第2話

その日の夜は寝つきがひどく、ナディアはとても鮮明な夢を見た。

夢というより、記憶と言った方が正しい。


強い日差しの下では溶けてしまいそうな暑い日だったから、なるべく日陰を選んで教室を渡り歩いている。

社交のためのマナー講座や、帳簿のために必要な数学、簿記の期末試験……。どれもナディアは得意とは言えなかったが、ひたすら努力をして、好成績を修められるように気をつけていた。

昔とは違って、ナディアが生きる時代では、女性も領地経営を担うことが多く、社交界では華のようにただそこにいるだけでは価値がなくなった。教養が求められ、それが新たに価値になる時代。実際ハドリーの家も、ハドリーの母親が最高権力を持って貴族としての地位にいる。男女としての区別が薄れ、学園の存在意義も、男女平等になった。

だからこそ、将来ハドリーの嫁として恥じることがないように、ナディアは頑張らなくてはならなかった。

立場が平等になったからこそ、嫁の価値は夫の価値にも強い影響を及ぼすようになった。

馬鹿な嫁が入ってきたとなれば、優しいハドリーがどこかで陰口を叩かれるかもしれない。ナディアはそういった強迫観念を持って、幼い頃から彼のためにと全ての作法・教育に心血を注いだ。

マナー講座はまだしも、社交ダンスに関しては小柄な体格が災いして人よりも大きな動きを要求されるし、すると今度はガサツに見えて優美さをなくしてしまうということで、神経をすり減らしてしまう。

本を読むことは好きだから歴史学の知識は頭に入るものの、数字には馴染みがなかったから苦手意識が大きかった。なので計算をマスターするまでに人一倍時間がかかった。


「ナディー、今回も上位まであと一歩だったな」


張り出された成績表の前に立っていたら、上からハドリーが声をかけてきた。

勢いよく顔を上げると、壁に貼られた成績表をじっくりと見つめるハドリーがそこにいた。

「ハドリーは今回も安定していたわね」

自分の成績結果を見るより先に、ハドリーの名前を探した。ハドリーは要領が良いので、いつも成績上位にいた。いつも探しやすくて、そして誇らしいなあとナディアは思っていた。

「前回と同じだからすぐに見つかったよ」

ようやく成績表から目を離したハドリーと、視線がかちあう。

優しげな目元の、深い緑の瞳を久しぶりに見れて、ナディアはきゅうっと胸が高鳴るのを感じた。

「私、次こそハドリーに並ぶように頑張るわ。今回は簿記が…特に難しくて、小さなミスがいっぱい目立ってしまって…」

「明確な弱点を理解してるなら対策が早いし、次は大丈夫だろう」

ハドリーの大きな手が、ナディアの頭をぽんぽんと優しく撫でる。

「一生懸命で偉いぞ〜ナディー」

「もう!またそうやって余裕そうに…!」

顔をあからめて反発するも、頭に残った彼の体温にときめきを感じざるを得ない。からかっているだけ、幼い頃からの癖、身長差がちょうどいいから彼の手がそこにおさまりやすいだけ、とはわかっているけれど、こうしたスキンシップは長年の関係から生まれたものであることもわかっているから、特別感を覚えてナディアは嬉しくなる。


「相変わらず仲良しなこと。お二人さん」


ふふっと可憐な笑い声を携えて、白金のまっすぐな絹のような髪の毛が揺れる。

レイナが数名の友人たちと一緒に、二人の後ろにいつの間にか立っていたようだ。


「レイナたちは今回どうだった?」

ハドリーはすぐに彼らに向き直る。ハドリーがレイナたちの輪に加わると、それは教室でもよく見る光景になった。

彼らはいつも明るく賑やかで、ナディアには眩しく映っていた。

「俺はもう〜〜〜ぜんぜんダメ!」

「私も得意科目は良かったけど、苦手科目は赤点ギリギリでしたわ」

お調子者のライアン、おしゃれで気の強いマリーが大袈裟にため息をつき、周りがそれを面白がって笑う。

「私のはもうわかるでしょ?」

レイナは得意げにハドリーにそう言いやった。

ナディアがもう一度成績表に目を向けると、その態度の意味がわかる。


レイナ・ハリストン

ハドリー・ウェルス


彼の名前のちょうど一個上に、レイナの名前があった。


「ああそうだよ今回も俺は負け」

「いつも一個上占領してごめんなさいね」

「次こそ超えるからな」

軽快なやり取りは、仲の良さを見せつけられているように感じた。そんなふうに捉えてしまう自分の心を矮小だと反省し、ナディアは輪の外で教材を抱きしめた。

そんなナディアにレイナが気づき、「ナディアさんはどうだったの?」と近づいてきた。

「えっ」

蚊帳の外だと思っていたナディアは、レイナの声かけに肩を跳ねさせる。

「あともう少しで上位陣入りできたんだよな」

言い淀んでいたナディアよりも先に、ハドリーが返事をした。

「そうだったの、惜しかったじゃない!もしわからないところがあったら、私解説できるかもしれないわ」

「ほ、ほんとに……?」

「いいじゃんナディー、レイナ教え上手だから」

レイナたちの会話のテンポについて行けていないナディアに代わって、ハドリーが受け答えを進める。

おかげで彼女たちに不審がられることなく会話が続くけれど、それでもやっぱりナディアには場違いだという気持ちが拭えずにいた。

何より、なぜか……息苦しいような、あまりレイナとハドリーの会話を聞きたくない気持ちになって、先ほどまでの有頂天な気分はどこかに追いやられてしまっていた。

「また……今度の試験前にでも時間があればお願いしたいですわ」

気分が乗らなかったため、そう言って誤魔化す。

「ええ、ぜひ!一緒に勉強会しましょう」

貴族女性らしからぬいたずらに笑うその顔は、なんの屈託もない笑顔で、それが余計にナディアの心を押し潰していく。

「ナディアさん、いつも授業でも頑張っていらっしゃるものね」

マリーが褒めると、ハドリーが「それはそうだよ」と得意げに返事をする。

「ナディーは将来のために一生懸命だからな」

「あら、それは私だってそうよ」

「あははっ」


ゴーンと重厚なチャイムが鳴る。昼食の時間を知らせる鐘だ。

ハドリーとレイナたちは、当然のように一緒になって食堂の方へ足を進める。

ナディアは足が重く、その場に立ち尽くしたままだ。


「ナディアさん、一緒に食べましょうよ」

「………いえ、わたくしは少し、用事があるので…」

「そうなの?それじゃあまたね」


成績表の前は再び静寂が戻った。

彼らは暑い日差しの下、笑い声を響かせてはしゃいでいる。

ハドリーの大きく口を開けて笑うその姿は、自由奔放で本当に楽しそうだった。



「…将来のためじゃないわ」


あなたのためよ、ハドリー。


あの時ちゃんとそう言い返せるくらい、堂々とできていたのなら、私たちの未来は変わっていたのかしら。



***



目が覚めた後は、その記憶で得た感情がやけに具体的で、昨日の自分とシンクロして、大きな欠伸をすると、頬に一筋涙がつたった。

昨日流し損ねた涙が溢れたようにナディアは思った。


コンコンと扉が叩かれる。

「お嬢様、お目覚めでしょうか。リタでございます」

ナディア付きの侍女・リタが、控えめに声をかける。多分、目覚めきっていなかった時にナディアを起こさぬようにという配慮だろう。

「おはようリタ、入ってきて」

侍女に心配かけまいと、なるべく明るい声で言う。

すぐさまガチャリと音を立てて扉が開かれ、侍女は小走りにナディアのもとにやってきた。

目元の赤みを追及することもなく、いつも通りに身支度を進めていく。

あっという間に日常に戻り、ナディアもだんだんと平静を取り戻していった。


「本日は旦那様と奥様が、お嬢様にご相談があるとのことで、昼食のお時間は必ず一緒にしたいとお伝えするように申しつけられております。いかがなさいますか?」

もしも気分がすぐれないのなら、断っても良いのだと、暗に侍女は判断を促した。

「大丈夫よ、お受けすると伝えて」

両親との昼食は、むしろナディアにとっては癒しだった。落ち込んでいた今だからこそ、少し甘えたい気持ちもあったのかもしれない。

今日は少し遅く起きたから、昼食まではあと2時間ほど。侍女が気を利かせてブランチ代わりに、と、温かなスープをテーブルに用意した。

昼食を心待ちにしようと思ってから、少しお腹が空いていていたナディアにとってはタイミングがよく、侍女の優しさと気遣いに感謝を覚えた。


日課である計算と簿記の課題を途中にし、昼食の時間はあっという間に訪れる。

館の食堂では、三人がちょうど向き合えるような丸いテーブルが置かれ、すでに両親はナディアを待っていた。

「ナディー、目が赤いわ。どうしたの?」

侍女が指摘しなかったから目元のことなど忘れていたため、尋ねられたナディアの心臓が跳ねた。

「あ、あら、わたくしったら…先ほど眠気が抑えられず目を擦ってしまったから…」

「あまり擦ると目に良くない。気をつけなさい」

「ええ、ありがとうございます……」

泣いていた、なんて、成人にもなるのに恥ずかしくて言えたものではない。なんとか誤魔化せただろうと思って、ナディアはようやく席で一息ついた。

「それで相談とはなんですか?」

着々と食事が運ばれ、食欲のそそる香りが鼻腔をくすぐる。

テーブルに皿が揃いきったところで、ナディアの父が「そうそう」と切り出した。


「今晩の夕食、ウェルスの家と共にするのはどうかね」


ナディアは硬直した。

よりにもよって。


「パーティーではついにお前たちの揃いの衣装も見られることだろうし、本格的に両家仲良くしておく良い機会だと思ってね」

「ウェルスの奥様も快く応じてくださっているわ。参加できそうかしら?」


ナディアの家とハドリーの家は仲が良い。領地も隣で、もともとナディアとハドリーは両親たちの仲の良さのおかげで、幼少からの交流があったのだ。

ナディアの両親は、可愛い娘の幼い頃からの婚約者との進展に、浮つく様子を隠さない。

「ええ、大丈夫ですわ」

ハドリーとの仲だって悪くない。たまたま昨日、ただ西の物見台にレイナと一緒にいるハドリーを見ただけ。ほかに両家の婚約において不都合なことが起きたわけでは全くない。

ここで断ることのほうが不自然だと思って、ナディアは下手に表情を崩さないように気を張って返事をした。

両親は明らかに嬉しそうに声色を高くする。


「ついにナディーも嫁にいくのか…」

「何を言っていますの、ナディーは小さい頃からハドリーのことが大好きだと何度も言っていたではありませんか」


お母様、わたくし、ぜったいにハドリー様と結婚したいですわ!そのために学園でのおべんきょう、がんばりますわ!

10歳の頃だったか、そうやって意気込んでいたのを、ナディアの母も、ナディア自身も鮮明に覚えている。

そしてその一生懸命は、今の今まで続いている。


「自分が大好きだと思える相手と結婚できるなんて、本当に幸せなことよ」

「ナディーも、私たちと同じように仲睦まじく幸せな夫婦になれるよう、祈っているよ」


ありがとうございます、の言葉は食事と一緒に飲みこんで、口元に笑顔を浮かべることしかできなかった。

両親の言葉が、すごく重くのしかかる心地がして、ナディアの表情は曇った。

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