第8話

婚約破棄については、すでに両親に伝えている。両親もナディアの気持ちを尊重して、母親は特に涙を流して話を聞いてくれた。

ナディアとハドリー、二人の間に何か変わることがなければ、卒業の日に、正式に自分から告げる、と両親には予告をした。けれどもあの日から今日卒業の日まで、二人は挨拶の一つも、視線を合わせることもしていない。


「何かあったのか、とは思っていたけれど……。まさかあの日にそこまで…」


キーランは口に手を当て、体調が悪くなったかのように表情を曇らせた。

母親が泣いた時もそうだったが、自分の行動で誰かが悲しむ様子は、ナディアの心も苦しくさせたが、それよりも感謝が優った。

ナディアはキーランの前に立ち、笑顔を向ける。

「ありがとう、あなたが強く同情してくれるから、わたくしは救われていますわ」

「だってこんなの、あんまりじゃないか」

ついにはキーランの青い瞳に涙の膜が張る。ナディアは思わずギョッとして慌てふためいた。

「キ、キーラン!?そんな、なんであなたがそこまで…!」

ハンカチを差し出して、今にも溢れそうな目元にあてる。

キーランはそっと、ハンカチを持ったナディアの手を掴んで自らの頬に寄せた。

「俺は、ナディアがハドリーをどれだけ愛していたか知っているよ。二人が幸せになることが俺の望みだった。けれど……ハドリーの気持ちも、そしてそれを見ている君の苦しみも、知り得なかった自分のことを情けなく思ってる」


パーティーの日、キーランは結局ナディアと会うことはなかった。

二人がダンスをしている姿をキーランは遠目に見かけていたが、それに安心して二人を追いかけることはしなかった。二人だけの時間を大切にして欲しかったからだ。

だからいつの間にか帰ったナディアを知ることもなく、その後は一瞬、別の女性とホールの外で話し込んでいるハドリーを見かけたのみだった。

あの時一緒にいた女性が、レイナだったとは気づかず、今向こうで楽しそうにしている人の輪の中でハドリーとレイナの姿を確認すると、確かに背格好が一緒だったな、とキーランは思うのだった。


「私を見ていてくれるのは、いつもあなたばかりね」


きっと、ハドリーと比較しての言葉だろう。

苦笑するナディアが痛々しくて、キーランの涙がついにほろりと流れる。

それにまた驚いて、今度こそ涙を拭うナディア。ハドリーよりは背が低いとはいえ、小柄なナディアはこれまた一生懸命に背伸びをしていた。

いじらしく、愛おしい。

どうして君が幸せになれないことがあるんだろうか。

キーランはその事実が苦しくて仕方ない。


「ナディアは、この後に破棄の申し出をするのかい?」

涙を拭うハンカチの手が少しだけ硬直する。

ナディアはキーランをまっすぐ見つめて、こくりと頷いた。

「……彼が受け入れればの話ですわ。きっと、そうなるでしょうけど」

婚約破棄には両者の同意が必要である。契約を交わしている以上、ビジネスとして正式に手続きを行わねばならないからだ。

この婚約、ゆくゆくは行われたはずの結婚には、ナディアのフローリネ家とハドリーのウェルス家による一つの約束も含まれていた。

それは、お互いの領地の合併である。

ウェルスの領地はハドリーの兄であるジョンが治める話になっていたが、それでも経営難の解決には手立てがない状態だった。そこで持ち上がったナディアとハドリーの婚約話で、同じように苦しんでいるフローリネ家の領地を併せることで、共有財産として守り立てていこうという話になったのだ。

領地の合併と経営が持ち直せば、その規模はキーランのユースティス家と同等となる。

かつてはユースティス家の副官として周辺領域を治めていたフローリネ家とウェルス家、それによって子爵の称号が与えられていたのだが、この結婚がうまくいけば伯爵階級を賜ることもあったかもしれない。

もしもウェルス家が伯爵階級に強い執着を持つならば、結婚を押し進めようとするだろう。

けれど、階級よりも、ナディアは残りの自分の人生について案じていた。

もしもハドリーに真に愛されないまま、生き続けるとしたら…。子をもうけたら、ひどく執着して自分が自分ではなくなってしまうかもしれない。あるいは、子供すらおらず、適当に離婚を切り出され、爵位も失い、本当に孤独になるかもしれない。

もう、ハドリーが自分を愛するという選択肢は、ナディアの中に生まれることはなかった。

そのために努力することも放棄したからだ。

今までだって無理だったのに、無条件に愛されるなんて天文学的な数字だろう。


「たとえ破棄を受け入れられなくても、私は己のために立ち向かうつもりです」

「……もしもの時は、裁判を起こすと」

「ええ。そうならないことを願いますが……もし裁判になったら不利なのは私の方なので、避けたいですわね」


感情の話は、契約の下では無意味な話だ。

ナディアもわかり切っているが、それでも抗いたいと願っている。

涙もおさまったキーランは、勇気づけるようにナディアの手をぐっと握る。


「その時は、俺が力になろう」


真剣な眼差しに、ナディアも心を動かされた。


「それに、ナディアは別に不利じゃないよ」

「そうなのですか…?」

「うん。昨今だと有耶無耶になっているけれどね、そもそも婚約中の不貞に関しては、完全に契約違反なんだよ。暗黙の了解みたいな感じで問題にしない人が増えたから、そういったいざこざもすっかりなくなったけれど」

「!」

「改めて婚姻に関する法についておすすめの本を教えるね。確かにこういった話って、学園じゃ端無はしたないとされて話題にもならなかっただろうし」


嫌な予想に気落ちしていたナディアは、予想外の言葉に目をしばたいた。

なんだ、それなら…と思った瞬間、気張っていた体の力が抜けるようで、膝がかくんと折れてしまう。


「ナディー!大丈夫かい?」

「あはは、私ったら………ふふ、あははっ」


キーランに大丈夫かと言われて、先ほどまで抱えていた緊張が逆におかしく感じてしまった。

立ちあがろうと後ろに手をやって力を入れると、肩がぽきっと音を出す。どうやら強張っていたせいで肩に力が入りすぎていたようだ。


「ナディアが笑顔になってよかった」


ナディアに手を出したキーランも、すっかり嬉しそうに笑顔を向けていた。


———ああ、改めてキーランはいつも……


自分のことを元気づけてくれる人なのだな、と、ナディアは思った。


「私、行ってきますわ」

「ああ、何かあっても俺がついているから、安心してね」

「はい!」


ナディアは、ハドリーやレイナたちが談笑する輪の方へ歩き出す。

凛とした後ろ姿をキーランは眩しげに見つめている。


ナディアが自分から人の輪に声をかけるなんて、これまで無かった。

全ての儀式も終えてあとは帰るだけの集団は、すっかり娯楽を楽しむ気持ちで盛り上がっている。

だからこそ、ナディアが「失礼」と声を通した時には、なんと珍しいことかと全員の視線がナディアに向かった。

水を打ったように静かになり、注目を浴びるナディアは、いつも教室の隅で本と向き合い縮こまって見えた彼女と結びつかない。背丈は小さいが、眼差しも姿勢もまっすぐで、堂々としている。


「ハドリー、お話があります。来ていただけますよね」


この輪の中心人物であるハドリーを名指しして、周囲の動揺は一気に増した。


ハドリーとナディアが婚約者であることは周知の事実であったが、それ以上に、冬休みが明けてからは、その認識もほぼ無かったこととなり、逆に、ハドリーとレイナの親密さが当たり前になっていた。

ハドリーとナディアに関しては「もう終わったこと」として、片付いたものだったのだ。


「私は、この場で話を進めても良いのですが」

「わ、わかった、話そう。みんな、悪いな…そういうことだからちょっと抜ける」


気まずそうにしていたハドリーも、この注目の中ナディアと話をするとなればいてもたってもいられず行動に移すしか無かった。

人気者だからこそ、好奇の視線には敏感だった。


ハドリーの返事を聞いてナディアはくるりと踵を返し、集団から離れる。

ハドリーは急いで彼女の後を追い、残された人々は小声で噂話を始めた。

あの夜と同じ構図になったことに、ハドリーは嫌な汗と罪悪感を思い出す。ナディアの様子が今までと違って堅苦しいことも、未知の感覚で恐ろしいとさえ感じていた。


二人は講堂の中に入った。

先ほどまで卒業式をとり行っていた場所だが、今はすっかり片付けも終わり、がらんどうである。

もうすぐ傾くであろう日差しが、ステンドグラスをキラキラと輝かせていた。


「随分と楽しそうで安心しましたわ」


ナディアの言葉にハドリーはびくりと肩が震える。安心という言葉とは裏腹に、その声色は平坦なままだ。

いつも笑顔で楽しそうな愛らしい声とは全く違う、冷え切ったものに、ハドリーは居心地の悪さを覚える。


「あなたと私って、今どのような関係だったかしら」


ナディアはハドリーに問いかけた。

ハドリーが答えるまで、じっとナディアは彼の目を見据える。


「……婚約者だ」


いつも人の中心で話題を動かす人間とは思えないくらい、小さく弱々しい返答である。


「そう、婚約者でしたわね。まだそう名乗り合うことが有効でしたのね」

「ナディー、悪い……お前との婚約関係を蔑ろにしたいわけじゃなくて、周りが勝手に…」

「なんのお話ですか?」

「っ……」

「レイナ様とのご関係のことですか?もうそのお話は、年末のパーティーで済んだことでしょう?」


ハドリーはナディアのことがすっかりわからなくなっていた。

彼女から感じられる威圧感を取り除く方法は、謝ることではないようで、もうお手上げである。

逃げ出したい、そう考えてしまうほど、ハドリーの頭は混乱した。


「いいじゃないですか、あれからさらにレイナ様と関係を深めることができているのなら。これから話す内容は、きっとハドリーにとってはいいお話になりますわ」


両手をぱんと合わせて、初めて笑顔でナディアが言う。

ポジティブな言葉と態度を向けているにも関わらず、ハドリーは顔を青くしたままだった。

手を下ろし、姿勢をまっすぐに、ステンドグラスを背景にしてナディアは立つ。

口元に微笑みを携えたまま、彼女は言い放った。


「ハドリー、どうか私との婚約を破棄させてください」


講堂の中に、ナディアの声がわずかに反響した。


「私は、地位や約束事よりも、自分の気持ちを選びます。もしも応じないのであれば裁判に持ち込んでも構いません」

「そんな、ナディー、俺が、俺が悪かった、レイナとは別れるから」

「別れる?つまり今正式にお付き合いなさっているということでしょうか」

「いや、その」

「それならば余計に都合がよろしいではありませんか。婚約を破棄したく無い理由が他にあるのですか?」

「だって、俺たちの領地はどうなる、お前の両親だって苦労してきたんだろう。それなのに勝手にここで取りやめたら、お前の家も困るだろう」

ナディアが家族を愛していることをよくわかっているから、ハドリーは引き合いに出したのだとナディアもすぐに理解した。腐っても幼馴染である、ハドリーは確実にナディアの弱点を知り得ていた。


「両親には年末に既に話をつけております」

「そんな」

「領地や爵位についての不安がおありなのでしょう?それでも私は婚約破棄を望みます。あなたばかりが都合の良い結婚など、絶対にいたしません。どうぞレイナ様とそのままご結婚なさればいいじゃないですか。彼女の家はユースティス家同様伯爵位。領地も爵位も彼女と結婚すれば望み通りの場所に収まりますわ」


ハドリーが婚約破棄に応じ得ない理由は、ナディアもなんとなく察しがついていた。

ハドリーは、予想外の事態にとことん弱いのだ。

懇切丁寧に解決策と結果を教えたとて、ハドリーにとっては「ナディアとの結婚」が、幼い頃からの確定事項として刷り込まれている。それを中心に人生設計でも立てていたのだろう。

彼が勉学に秀でているのも、学問の中の決まったレールに乗れば良く、苦労することがなかったからだ。

逆に、レイナとの恋が発展したのは、予想外の感情だったからこそ暴走して盲目的になった結果とも言える。ナディアへ意識がいかなくなったのも、その予想外の感情に振り回されたからだ。


だからこそ、改めて自分を律して客観的に見られたのなら、こんな事態にはならなかったのに、とナディアはため息をついてしまう。


「あなたの返事を待っています。どうぞ婚約破棄に応じてください」


ハドリーが言い淀んでいる。このまま強気であれば、ハドリーはじきに折れるだろう。

静寂が長い時間、講堂内を支配した。

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