第19話 染井吉野 前編

 【春といへば 誰も吉野の花をおもふ 心にふかき ゆゑやあるらむ  西行】



 染井そめい吉野よしのが初めて従姉妹のふじに会ったのは幼稚園の時だった。吉野はその時のことを今でもハッキリと覚えている。

 

 初めて見た藤はお人形さんだった。

 一言も発さず叔母の咲夜さくやの隣に立っていた藤。生気を感じさせない人形のように整った顔からは何の感情も伝わってこない。

 吉野はそんな藤から眼を離すことが出来なかった。だって見たこともないほど美しかったから。

 キレイなお人形さん…… それが藤の第一印象だった。

 

 でもお人形さんみたいに見て楽しいだけじゃなくて一緒に遊べる女の子が良い。この子と一緒におしゃべりしたり笑い合ったり出来たら良いな……と吉野は思った。

 母の夢実ゆめみから藤とその母親である咲夜叔母さんはこれからずっと染井の家で暮らすのだと聞いて吉野は思わず藤のそばに駆け寄った。


「吉野とおしゃべりしてくれる?遊んでくれる?一緒に笑ってくれる?」


 そう詰め寄る吉野に藤は一瞬驚いたように眼を見開いたが、戸惑ったように吉野を見つめたあと小さく頷き、そして笑った。

 それは微かな、本当に微かな微笑みだったが、きっとあの瞬間お人形さんに生命が宿ったのだと思う。吉野は今でもそう信じている。

 

 それからは毎日藤と一緒に遊んだ。吉野が笑うと藤も笑う。その笑顔が見たくて吉野はもっともっと藤に笑いかけた。


「吉野ちゃん見てたら、ココんとこがあったかくなる」


 藤は自分の胸を指さした。


「だからずっと可愛い吉野ちゃん見てたい」


 藤の言葉で吉野の胸も何だか温かくなった。だから笑った。藤がまたお人形さんに戻ってしまわないよう、ずっと笑っていて欲しいから。

 人間の女の子に成り立てだった頃は無表情で感情をあまり表に出さなかった藤だったが、日を追うごとに嬉しそうにしたり、怒ったり、泣いたり、笑ったりを自然に出来るようになっていった。

 こうして人形から人間の女の子に成った藤は、吉野の家族であり大事な友達になったのだ。


 


「それで、とうとうやってしまったわけや」


 藤がなんだかうれしそうに呟いた。


「だってもう我慢の限界やってんもん」


 吉野はぶうたれてクッションを抱きかかえた。


「まあそもそも吉野は可愛いから、無理に笑ってなくても良いと思うけど……」


 藤はそう言う。


(可愛いって……正直もう褒め言葉として言われてないし)


 吉野はクッションに顔を埋めた。

 

 

 吉野は幼い頃から3つ上の兄、春告はるつげの影響で男の子の遊びばかりしていた。5歳の時藤が家に来てくれたことで少しは女の子らしい遊びもするようになったが、基本はやんちゃで活動的な性格であり口も悪い。コテコテの関西弁のせいでずっと一緒にいた藤をすっかり関西弁に染めてしまったほどだ。

 吉野が藤のためにいつも笑っていたら、周りのみんなも吉野を「可愛い、可愛い」と言い出した。

 可愛いと言ってくれる時、人はみんな笑顔だった。それがうれしくて吉野はいつも「可愛い吉野ちゃん」でいようと心掛けてきたのだ。

 いつもニコニコ笑顔の、藤がずっと見たいと言ってくれた「可愛い吉野ちゃん」

 

 その結果「出会った男子は必ず染井吉野に恋をする」とまで言われるようになった。実際にそうだったわけではないが、そんな言葉が小学校でまことしやかに囁かれ出すにつれ吉野は周りの女子から距離を置かれるようになっていった。


 曰く

「吉野ちゃんは可愛いからそんなこと言えるねん」

「染井さんは可愛いからこんな気持ちわからんやろ?」

「良いよな吉野は……可愛いって得やな」


 自分に向けられた「可愛い」は、いつの間にか褒め言葉ではなく吉野を疎外するための常套句になっていた。


(「可愛い」なんかなんも良いことない。へらへらしとったらナメられるだけやって痛いほどわかったわ)


  吉野は今日の給食の時間を思い返して心の中で呟いた。

 

 事の始まりは吉野が最後に飲もうと楽しみにとっておいた牛乳を隣の席の男子に奪われたことだった。


「嫌いやったら俺が飲んだるわっ!」


 そう言って吉野が反論する間もなく牛乳パックを奪い取り飲み干してしまった隣の男子。


(私の牛乳っ!……このガキっ)


 吉野が思わずその男子を睨みつけたその時


「エエよなー 可愛いって」


 前の方で声がした。何人かの女子が吉野の方を見ている。


「嫌いなモン飲んで貰えてエエなぁ~。私も牛乳苦手やのに〜」


「ホンマ、うらやましぃ〜」


 同じクラスの鈴代すずしろたちだ。いつもニヤニヤと吉野の方を見ては同じグループの子たちとひそひそ囁きあってる女子。

 

 吉野はずっと耐えてきた。

「可愛い吉野ちゃん」を演じ、嫌な思いをしても事を荒立てぬようにこにこ笑顔で耐えてきたのだ。今まではあまりにもムカついた時は直ぐさま藤のところへ行き、相手に言いたかった罵詈雑言をぶちまけていたのだが、その藤は今転校してこの小学校にはいない。


(……何が「可愛い吉野ちゃん」じゃ。誰のために毎日へらへらしとんねん私は。もうエエ、可愛いなんかやってられるかっ)

 

 吉野は静かに立ち上がると牛乳を盗った男子の正面に立ちはだかった。


「誰が飲んでって頼んだ?」


 静かなトーンが却って凄みを感じさせる。


「飲んだるわ?恩着せがましいねん。因みに私は牛乳大好きや。仮に嫌いやったとしても他人に自分の嫌いなモン押しつける気はない。二度と私の給食に手を出すな」


 隣の男子は震えながら頷いた。

 次は鈴代の番だ。吉野はゆっくり鈴代の席へ向かう。怯えた様子の鈴代を見下ろし声を掛けた。


「牛乳嫌いなん?貰ってもいいかな。鈴代さん可愛いから私が飲んであげる」


 鈴代の牛乳を奪いその場でストローではなくパックを手でこじ開け一気に飲み干した。もちろん手は腰に当てている。


「あれ、みんな鈴代さんのことうらやまし~って言わへんの?」


 吉野は牛乳ひげをつけたまま全開の「可愛い吉野ちゃん」スマイルを周囲にお見舞いしてやった。

 これが本日の「やってしまった」事の顛末である。



「まあ、どんな吉野でも可愛いから大丈夫。可愛いは正義!」


 藤はそう言って笑った。


「もう良いねん、悪でも全然平気やし。何やねん「可愛い吉野ちゃん」って。自分で言うてて恥ずかしなるわホンマ」


 吉野がそう言って抱きしめていたクッションをほおり投げようとしたその時、ガチャと音がしてリビングの扉が開いた。


「あら、吉野ちゃん来てたん」


 咲夜叔母さんといっくんが入ってきた。いっくんは吉野を見てうれしそうに駆け寄ってくる。


「いっきゅぅぅぅん♡」


 吉野はいっくんをぎゅっと抱きしめ、ぷくぷくほっぺにスリスリした。そこへ藤が近づいてきて囁く。


「な、可愛いは正義やろ」


(……うむむ、確かに……)


 その後吉野は可愛いいっくんが嫌がるまでスリスリし続けたのだった。

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