろうな。でも学校を出ればこのザマ。俺よりも爵位が高い人間はいっぱいいるし、魅力的で賢いやつだっている。俺も……レイナも、本当に浅はかで、ただ刺激が欲しかっただけなんだと思う」

「………」

「ナディアは、ステータスなんか無しに俺のことを大事に思ってくれていたのに」

ハドリーの言葉尻が震えた。ハドリーは俯いた。

「キーランに殴られてからずっと考えた。最初こそ、なんでこの俺がって苛立ちもしたけど、レイナがかつて俺に好意を向けてた理由も、今そっけないのも、全部俺がナディアにしたことと似てると思った。そんで腹が立った。俺はやっと、あの日ナディアが俺に怒ってくれた言葉の意味を理解したんだよ」


『私はずっと、私をちゃんと見て欲しかった!私の感情を、無いものにしてほしくなかった!』

喉が焼かれるような思いで叫んだのを覚えている。後にも先にも、あんなふうに怒りを爆発させることはないだろう。


「俺自身を見て好きになったわけじゃなかった。俺はたとえレイナが平民だったとしても好きになったのに、って」


ハドリーの言葉を聞いて、ナディアは憑き物が落ちたような心地になった。

「……よかった」

思わず言葉が出た。

「え?」

ハドリーが意外そうにナディアを見る。それは隣に座るキーランもだった。

「ハドリーは、きちんとハリストンさんを愛していらっしゃるのですね。それを知れて……安心いたしましたわ」

ナディアの恋心はもうキーランのものだ。

「先ほど、あなたのお母様とも直接お話しいたしました」

「え!? 母上が…!?」

「ご存知ありませんでしたか…? ならば本当に突発的だったのですね…」

ハドリーの馬車の後ろで、距離をとってついてきたのであろうか。ハドリーに知られたくなかったのかもしれない。そう思ったが、ナディアは包み隠さずハドリーの母にどのような謝罪を受けたのか、ハドリーとキーランに告げた。秘密にしろとは言われていなかった。

ハドリーは絶句していた。

「ジョン、兄さんが…」

ハドリーとジョンは側から見ても仲睦まじく、実際喧嘩も少なかったと聞いていた。

ハドリー本人が何よりもジョンに懐いていたのだ。

扱いの差を感じていたジョンが果たしてハドリーにどのような気持ちを抱いていたのか、それを知るものはこの場にはいない。けれどナディアは、ジョンとハドリーの間には確かに兄弟の絆と愛情があったと信じたかった。

「私は、もしハドリーが自分の母の教育のせいだと言うのであれば謝罪を受ける気などありませんでした。けれど貴方も……ウェルス子爵様も、似た経験を経て私の感じた痛みを実感していました。ならばそれ以上、責める気もありません」

ナディアは、愛されなかった日々を思い出して、苦笑する。

「自分自身を見られないことは、辛いでしょう?」

ハドリーに対する最後の攻撃だった。

ハドリーが青ざめ、勢いよく頭を下げる。


「ナディー、悪かった、本当に俺が悪かった! お前を、傷つけてごめん……!」


体裁を取り繕うひまもなく、謝罪の言葉を続けるハドリーに、ナディアもようやく、あの日の怒りが報われたのだと感じた。

キーランがそっとナディアの手を離すと、席を立ち、頭を下げて肩を震わすハドリーの元で膝をつく。


「君が愛し損なった分は、これから俺が愛することでお釣りが来るくらいに補うから」

ね、とキーランはナディアを振り返る。ナディアの言葉を待っている。

「ハドリー、謝罪を受け入れます。これからは統治者として今後関わることも多くなるでしょう。どうか、キーランを支えてください。そして願わくば、私たちの幸せを願い続けてください」

ハドリーは顔を上げることなく、何度も頷いた。

流した涙が、彼の後悔を物語っていた。



その後は夕食を共にし、まだぎこちなさを残しつつも、これまでとは打って変わって穏やかな空気になった。

もう、ナディアもハドリーも婚約同士だった時のことは過ぎたものとして思い出になった。

すっかり夜の帷が下りた。泊まっていけばと提案もしたが、ハドリーは領地に帰ると言ったため、ナディアとキーランは共に見送りについていった。

「ところで、ハリストンさんとは続いているようなことを言っていましたけれど、彼女の結婚については、キーランに申し込んで以来何か進展はなかったのですか…?」

まさか相手の婚約も無視しているのでは…?と訝しげな視線をナディアがハドリーに向けると、いやいやいや、と勢いよく首を振る。

「……俺とナディーの婚約解消がきっかけで、相手探しに難航してるって噂があるんだよな」

「まあ」

「ふーんまあ当然だよね」

「……まさかキーラン、あなた…」

ナディアがキーランを見上げる。

「ナ、ナディア、そんな疑いの眼差しは普通に傷つくよ…。俺はそんな下衆なことをしないって、信じて。……ただ、うちとハリストン家はそこそこ大きいし、婚約話もそれが締結しなかったって話もすぐに広まったんじゃないかなって。特に彼女の家は元々ゴシップの多い家だから、そこに付け込んでネタを探る人間がいてもおかしくないかなと思ったんだよ」

レイナはそもそも、不倫相手との間にできた子供で、当時不倫相手だった人とハリストン伯爵は再婚をはたしたのだという話をナディアも思い出した。

「いくら家に力があれど、醜聞は地位を脅かすからね。彼女の貰い手はそうそういないんじゃないかな。ハドリーを手放せないのも、そういう事情がありそうだと俺は思ってるよ」

「不純な話ですわね」

ナディアが苦いものを食べたように表情を歪ませた。

「……家柄のことを考えると、ありえないってのはわかってんだけどさ、もしレイナが一人になるんなら、俺が幸せにできるように頑張るよ。たとえ俺のことを見限って別の男と関係を持っていたとしても」

そうしたら合併後の手伝いはできないけどな、と冗談めかしてハドリーはキーランに言う。キーランは肩をすくめた。

「それは償いのおつもりですか?」

「いや、まあ、それもあるかもしれない。けど……好きになった人のために尽くせって母上にも言われていたことだし、俺もそうしたいと思う」

「……ハリストンさんと、幸せになれることを私も祈りますわ」

ナディアは祈るようにして両手を握った。

「だって私たち、幼馴染じゃありませんか」

ハドリーとナディアとキーラン、三人は確かに大切で、それ以外いらないというくらい大事な幼馴染だった。それは真実だった。その気持ちは、今もどこかに残っている。

「ありがとう。俺も、二人の幸せをいつまでも祈ってるよ」

ハドリーは手を振り、二人に背を向けた。

もうこちらを振り返ることはなかった。

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