第5話
ハドリーの母は珍しく女領主である。報告会が終わったか、途中で抜け出したか、ナディアのいる場所を通りかかったようだ。
ナディアは急いで姿勢を整え、ドレスを広げて礼をする。
「昨晩は改めて楽しい機会をありがとうございました。ウェルス子爵様。ハドリーは今…学友の皆様とお庭にて談笑なさっております」
「あら丁寧にありがとう。立派になったわね。でもナディアはどうしてここに?学友が一緒ならあなたも混ざればいいじゃない」
ハドリーの母は気の強そうな顔立ちをしている。責められているわけではないのだが、顔立ちのせいで昔から、ナディアは質問をされると萎縮しがちであった。
「いえ、私はその……少し肌寒く、ここで温まっていたのです。それに……」
けれど義理の母親になるはずのハドリーの母に、隠し事をするのはいかがなものかとナディアは逡巡した。
もしかしたら、この気持ちの解決策を一緒に考えてくれるかもしれない。
領主として賢く強気に振る舞うハドリーの母は、ナディアの密かな憧れの人でもあった。そんな人が味方になってくれるのであれば、これ以上なく心強いと思う。
一瞬戸惑ったが、ナディアは改めて言葉を続けた。
「失礼ながら、少し、お時間はありますか?」
「ええ、報告会も終わりましたし、大丈夫よ。どうかしたの?」
「私……その、ハドリーとの婚約について、少し相談がございまして、お話を聞いていただければと思います」
「まあ、それは大変、ぜひ聞かせてちょうだい」
ハドリーの母はナディアの背中に手を添え、一緒に席に腰掛けた。
心配そうにしてくれる様子にホッと胸を撫で下ろし、ナディアはここ数日感じていたことをぽつりぽつりと話し始めた。
ハドリーが自分を大切にしてくれているのはわかっている。
自分もハドリーの妻になるべく、一生懸命励んできた。
これからの将来、幼馴染の関係を下地に、きっと良い夫婦になることはできるであろう。
しかしハドリーにはどうやら別の想い人がいるようである。
その人との交流は、自分よりもずっと楽しそうで、果たして本当に夫婦になったとて愛し合い続けることはできるのか。
嫉妬心を抱いてしまう自分を醜く思いつつも、ハドリーが好きだからこそ考えてしまう。
ハドリーの母は真剣な面持ちで、たどたどしくも一生懸命話すナディアを見守っていた。
一通り話し終わり、ナディアがハドリーの母に改めて視線を合わす。
「ナディア」
御伽話を聞かせるように静かでゆったりとした口調で、ハドリーの母は続けた。
「貴族にとっての結婚は、本来愛を伴わないものも多い。その点、ハドリーはあなたに愛されてとても幸せだと思うわ」
まるで回想するように、ハドリーの母は視線を遠くする。
「私もね、1度目の結婚ではウェルス家のために2度しか顔を合わせていない男性と結婚し、子をもうけたわ」
「………え?」
「あら言ってなかったかしら、ジョンはハドリーと半分だけ血が繋がっているのよ」
ナディアは目を丸くした。
ハドリーの兄ジョンは眼鏡をかけているが、ハドリーの母に似た顔立ちだったから、垂れ目のハドリーとはあまりに似ていないなと思いつつも、完全な兄弟であるということは疑っていなかった。
「けれども、病気ですぐに亡くなってしまってね…1年間だけ、私は一人でウェルス家を切り盛りしなくてはならなくなったわ」
ナディアが衝撃を整理できないのを置いて、ハドリーの母は話を続ける。
「けれどそんな時、今の夫である彼に出会い、私は強烈な恋に落ちた。身分こそ高いものではない彼だったけれど、私が当主になって筆頭に立つことを条件に迎え入れることができた。そうして二人の間に生まれたのがハドリーなの」
ナディアの左手にハドリーの母の手が添えられる。
「もちろん前夫のことは愛していた。彼との子供であるジョンのことはより一層大切に育てたわ。そこにハドリーとの優劣の差はない。あなたの目にもそう映っていたのなら良いのだけれど」
「はい。ジョンお兄様とハドリーは、本当に母君のことを慕っています」
「ふふ、ありがとう。でもね、子供とは別に、伴侶のこととなると、やはりかつてと今とでは、明確な違いがあったの」
ぎゅっと手が握られる。
「強烈な恋は、何よりの原動力であること」
ドキッとナディアの胸が高鳴る。それはとても、身近なことだったから。
「私がこれまで領主として二人の子供を育てながらも続けられたのは、今の夫の存在があってこそだったわ。何よりも、彼を幸せにしたい、彼のためにならどんなに身を砕いたって良い、そしてそんな彼からの感謝の一言が、どんな褒美よりも贅沢でかけがえのない癒しになった」
「………とても、共感できます」
感謝の一言は、まだないけれども。
「そう、だからね、私は再三、ハドリーに言っていたことがあるの」
握られた手が解かれる。
「強烈な恋を、逃さないでほしい、と」
「………」
「きっとあの子は、恋をしているのね」
ハドリーの母は、申し訳なさそうにナディアの横顔を見つめる。ナディアは改めてその事実を突きつけられて、青ざめていた。
「改めて貴族社会での結婚というものは、恋愛が二の次になるということを伝えておくわ。あなたの家はとても仲が良い家だけれど…他者との恋愛が最高の娯楽となってしまうくらいには、貴族の間では結婚の中に愛を見出すことは多くない」
ナディアは実感していなかった。自分の両親も、ハドリーの両親も、キーランの両親だって自他共に認める仲の良い夫婦だったから。
「あなたの心を思うと、私もひどく胸が痛むわ。けれども……息子の純粋な気持ちを、大切にしたいと思う私もいるの。ひどい義母でごめんなさい、どうか、理解してほしいとは……とてもお願いできる立場ではないのだけれど」
ナディアは行き場のない両手を、ぎゅっと膝の上で握った。
「夫婦の愛は、本物になる時もある。今はいっときの熱に浮かされているようなものかもしれないから、どうか貴女が支えてくれると嬉しいわ。…………力になれなくて、ごめんなさい」
ハドリーの母は、正面からナディアを抱きしめ、励ますように背中をさすり、後ろ髪をひかれながらもナディアから離れた。
ナディアは、言葉を紡ぐことができなかった。
いっときの強烈な熱、もしかしたら本当にそうなのかもしれない。
けれど、その熱が引く保証なんて、どこにもない。
ハドリーの母が今でも夫に恋し続けるように、きっとハドリーも恋し続けるんじゃないかという確信めいたものがあった。
レイナはとても美しい人だ。道すがら男性がふと振り返ってしまうような、そうした容姿的な魅力も、笑った時に人を誇らしくさせるような特別さも、いつだって人の中心になるようなカリスマも、そして何より、ハドリーと並んだ時にしっくりきてしまう光景も、何一つ、ナディアがレイナに勝てそうなものはない。
いや、一つだけ、ハドリーと過ごした年月だけが、ナディアが唯一勝てる要素だ。
しかし、だからなんなのだ、と更なる虚しさに襲われる。
それにしがみついているのは、自分だけだ。幼い頃からの約束も、交わした言葉も、たった今ハドリーが感じている恋心の前では塵芥も同然だった。
「ハドリー、そっちにあったかしら」
窓の外からレイナの声が聞こえた。
はっと息を呑んで、思わず身を小さくする。
座っていれば、高さ的にナディアの姿が見えなさそうだということを確認すると、ナディアはそっと席を離れて、窓際に近寄った。自分の体が見切れないように慎重に壁に寄り添い、両開きの窓の片割れを少しだけ押して、声がより聞こえるようにした。
どうやら、レイナとハドリーは探し物をしているようだった。
「ああ、あったよ、ほら」
「あ〜〜〜よかったわ!あなたが追い出されるところだった」
「まさか、俺がそんなへまをすることがあると思ってるのか?」
「ええ?どういうこと…?」
追い出される、ということは、探し物は参列者証明の時にもらったピンのことだろうか。ナディアはふと自分の腰元にさされている小さなピンを確認した。
「レイナと二人きりになりたくてさ」
ズクンと血液が嫌な音を立てる。
「ドレス、本当に似合ってる。まさかこんなにぴったりな色になるとは思わなかった」
「私たちって本当に気が合うのね」
「青色だと言ったらこっちの色がレイナには似合うかなと思って」
聞きたくない、聞きたくないのに、この場を離れることができない。こうなったら、ハドリーの気持ちの全てを、知りたかった。
「婚約者がいるのにひどい人。愛はないの?彼女はあなたのことがきっと好きよ」
本気で呆れたようなレイナの言葉は、ナディアへの同情の気持ちを感じられる。
レイナの言葉に少し間を置いて、ハドリーはあははっと軽快に笑った。
「そりゃあそうさ、俺たちは幼馴染だから。でも違うよ、たしかにナディーは俺を愛してくれているだろうけれど、それは俺がレイナに向けた感情とは違うものだ」
「そうなの…?」
レイナの声も、熱っぽくなる。
「幼い頃からの約束だし、両家のためにも彼女と一緒になることは間違いないけれど、母上がいつも言ってくれていたんだ、強烈な恋心は大事にしろって」
この場合、責めるべきはハドリーの母なのか、それともハドリー自身なのか、その言葉を受け入れられないナディア自身なのか、ナディアの存在を知るレイナなのか、わからなくなっていった。
「あの子、かわいそう…」
「貴族の難しいところだが、ナディーに幸せになってもらいたいという気持ちはある。俺との結婚は通過点にして、ナディーにも本当に好きな人が現れるといいなと願っているんだよ」
「あなたは彼女のお兄さんかしら?」
「ん〜まあそんなところ?」
「どこに幸せになるまで結婚してあげるお兄さんがいるのよ」
「今の時代おかしな話じゃないだろ?そもそも君の家だって不倫恋愛の末収まった家じゃないか」
「それを言われたら何も言い返せないわ」
つまるところ、領主さえ変わらなければ、伴侶は誰だって良いのだ。
レイナの家ハリストン伯爵家は、一度離婚し、再婚の際には別の子爵の妻である現在のレイナの母を貰い受けたと有名になったことがあるという。
ナディアは知らなかった。知らなくても良いことだった。
「レイナ、このあと一緒に踊ってくれないか?セカンドダンス以降は、ぜひ君と」
「改まってどうしたのよ。この間もそう約束したじゃない」
「物見台からの景色に見惚れて、忘れて別の男からの誘いを引き受けたんじゃないかって心配で」
「……そんなわけないでしょ」
二人の会話は、一旦そこで終わった。
布の擦れる音が、嫌にナディアの耳に響く。
何をしているかは想像に難くなかった。
不思議と涙は流れなかった。ナディアは窓際を後にして、その場を立ち去った。
庭に戻ってハドリーから声がかかるのを待たなくてはいけないのだと、冷静にシミュレーションをしていた。一方で、沸々と煮えたぎる思いが体を支配していた。
レイナとハドリーの会話の全てに、腹が立って仕方がなかった。こんな思いは初めてだった。
ハドリーの母の話や、レイナの家の境遇を知ったことで、価値観の相違についてはもはや理解してしまった。
しかし、ハドリーの自分に対する認識の全てが間違っていることが、許せなかった。
こんなにも、10年以上、ハドリーのために、ハドリーがいるからと奮い立たせてきた自分を否定された気分だった。
先ほどまで感じていた熱も、ハドリーの笑顔にときめく心も、ハドリーの母に罪悪感を持たせたこの気持ちを、彼は一切知り得ていないことに。
庭園に戻りウェイターの元へ近づくと「一ついただけるかしら」と水色の飲み物を指差した。
「申し訳ありませんレディ、こちらはアルコールでございます」
「成人の年ですからご心配なさらず」
腰元のピンの色は赤色、去年までは青色であったが、学園を卒業する年は成人同然とみなされるため、アルコールの摂取も許されていた。
「これは大変失礼いたしました」
おおかた、背丈と童顔なことでまだ未成年と勘違いしたのだろう。つくづく面倒臭い体格であると嫌になりつつも、ナディアはそれを悟られることもなく、ウェイターに微笑みかける。
ぐっとそれを一気に飲み干し、もう一度空のグラスをよこして、会釈をする。
その勢いにウェイターもつい見入ってしまい、「あ、ありがとうございました」と声がどもる。
アルコールが一瞬で回り、体が火照るのを感じる。
宮殿の入り口近くの街灯の下で佇んでいると、案の定、ハドリーが一人宮殿から姿を現した。
「ああ、ちょうどよかったナディー」
先ほどのことに対する一切の罪悪感のない声かけに、ついナディアは睨みを利かせた。いけないいけない、ともう一度視線を伏せるが、その珍しい視線にハドリーも戸惑う。
「顔が赤いが間違えてアルコールを飲んだのか?あとで水もちゃんと飲めよ」
「ええ」
「そうだ、ナディー、このあとのダンスなんだが———」
「ハドリー、少し二人きりになりませんこと?」
ナディアは伏目がちの目のまま、視線だけをハドリーによこし、人のいない東の庭園を指差した。ガゼボが目立つものの、街灯がなく誰も寄り付いていない。
ハドリーの返事を聞くまでもなく、ナディアはさっさとその方向へ歩き出した。
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