片思い令嬢の傷心

巻鏡ほほろ

第1話

「ナディーは本当に、俺のことが大好きなんだな」



そうやって目を細めて笑う婚約者のことを、ナディアは愛していた。



婚約者のハドリーはナディアよりも20センチも背が高く、歩幅が大きいので、ナディアはついていくのに必死だった。ちょこまかと必死に後を追うナディアは、白い肌を紅潮させ、栗皮色の巻き髪をさらにくるくると膨れ上がらせて、ハドリーは振り返るたびにその懸命さに可愛らしさを覚えていた……のだと思う。

ナディアに笑いかけるその表情は、幼い頃から変わらず、垂れ目で普段から穏やかに思われがちなハドリーがより一層優しく見えた。

そして何より、こう言って笑いかけてくれる時だけは、ハドリーはナディアだけを見てくれているように思えたから、ナディアはその言葉が嬉しかったのだ。



「でもそれだけだったのよね。結局、わたくしはハドリーにとって愛玩動物のような存在でしかなかったのだわ」


暖かな柔らかい春風が、学園の講堂の柱の合間をぬってナディアの頬を撫でた。

幼い頃から伸ばしている腰までの巻き髪が、ふわりと揺れ動く。

祭典のために羽織っている白いローブと、栗皮色の巻き髪の流れるようなゆらめきが、喧騒から離れたナディアの寂しげな背中を彩っている。


「卒業式という門出に、こんな話ごめんなさいね、キーラン」

「親友が悲しい顔をしているところに、理由を聞いたのは俺の方だ。謝らないで」


申し訳なさそうなナディアに対して首を振ると、キーランの細い金髪がさらさらと揺れた。

キーランはナディアと、ナディアの婚約者のハドリーの共通の友人であり、ナディアにとってはもう一人の幼馴染でもあった。

二人は貴族社会で生きていくための学舎まなびやを、今日この日卒業した。

そしてそれは、ナディアの婚約者であるハドリーも同じだ。

ハドリーは、学友たちの中心で別れを惜しみつつも、次のステップに進むことへの期待と憧れを抱いた明るい表情でいる。他の人よりも文字通り頭ひとつ抜けた彼の表情は、キラキラと眩しくナディアの目に映る。

国が大きいとはいえ、貴族の交流自体はそんなに広いものではない。いつか社交界や、己の領地の経営などで顔を合わせることも多いだろう。そのことを知っているから、誰も彼も別れによる悲しみは薄い。

だからこそ、人の輪から外れて、切ない顔で一人立ち尽くしていたナディアに、キーランは疑問を抱き近づいてきたのだった。

なんと話を続ければいいのだろうとキーランが話題を探していると、ナディアは卒業の証であるブローチを胸元で握りしめて呟くように言った。


「私きっと、彼との婚約を破棄するわ」


キーランは驚いてナディアの表情を見る。

ナディアはもう、すでに覚悟を決めているのか、切なさを残しつつも悲しさを浮かべることはなかった。


「どうして……だってナディア、君はハドリーのことをあんなに…!」

「……そうね……。“私は”、ね」


強調される発言の真意を知るキーランは、続く言葉を押さえ込んだ。

言葉に詰まったキーランを横目にすると、ナディアも「わかっているじゃない」とでも言いたげに、ぎこちない笑みを浮かべる。


「婚約自体が貴族として大きな意味を持っていることは確かだけれども、私の家もハドリーの家も大きくはないし、どころか、キーランの家に縋るような真似をしなければ生き残れないほどの弱々しい立場だもの」


ナディアの言葉は刺々しさをはらみ、もはや自分の感情に投げやりであるのだと表している。


「それに、幼い頃の口約束が、都合がいいからという理由で今まで続いてきただけの、そんな軽い婚約……貴族本来の政治的意味もなさないのなら、しがみついてたって意味がないのだわ」


その理由が、自分如きの恋愛感情のみだなんて、尚更。


「……恋愛結婚を諦めるのなら、もっと早い段階でも良かったはずだ」

「!」

「それなのに、どうして今このタイミングで?」


キーランは、ナディア以上に傷ついたような表情で問う。

ナディアはキーランの問いに、より一層の虚しさを感じて俯いた。キーランは慌てて「気を悪くしたのなら、ごめん」と涙を堪えるような顔で言うのだから、ナディアは無礼だとも言えずに、ふふっと乾いた笑いをこぼすしかない。


「なんてことないのよ。本当に…」


キーランが言う通り、もっと早い段階から気づいていた。

それを最近まで引きずり続けていたのは、ナディア自身。

けれど必死に繋ぎ止めていようと思っていたハドリーへの恋心も、ある日簡単に手放すことを選んでしまった。



***



それは今から3ヶ月前、冷え込んで今にも雪が降りそうな重い雲の日のことだった。

冬超え対策の結果報告や、次の季節に向けた話し合いをかねて、首都では大きな、貴族の交流会が開かれていた。

1週間の首都での滞在を強制されるが、自領地よりも豪華な食事と華やかな部屋を用意されるので、毎年、冬休みの特別な旅行の一種として恒例化している。

この催しは年越しも兼ねており、首都に住む民衆は冷え込みとは裏腹に活気づいていて、街の明かりも暖かい。オレンジに染まる夜景を見るのが、ナディアは好きだった。


「お嬢様、夜会にはどちらのドレスでいかれますか?」

ナディア付きの侍女が、ドレスラックをナディアの前に運んでくる。

虹のグラデーションのように並ぶドレスたちは、どれもシンプルで華美な装飾こそないものの、良い生地で作り上げられており、ナディアの小柄な体格に合わせて作られたふんわりとしたシルエットが美しいものばかりである。全ての要素が、ナディア好みでもあった。

「ええと、どうしましょう…」

こう並べられると、逆に選びきれないものである。ラックに近寄ってひとつひとつを広げて見てみるが、う〜んと悩むばかり。

それを見て侍女が、「あの…」と困りがちに問うた。


「ウェルス家の御坊ちゃまは何色を着られるのでしょう…?」


ウェルス家の坊ちゃんというのは、婚約者、ハドリー・ウェルスのことだ。

侍女の言葉に「あ」と今更思い出したように声が漏れた。


———私、ハドリーの衣装の色なんて聞いてないわ


成人を迎えた婚約者同士は、交流会の中でその関係性を周知するためにも、ドレスコードの色やテーマを合わせる傾向があった。

今までは年齢的に親の庇護下にあるため、家族で揃えたドレスを着ていたのだが、学園を卒業するこの年は成人の年にもなるため、自分で自由にドレスの色を選べるのである。

ナディアには幼い頃からハドリーとの婚約の約束がある。にも関わらず、ハドリーとの会話でドレスの話が上がった記憶はない。…それどころか、ハドリーと会話をしたのは、いったいどれくらい前だっただろうか。

去年までと勝手が違うことで焦る気持ちを持つ一方、ハドリーとのやりとりを思い出そうにも思い出せないくらい交流が少なくなっている事実を突きつけられたようで、ナディアの顔が青くなっていく。

「ま、まだお時間はありますし、一度お尋ねしてみましょう!ドレス選びは明後日まででも大丈夫ですから」

ナディアをフォローするため、笑顔で明るく侍女が言う。

気を遣ってくれたことを察し、ナディアも気の弱い笑顔で「そうするわ」と返すが、嫌な汗が止まらなかった。


次の日、ナディアは早速騎士を一人伴って、ハドリーが宿泊している館まで尋ねた。

「坊っちゃまなら朝から御学友とお出かけなさっております」

ハドリーの家の執事はそうナディアに告げて、うやうやしく腰を折った。

「坊っちゃまに、如何様の御用事でしょうか。差し支えなければ私わたくしめが仰せつかりますが…」

「ええと…」

パーティーに着ていく服の色を、ハドリー本人がいないのに執事に尋ねて良いものか、逡巡して口篭ってしまう。

「あっ、そうだわ……直接尋ねたいことがあったから、よかったら具体的にどちらへ向かわれたのか教えていただいても?」

街は年末に浮かされて華やかな装いをしている。店もかき入れどきで、人も多く賑わっていることだ。遊ぶ場所はたくさんある。

ナディアに尋ねられた執事は、思い出す仕草をしたあと、「西の物見台に向かうため、帰りが遅くなるとおっしゃっておりました」と答えた。


「西の物見台……」


ナディアの心がざわつく。

西の物見台は、恋人たちが夕暮れを眺める場所として有名だったからだ。

婚約者である自分の他に、そんな場所に行く相手が学友にいるということなのだろうか。いや、それとも、ただ夕日が見たいだけで、特別な意味はなくて……もしくは、全然違う理由で用事があるのかもしれない。

ぐるぐると思考が巡り、体温が上がったり下がったりする心地で、落ち着かない。

護衛のために伴われた騎士が、「お嬢様」とテノールを響かせると、やっとナディアは息を呑み、一呼吸した。

「ぼーっとしてしまってごめんなさい。教えてくださりありがとうございます」

「いえ、頭を下げないでください。……向かわれるのですか?」

「? ええ…」

執事が少し眉をひそめて、言い淀む。

「その……街は、いつもよりも人が多いです。騎士様お一人で心配だと、誠に勝手ながら考えておりまして……」

執事の言葉に背後に控えている騎士が睨みをきかせた。お前一人では守りきれないと、侮辱されたのだと捉えたのだろう。しかしナディアはそれが言葉通りのものでないことを、うっすらと感じ取っていた。


「ご心配ありがとうございます。……大丈夫です」


そう、大丈夫。


きっと、何を見ても、大丈夫。


自分に言い聞かせるように、執事に告げて、ナディアは「行きましょう」と騎士に声をかけると、ハドリーの滞在する館を後にした。



子供がそろそろ家に帰りましょうと親に促される時間、街の喧騒も昼時よりは落ち着いて、ぽつぽつと街頭に火が灯っている。

夫婦だったり、仲睦まじい男女だったりが、ナディアと騎士が向かうのと同じ方向に歩いている。

今年こそ、訪れられたらと思っていた西の物見台。一緒に向かう相手が騎士ではなくハドリー本人であったら、どれだけ幸せだったか。仕事で護衛をしてくれている騎士を思い、失礼なことを考えてしまったと自責の念にかられたナディアは、軽く首を横に振った。


西の物見台の周辺は、遅い時間まで人が多く賑わう。そのため、西陽が差し掛かるこの時間から、アルコールの香りが漂い、活気付いていく。

年末のお祭り気分で、その盛り上がりはより一層増しているように感じる。少し粗暴な行動をする男性も目立ち、ナディアの騎士は警戒心を強めていた。

膨らみの大きいドレスを着てこなくてよかった、と人にぶつかりそうになったナディアは考えていた。

「ありがとう…怪我はしないよう気をつけてね」

「いえ、お嬢様こそ」

人の合間をぬって物見台のある丘を登る。

こじんまりとしているが、横に長い物見台は、装飾が華美な街灯が均等に置かれ、光が灯るこの時間には空を額装しているように見えた。

オレンジと紫のグラデーションと、金糸を使った街灯の装飾が風にゆらめく様がキラキラと目に映る。黒い石で作られた床がそれらを反射し、この場所を特別に演出している。

ロマンティックな場所だとナディアの胸がときめく。

ふわりと灯り始めた街の景色も美しく、それを見たいと誘われるように物見台の中心へ足を運ぶと、ナディアの目に、大好きなハドリーの姿が飛び込んできた。


大好きだから、どんなに人がいてもすぐに見つけられた。

とても楽しげに、穏やかな笑顔を浮かべている。


「ナディーは本当に、俺のことが大好きなんだな」


と言って笑ってくれるその時の笑顔のような、愛おしさを含んだような。

ナディアは声をかけて走り寄ろうとした。


でも違う。


ぴたりと動きを止める。

行き場のない手を下ろす。


ハドリーの視線の先には学友がいる。ナディアも知っている人だ。当然だ、ハドリーと同じ学園に通っているのだから。


レイナという名前の、聡明で明るくて、無邪気な笑顔が印象的な女性。


ナディアよりもハドリーと視線が近く、二人が並ぶ姿はおさまるべきところにおさまっているように見えて、そこだけ景色が綺麗に切り取られたような、その光景にナディアは愕然とした。


「そんな笑顔、知りませんわ」


声に出すつもりはなかった。小さく小さく漏れ出たその言葉と同時に、ナディアの胸がかっとなって、喉が痛くて、瞼が熱をもった。

いてもたってもいられなくて、彼らに背を向けた。

こんなところにいる自分を、ハドリーに見られたくないと強く感じ、足早に人の流れを逆走した。

騎士が慌てて追いかけるのも気づかぬまま、ナディアは来た道をただひたすらに戻る。

二人が幸せそうに笑っている姿が目に焼き付いて、何度も何度も反芻され、それを振り払うように駆け足になったナディアは、足が痛いと感じることも忘れて館に帰った。


侍女も部屋から追い出した。

一人になりたかった。


全然、大丈夫なんかじゃなかった。


もっと前から気づいていた。ハドリーの愛は、自分には向いていないのだということを。

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