第18話 此花咲夜 番外編

 【道の辺の 尾花おばなが下の 思ひ草 今さらさらに 何をか思はむ  詠み人知らず】



 義母しゅうとめから嫁に欲しかったのは本当は姉の夢実ゆめみの方だったと聞かされたのは、咲夜さくやがこの「菓匠をばな」小塙おばな家に嫁いだその日のことだった。

 実家の「曙堂」此花このはな家に小塙家から娘を嫁に欲しいと打診があったときには、すでに姉の夢実は「曙堂」で働いていた菓子職人の染井そめいと結婚して子供も設けていたのだが、小塙の義母ははは夢実が結婚していることを全く知らなかったそうだ。慌ててこの結婚話はなかったことにしようと息子に話したところ、息子の小塙おばな竜胆りゅうたんは平然と姉が駄目なら妹を貰うと言ったそうだ。

 夫にとっては姉でも自分でもどちらでも良かったのだろう。いや、結婚相手自体誰でも良かったのかも知れない。


 

 此花このはな咲夜さくやには結婚前好きな人がいた。

 近所に住む同級生の野田のだいちいだ。距離が近すぎてはっきりとお互いの気持ちを確かめてはいなかったが、咲夜は勝手に櫟も自分と同じ気持ちなのだと思っていた。

 でも櫟は高校を卒業後、咲夜に一言の相談もなく遠くの大学へ進学してしまった。櫟との関係はただの独り善がりだったのかと落胆した咲夜だったが、櫟が大学を卒業するまで待つことにした。櫟が大学を卒業し戻ってきたらちゃんと自分の思いを伝えるつもりだった。しかし櫟は大学院に残ることを決め咲夜のもとへは帰って来なかった。

 櫟の気持ちは自分にはないのだと思い知った咲夜は、櫟への思いを断ち切ると心に決めた。そんなとき小塙家からの縁談話が持ち込まれ、半ば自棄やけになっていた咲夜は小塙竜胆と勢いのままに結婚してしまった。


 夫となった竜胆は端正な顔立ちだったが、咲夜には無表情で何を考えているのか良くわからない人だった。

 そして咲夜が望むことは些細なことから大きなことまで何でも叶えようとしてくれる人でもあった。


『お庭に桜があったら家でお花見が出来るのにね』


 結婚して間もない咲夜が何の気なしに呟いた一言で小塙家の庭には何本もの桜が移植された。テレビを見ていて咲夜が「これ便利そう」と言った商品は次の日にはもう家に届けられていた。

 咲夜のためにしてくれたのはわかる。でも義母からは無駄金ばかり使う贅沢でわがままな嫁だと思われ、そんな義母の愚痴を聞かされたちかしい人々からは嫌われた。

 結婚してすぐに子供が出来たと報告したときも義母はあまりにも早かった妊娠に喜ぶよりも不信感を顕わにし眉を顰めた。陰では誰の子かわからないと言っているらしい。

 夫はそんな義母を咎めることも諫めることもしてくれなかったが、相変わらず欲しいものがあるなら何でも買ってやると咲夜に言う。欲しいのは物やお金ではないと訴えると、夫は相変わらず無表情のまま、自分があげられるのは物やお金だけだと言った。


 妊娠がわかってしばらく経った暑い夏の最中、櫟の家族が亡くなったと実家から電話があった。櫟以外の家族全員が突然亡くなったという。咲夜は気づいた時にはすでに小塙の家を後にしていた。ひとり残された櫟のことしか頭にはなく家人に何も言わぬまま飛び出して来たのだ。

 

 櫟の家を尋ねたがそこには誰もいない。櫟の居場所を尋ねようと「曙堂」へ行き、櫟の両親と中学生の弟が自動車で事故に遭ったことを知った。咲夜は慌てて姉に喪服を借り斎場を訪れた。葬儀はすでに終わっており櫟は人々から離れるように独りで廊下の隅に座って放心したようにぼんやりと床を見つめている。駆け寄った咲夜に気づいた櫟は思わずというように顔を歪め声を殺して泣き始めた。なにも言葉が掛けられず咲夜は座っている櫟の顔を自分の胸に押し当て抱きしめることしか出来なかった。

 咲夜が泣いている櫟を抱きしめながらそっとその髪を撫でているといつから居たのか廊下の先に夫の竜胆が立っているのが見えた。竜胆は咲夜と眼が合うと何も言わずにその場を立ち去った。

 

 火葬場に向かうと声が掛かり櫟はゆっくりと立ち上がり咲夜のもとを去っていく。その後ろ姿にまた涙が溢れた。

 ふらふらと独り斎場を出るとそこには夫が立っていて「帰ろう」と一言だけ呟くと咲夜を自分の車まで案内した。

 夫の運転で小塙の家に帰る車内では重い沈黙が続いている。ようやく咲夜が口を開いた。


「どうして……?」


「まだ安定期じゃない。あまり歩き回らない方が良い」


そして夫は続けた。


「着いたら起こす。少し休んでいなさい」


 夫はハンドルを握り前を向いたままこちらを見ようともしない。小塙の家に着くまでその隣で咲夜は眠ったふりをし続けるしかなかった。


 それっきり櫟には会うことも連絡を取ることもなかった。夫はあの日のことについて何も言わない。聞かない。

 咲夜は自分の心がまだ櫟にあることを確信し戸惑い怯えていた。夫の顔を真っ直ぐ見ることが出来ない。話すことも。

 そんな咲夜の心情を知ってか知らずか、夫は仕事中以外は書斎に籠もりきりになり、咲夜と寝室も別にした。そして夫とほとんど顔を会わせることもないまま咲夜は臨月を迎え娘を出産したのだった。

 出産直後の病院で夫は産まれた子を抱かなかった。赤ん坊をまともに見ることもなく咲夜の顔を見て母子の無事を確認しただけで「菓匠をばな」へと帰っていった。子供の名前も咲夜の好きに付ければ良いと共に考えてはくれなかった。

 亡くなった櫟のご家族のことを思うと咲夜は胸が張り裂けそうになる。それでも我が子にはあんな風に亡くなって欲しくないという思いが込み上げて、娘には不死ふしからふじと名付けた。母親とはなんと身勝手で無神経な生き物なのだろう。それでも藤に無事でいて欲しいという気持ちは抑えられなかった。

 

 夫は藤を一度も抱かなかった。出産直後のあの日だけではなくそれからもただの一度もだ。藤に話かけることもない。その状態のまま気がつけばもう4年近くも経っている。

 咲夜はある日、とうとう我慢出来ずに夫の書斎に乗り込んだ。


「藤は正真正銘あなたの子です。お義母さんがどう思っているのかは知りませんが本当です。貴方もあのお葬式の日のことで何か誤解しているかも知れませんが、彼とは何でもありません。ご近所に住む同級生で昔からの知り合いというだけです。それ以上の関係になったことなどないんです。信じてください」


 咲夜は涙ながらに訴えた。夫はやはり感情の読み取れない表情かおでそんな咲夜をじっと見ていた。


「あの娘のことを疑ったことはない」


 夫は淡々と答えた。


「では何故あの娘、藤を抱いてやってくれないんですか。話しかけてもくれない、それどころか顔を見ようとも……」


「私があの娘を可愛がればお前はますますこの家から出て行けなくなる。母があの娘を手放さないだろう。そうなればお前はあの娘と離ればなれになってしまう」


「それは……私と別れたいということですか……」


 咲夜が震える声で尋ねると


「……私が別れたいのではなく、お前が出て行きたいんじゃないのか」


 夫は静かな声でそう言い咲夜を見つめた。


「お前から離婚を持ち出せば母はどんな嫌がらせをするかわからない。だからもう少しだけ我慢してくれ。母の方から出て行けと言わせれば藤は何の問題も無くお前が引き取れるはずだ」


「……何故……私が出て行きたがっていると思うんですか……」


 夫は咲夜から眼を逸らした。


「ここを出て、行きたい場所があるんじゃないのか。行きたい人、といった方が良いかも知れないが……」


 逸らした視線を咲夜に戻すと夫は続けた。


「物や金なら欲しいだけ与えてやれる。でもお前が心から求めているものを与えてやることは出来ない。私がお前に与えてやれるのは藤だけだ。藤を連れて行きたいならもう少しだけ待ってくれ」


「貴方から離婚すると言えば良いじゃないですか」


 咲夜は思わず口にしていた。その瞬間、夫の無表情が少し崩れたような気がした。


「それは……それは言いたくない。どうしても言えない……すまない」


 咲夜は何も言えなかった。何も言えないまま夫の書斎を後にしてそのままふらふらと自分の部屋へと戻った。藤が寝息を立てている。

「菓匠をばな」は菓子業界では大手で色んな問屋にも顔が利く。夫が言うように義母が悪い噂を流せば小さい「曙堂」などすぐに潰れてしまうかも知れない。それが怖くて咲夜も離婚を切り出すことが出来なかった。プライドの高い義母が嫁から三行半を叩きつけられるなど我慢出来るはずがない。すでに破綻しているかのように見える夫婦関係なのだから夫から離婚したいと言って貰おうと思っていたのに……

 ずっと何を考えているのかわからない人だった。でも自分は一度でも夫の心を本気で探ろうとしたことがあったのだろうか……

 

 咲夜は少し前の夏のことを思い出していた。

 庭を見ると夫がじっと立ち尽くしている。何をしているのかと様子を窺うと夫の前にしゃがみ込んだ藤のまあるい背中が見えた。照りつける太陽から藤を守っているようにも見える。日除け?まさか。咲夜があり得ないとひとり首を振っていると、ふいに藤が振り返って夫を見上げた。藤はそのまま立ち上がり抱っこをせがむように夫に向かって両手を広げる。夫の手がピクリと動いた。そのまま躊躇うように藤を見下していた夫は思い切るように勢いをつけてこちらに振り向いた。咲夜と目が合う。夫は大きな声で咲夜を呼びつけると藤を指差し足早にその場を立ち去って行った。

 こちらを振り向いたとき夫の顔は無表情だっただろうか。夫の顔ではなく心を今までちゃんと見ていただろうか。

 初めから間違っていた。何もかも間違えてしまった結婚だったのだ。

 咲夜は藤を起こさないよう声を殺して泣いた。


 とうとう義母が咲夜に離婚届を突きつけたのはそれからしばらく経った春のことだった。どうやら夫に相応しい嫁候補を見つけたらしい。跡継ぎも産めない役立たずは出ていってくれと言われた。

 藤を連れて行けるなら今すぐにでも判を押します、と告げると義母は息子の再婚の邪魔になるから連れて行けば良いと言った。その代わり今後一切小塙家とは関わるなと吐き捨てた。むしろありがたい、咲夜はすぐさま了承した。


 息子の離婚に母親がしゃしゃり出るなんてねえ……なにも追い出さなくても……ひどい話だな……もう次の奥さん見つけてるらしいわよ……鬼姑……


 自分の部屋に帰る途中「菓匠をばな」の従業員たちが廊下でひそひそ話す声が咲夜の耳にも聞こえた。

 

 部屋で荷物をまとめているとふいに夫が入ってきた。


「長い間待たせてすまなかった」


 開口一番夫はそれだけ言うと部屋を出ようとした。


「私こそ。やはり姉の代わりは無理でした」


 咲夜の言葉に夫は足を止めた。


「母は勘違いしていたようだが、私は最初から「曙堂」の娘とはお前のことだと思っていた」


 咲夜は驚いて夫を見つめた。


「決まった相手がいるから「曙堂」の娘は諦めろと母に言われ確認するとそれはお前の姉のことだとわかった。だから妹と結婚したいと言った」


 夫はそう言って咲夜をじっと見つめた。


「縁談の話が出て「曙堂」の様子を見にいったときお前を見かけた。お前が縁談の相手だと思っていたんだ。だから結婚したいと言った。でもお前を幸せにすることは出来なかった。それなのに自分から離婚することも出来なかった。今更何を言ってもどうにもならないが。すまなかった」


 そう言って頭を下げた夫に咲夜も手をついて謝った。


「……本当に申し訳ありませんでした」


「今度は幸せになってくれ。「曙堂」には迷惑が掛からないようにする。それは心配しなくて良い」


 そう言い残して夫は立ち去った。

 

 もっと話をすれば良かった。勝手に思い込んで決めつけたりせずに。

 もっと見れば良かった。不器用なあの人の心の中を。

 今更何を言ってもどうにもならないが。

 ごめんなさい。本当にごめんなさい。


 今度は幸せになって下さい……

 竜胆おっとが植えてくれた桜の花びらが舞い散るのを見ながら咲夜は心からそう願った。

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