第6話
庭の喧騒がだんだんと遠くなる。
いつもハドリーの後ろでついてまわっていたはずのナディアが先導している今の状況に、ハドリーも当惑した。
すっかり日は落ちて、空は星が瞬く。
灯りの設置もない庭の端では、白いガゼボが暗い空間の中、月の光をうっすらと浴びて佇んでいるようだ。遠くの笑い声も虫のさざめきくらいの音量になれば、風が吹いて乾燥した草花がゆれてカサカサと鳴る音の方が目立った。
「ナディー、人酔いしたのか?」
ようやく立ち止まったナディアに声をかけるハドリー。顔をだけを少し後ろに向けて、ハドリーの表情を伺うナディア。
ハドリーは純粋に、ナディアを心配している顔のようだということは、長年の付き合いから理解した。いつもならその優しさが嬉しくてたまらず、もうちょっと甘えたくなってしまうのを律するのに一生懸命だった。
しかし今は違う。この体の奥から湧き上がる灼熱は、アルコールのせいなのか、それとも怒りからなのか、外気の冷たさが気持ち良いと思えるほど、ナディアは煮立っていた。
ふぅ、と深くため息をついて、それを落ち着かせる。
「ハドリーがいつの間にか側から離れていて、探してしまいましたわ」
半分本当で、半分嘘。探してなんかいない。
ナディアが勝手に、ハドリーとレイナのぴったりと合ったコーディネートにショックを受けて離れたことが真実だ。
けれどもハドリーは、あの瞬間、無意識にレイナを優先し、ナディアから距離を取る形になった。なので、ナディアにこう言われてはハドリーも自分の行動に疑念を持って、反省する。
「それで宮殿の入り口で待ってたのか……気付かなくて悪かった」
「いいえ、こうして合流できたではありませんか」
ようやくハドリーの方へ振り返って、ナディアはにっこりと笑った。
その穏やかな笑顔を見てか、ハドリーは露骨にほっとした。
ガゼボの中にちょうどよく腰掛けられる段差があるのを確認し、今度はそちらに向かってナディアが腰を下ろした。ハドリーもそれにつられて、彼女の隣に座る。
「ナディー、さっき言いかけた話なんだが」
「ええ」
「この後のダンス、一曲目に踊ってほしいんだ。ほら、今夜は俺たち婚約者として参列してるから」
何も知らなければ、無条件に喜べた申し出だっただろう。
けれど、一部始終を知った今となっては、その言葉の全てが言い訳に聞こえる。
———婚約者として参列しているのだから、一曲目はナディーと
———
そこに、ハドリーが望んでしたいのだという欲求は微塵も感じられない。そこにあるのは、義務感だ。そして最も残念なのは、ナディアがこの言葉を受けて何を考えているかなんて、セカンドダンス以降のレイラとのロマンスを待ち望むハドリーにとってはどうでも良いことであるということ。
ハドリーはきっと言い淀むだろう、と考えながら、ナディアは返事をした。
「
あなたのことが好きで、独占したいから。
ナディアはたとえ怒りを覚えても、結局、今この瞬間だってハドリーのことが大好きなのだ。
頬を赤らめて、いじらしそうに目を伏せつつ、ちらりと上目でハドリーの返事を伺うような仕草で、そう言ってのけた。
彼との間に置かれた右手を、そっとハドリーの指に近づけようとする。
するとハドリーは触れそうになった左手を、自分の膝に置き直した。
無意識の拒絶だ。
「ナディー、お前は体力が乏しいんだから、そんなに踊ったら明日が大変だろ」
まるで気遣うように言うけれど、暗に断っていることは丸わかりだ。
「あら私、学園生活を経てだいぶ体力もつきましたわ。二曲・三曲だって余裕でしてよ」
「う〜んでも俺が疲れちゃうよ。俺たちは体格差があるから、学園ではできてたこともそう簡単にはいかないと思うが」
こういった会話になったら、ナディアはいつも「それもそうですわね」と言いくるめられていた。いや、言いくるめると言うよりは、ハドリーがそう言うのなら尊重するべきだろう、という思いで折れていた、という方が正しい。
けれど今、ナディアがハドリーに折れてやる必要はない。自分が感じた違和感をしっかり反芻させて、ハドリーとの会話を続ける。
「ハドリーってば、学園での私をよく知ってもいないのにどうしてそう言い切れるんですの?」
「え、え……?……いや、っはは何言ってるんだ、俺たち幼馴染だろ?」
「それは付き合いが長いというだけで、学園生活の私をよく知ることとは話が違いますわ」
「た、たしかにそうだけど、いや、でも別に学園でもお前の様子はよく見てたし…」
よく見てた、とは、いったい何を基準に言っているのか。
ナディアは本当によくハドリーの様子を伺っていた。自分の勉強が一区切りしたらすぐにどこにいるか探しに行ったし、同じ授業の時は常に自然と目で追っていた。学園に入りたての頃は、昼休みになった時も共に食事をとりたくて声をかけようとハドリーを探したが、半年が経った頃には、自分とのペースが合わないのだということを悟って、レイナたちと食堂へ向かうハドリーの後ろ姿を見つめるようになっていた。
「ならば勘違いなさっておりますわ、ぜひ二曲目で私の実力を見ていただかねば」
胸の前できゅっと手を結んで、嬉しそうに話すナディアと、気まずそうに苦笑を浮かべてそれを聞くハドリーの空気感はまるで正反対である。
「でもナディー、お前もせっかくの機会なんだから、俺とだけじゃなくて色んな人とも踊りたいだろ。キーランもさっき遅れて到着してたみたいだし、声をかけに行こう」
「別に必要ありませんわ。ハドリーと踊るだけで大満足ですもの」
「あ、そう…か…」
まっすぐに返事をするナディアにすっかり気圧されている。気まずそうに言葉を探しているハドリーは、もごもごと口篭って視線を泳がせている。
だんだんとナディアも
「実は、な……」
ハドリーが観念したように口を開いた。
「二曲目以降は、先約がいるんだ」
下手に誤魔化しても言いくるめられそうな気配を察したのだろう、申し訳なさそうに眉を下げている。
けれど、その申し訳なさはいったい何に対してなのか、ナディアは予想がついていた。ナディアの「お願い」を聞き入れられないことではない、ナディアの「わがまま」に応えられないことに対してだ。
「どなたですの?」
素知らぬふりで首を傾げてみる。
「……レイナとな、前にそういう約束をしたんだよ」
前に、というのは、一昨日のデートのことだ。けれども明確には言わない。そのことが、一層ナディアの苛立ちを加速させる。
「そうですの、では、先の約束を優先しなくてはなりませんね」
思わず声色が平坦になってしまう。
レイナと二曲目以降も踊ることを了承してくれたことで、ハドリーは打って変わってまた朗らかな表情になった。
「お前とはこれからたくさん踊る機会があるから、その時こそ体力の向上っぷりを見せてくれよ」
ハドリーは知らない。初めて、婚約者として公の場に立つことができたこの日に、ずっと憧れていた宮殿でのダンスに、どれだけナディアが焦がれていたのか。
「なあそろそろ戻ろう。それこそファーストダンスに遅れるだろ」
ナディアの肩をトンと叩いて立ちあがろうとする。
そんなハドリーの左腕を、ナディアがぐっと掴んだ。
「お、おい…」
改めて、ナディアはまっすぐハドリーを見つめる。
風が吹いてナディアの巻き髪が揺れた。
「ハドリー、私、あなたのことが好きよ」
混ざりけのない告白の言葉だった。
いつもとは違う熱っぽい雰囲気に、ハドリーも一瞬硬直するのだが、体をナディアの方に向き直すと
「ああ、昔からそうだよな」
と、勝手知ったる言い様でナディアに片手を差し出した。エスコートをするつもりなのだ。
しかしナディアはその手を取る気はない。
ふわりと口角を上げてハドリーを見つめ返し、その瞬間だけは気心の知れた恋人のような空気を感じたが、ナディアはすぐにその微笑みを崩した。
「ハドリーは私のことなんてちっとも見ておりませんわ」
ハドリーの差し出した手がぴくっと僅かに揺れた。
「私の一世一代の告白を、そのように受け流すなんて、私がそうされてどう感じるか、考えたことがありますの?」
「……え?……え…?」
「私たちは確かに幼馴染ですわ。幼い頃から決められた婚約関係であり、将来が約束されております。けれども、あなたとの関係を、私がそれだけの関係だと考えている…だなんて、いつから思い込んでいらしたのですか?」
ナディアは一人で立ち上がった。
行き場のなくなったハドリーの手がぐっと握られる。
ハドリーの横を通りすぎ、ガゼボから出たナディアは月の光に照らされる。見上げた空は乾燥した空気のおかげで、いつもよりも星が綺麗に見える。
「学園に入るまでは、ハドリーとキーランと私だけでいっぱいいっぱいで、それで満足でしたわ。けれども学園に入ってからは、私たちの過ごす時間はバラバラになっていきました。狭い箱庭から出たら、私たちはこんなにも違う人間なのだと思い知りましたわ」
回想するように、ナディアは言葉を続ける。
こんなに喋り続けるナディアが珍しく、ハドリーも言葉を紡げずにいた。
「優秀なハドリーやキーランと違って、私は頑張らねばついていけませんでした。だから私、とても勉学に励みましたわ。……ハドリーの隣に並ぶ人間として、胸を張れるように。ハドリーが私を見て、誇らしくいてくれるように」
学園での努力の日々を思い返し、胸が詰まる思いがする。
ナディアは唇を引き締めて、それを抑え込む。
「学園生活をあなたのように学友と楽しむだけなら、あんなに頑張らなくたってよかったのです。成績だって、真ん中を維持できれば、少なくとも貴族として及第点だったことでしょう」
それでも、休み時間があれば迷うことなく教科書を開いたのは、他でもないハドリーのため。
「けれども私は、あなたの隣に並び立ちたかった。成績表でいつか、あなたの名前と並ぶことが目標でした」
レイナ・ハリストン、ハドリー・ウェルス、この二つの名前がいつも並び立っていることにナディアがどれだけ嫉妬したか、ハドリーは知らない。
「私が学園での楽しみを放棄してまで頑張ったのも、全てはハドリー、あなたをお慕いしていたからこそですわ」
ナディアとハドリーは改めて向き合う。
ハドリーはバツが悪そうに、眉間に皺を寄せている。
「知らなかった………。でも、ナディー、俺はそんなことを望んでいない。俺はお前が幸せでいてくれたら嬉しい、それは昔から変わらずずっと思っていることだ。なのに、お前が苦しんでいたのはまるで俺のせいだとでも言ってるみたいだ。そんなことは、俺は望んでない」
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