第9話

結論から言えば、婚約破棄は成立した。

あの日、ハドリーの母親に相談していたことも功を奏して、婚約破棄についての両家の同意はあっさりと通った。

ハドリーは改めて愕然とした。自分の預かり知らぬところで話が進んでいたことも、そしてそれが自分の盲目的なことが災いしての結果だということも。


卒業してから1ヶ月が過ぎた。

ハドリーはレイナとの関係が続いていた。領地経営に関しては、ナディアとの結婚がなくなった今、長男のジョンに任せるという約束に戻ったため、ハドリーは補佐としての勉強は続くも、責任は軽くなった。そうして生まれた時間で、彼女と会う頻度が増していた。


けれど、レイナは学園にいた時よりも熱が冷めているようにハドリーは感じていた。

その理由がわからないまま、今日も彼女と別れて、自領地に戻る。


ナディアに言われた通り、ハドリーはこうなっては、すっかりレイナと添い遂げるつもりでいた。

なのに彼女の態度が降下しているとなると、不安ばかりが押し寄せる。

解決策がわからず、仕事にも身が入らなくてジョンにたしなめられてしまった。


屋敷の中で部屋に戻る途中、応接室から出てきたキーランと出くわした。


卒業式の日もまともに挨拶すらしておらず、ハドリーは、キーランとはナディア以上に会話をするのが久しぶりの相手だった。

キーランは領主として父親と共にハドリーの母親とビジネスに来ていたようだ。ハドリーはキーランに数歩先を行かれているような感覚を覚えた。


「ハドリー、経営の方は順調かい?」

目が合うと、キーランからそう声をかけてきた。


「……あ、ああ、兄さんが本当に賢くて、ありがたい限りだよ。……俺が結婚するまでもなく、なんとかなりそうで安心してるんだ!」

「………」


いつもだったら、周りが笑ってくれそうなものだったが、キーランは視線を鋭くするのみだった。

幼なじみとして気の置けない仲のはずだが、どうにもうまくいかないことにモヤモヤする。


「ハドリー、久しぶりに長話でもしよう」


キーランがにこりと笑って提案した。ハドリーもそれには快く応じた。

レイナとの関係や不慣れな領地経営による疲労もあり、卒業してからはめっきり友人たちとの交流も減ったのでキーランとの会話に癒しを求めていた。

ハドリーは部屋のソファに、どかりと腰を下ろし、執事に持って来させた酒をキーランの分まで注ぐ。

「いいのかい、こんな上等なの」

「キーランも頑張ってるんだし、たまの贅沢くらいしようぜ」

「ふふ、そうだね」

二人のやりとりは穏やかだ。酒も回ればもっと盛り上がるだろうと思ってのハドリーの采配だった。

ハドリーはぐいっと一気に飲み干すが、対するキーランは一口飲んで味わい、もう一口堪能したら、コトリとグラスを置いた。


「彼女とは続いているのかい?」


キーランが微笑んで尋ねた。

ぎくりと手が止まり、2杯目を飲もうとしたハドリーのグラスは、止まった衝撃で中身が少しだけ溢れる。

「か、彼女っていうのは…」

「あれ、ハリストン嬢とお付き合いをしているんじゃなかったっけ」

「………あ、ああ、そうそう、レイナ…ああ、続いてるよ」

キーランの一家は婚約破棄の場にいなかったため、もしかしてナディアとの関係のことを言っているのかとハドリーは動揺したが、認識は間違っていなかったようで深いため息がでる。

どこでレイナとの関係を知ったのだろう、と一瞬思ったが、年明けから学園内では密やかに噂されていたものだったから、きっとそこで聞きつけたのだろうとハドリーは勝手に納得した。


「その彼女は、本当に君を愛しているのか?」


キーランの言葉が、やけに刺さった。

彼の視線も、射抜くようにハドリーを捕らえている。

楽しい雰囲気にするはずの酒も、効力をなしていない。


「あー……それが、ここ最近、ちょっと上手く行ってないんだよな」


ハドリーは、幼馴染相手だからと素直に本音を吐露する。

キーランの眼差しに突き刺す攻撃性を感じつつも、ただの違和感だと無視して話を続けた。


「学園にいる間はレイナと本当に仲が良くて、それが続くもんだと思ってたんだが……俺はこんなにも彼女を愛しているのに、最近温度差を感じてるんだよな。なあキーラン、こういう時って何が原因なんだと思う?どうしたら彼女の機嫌を直せるかな」


純粋な恋愛相談をしたかったハドリーは、真摯に悩みをぶつける。

しかし、キーランの瞳は冷め切っていた。その眼差しとかちあうと、ぞくりと鳥肌がたった。

こんな眼差しは、今まで受けたことがなかったハドリーは、嫌な汗と動悸が治らない。


「ハドリー、君がそんなに愚かだとは思いもしなかった」

放たれたのはただただ失望の言葉だった。

キーランは目の前に置かれたグラスの中身を一気に飲み干すと、姿勢を崩して背もたれに体を預けた。


「ねえハドリー、君にとっての愛ってなんなんだ?」

「え……?」

「君の言い分はまるで、自分に非がないようだ。愛の冷め方なんてたくさんある。君もそれは知っているはずだろう」


キーランが言わんとしていることは、すぐにハドリーに伝わった。

ナディアとの婚約破棄の詳細を、知っているのだと。

幼馴染という強固な関係性が無意味に思えた瞬間だった。そこにいるキーランが、得体の知れない別の人間に感じて仕方がなかった。それほどまでにハドリーは居心地の悪さを痛感している。


「君は本当に愛しているのか?好きとはどう違うんだ?これまでのハリストン嬢からの愛情って、ナディアにしてもらっていたものと比較してどうだった?……と聞きたいところだけれど、意味のない質問だったね」


当然深く愛し合っていた、と返答しようとしたが、先にキーランが呆れたように言葉を続けるから、ハドリーは言い淀んでしまった。


「ハドリーにとってはナディアからの愛が当たり前だったから、そもそも気づいてすらいなかっただろう。彼女からの愛が、彼女の存在が、どれだけ尊くて大切なものだったか」


ハドリーは、『興味がない』のだとナディアに言われたあの夜を思い出す。


「ハドリー、君はかつて、ナディアをちゃんと愛していたんだよ。けれど、一時の感情に翻弄されて彼女をおざなりにした。君が抱いていたナディアへの愛情が、適当に扱って良い存在だとナディアへの認識を変えたんだ。相手を尊重するのを忘れてしまう、そんな馬鹿らしいものに変容した」


キーランの瞳に宿るのは明確な怒りだ。強く強く責められている現状に、ハドリーも理解が追いつかず苛ついて叫び出しそうになる。

けれども、キーランの言葉には全て聞き覚えがあった。あの時、あの夜、ナディアに言われた内容と同じだということに気づいていたから、数ヶ月の間を置いた今、さらなる実感としてキーランの言葉が突き刺さる。


「きっと、学園という新しい環境での君の扱いや、ハリストン嬢との恋愛という知らない刺激によって、勘違いしてしまったんだね」


今度は憐れむような視線で、ハドリーはカッと恥ずかしくなる。

間髪入れずにキーランは続ける。


「君は、ナディアを蔑ろにしたんだ。侮辱だ。最低な行為だ。謝って許されるものじゃないんだよ。彼女の負った傷をきちんと理解するまで、君は恋愛なんかするもんじゃない」

「……そんなの、キーランが決めることじゃないだろう、何様なんだよ!」

「俺は、、愛する人を傷つけられたんだよ」

「!!」

「本当はこんなふうに言いたくなかった。お前とナディアの幸せを願っていたから。ナディアがいっときでも愛したお前のことを悪く言いたくなかった。でも今日のお前はなんだ?俺と会ってすぐに、ナディアとの婚約破棄を、笑い話にしようとしただろ。許せなかった。その上、ハリストン嬢との関係もまるでわかっていない、おままごとみたいな感想で嫌気がさした」


キーランは眉間に皺を寄せて、ハァァ、と重いため息をつく。怒りで取り乱しそうな自分を諌めようとした。

これまでにないキーランの怒りに、ハドリーは言葉もない。

そんな彼に追い打ちをかけるように、キーランは「これは君にいうか迷ったけれど」と切り出す。


「俺の家に、ハリストン家から婚約の話が持ちかけられたよ」

「え…………?」


レイナの家はレイナしか跡継ぎがいない。対してキーランの家の未婚の男性となると、それもまたキーランしかいない。ということは必然と、両家の婚約話はキーランとレイナが対象となる。

ハドリーはサァっと血の気が引いた。


「しかもハリストン嬢本人は乗り気で俺に挨拶しにきたよ。まあ、ビジネスだから、恋愛的なアプローチが含まれていたかどうかは俺には分かりかねるが」

「な、そんな……」

「ハリストン嬢の君への関心が薄れたのって、学園という箱から出て君の程度が知れたからだろうね。学園内では君は確かに優秀で人気者で、人の中心にいた。君に憧れる令嬢もたくさんいたのは知っているよ。けれども、人生は学園を出てからが本番なんだ。その学園の外で君は一体何をしている?」

「でも、レイナは、俺の事を愛してるって……」

「だから言ったじゃないか。それって本当に愛なのか?と。残念だったね……ナディアはあんなにも愛してくれていたのに」


ハドリーは両手で頭を抱えた。これまでのレイナとの思い出が、そしてナディアとの幸せな記憶が瓦解していくような心地がした。


「ちなみに婚約は断ったよ。君のためじゃない。俺には幸せにしたい相手がいるんだ」


項垂れるハドリーの前に立ち、キーランは彼の襟を勢いよく掴んだ。

すっかり正気を失いつつあるハドリーは、情けなくキーランを見つめ、キーランはそのどうしようもなさに辟易とするも、ぐっと目を瞑って、もう一度開き、睨みつけた。

次の瞬間、キーランの右手が、真横からハドリーの頬を強く殴打した。ハドリーは長いソファに全身を沈める。

じんじんと痛む殴った右手を強く握る。


「今度は俺たちの幸せを願ってくれよハドリー」


愛を知り得ないハドリーに、ほんの少しの希望を持って、キーランは吐き捨てた。

放心状態で動かないハドリーをそのままに、部屋を出る。部屋の外で執事が微動だにせず待機をしている。きっと中の言い争いも聞こえていたであろうに、キーランを咎める事なく、執事は腰を折った。


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