第17話 佐名葛 後編

 【藤波の 咲く春の野に延ぶ葛の 下よし恋ひば 久しくもあらむ 詠み人知らず】


 野田のだいつきには兄がいた。名前はいちいさん。

 自分以外の家族全員を自動車事故で一瞬にして失った櫟さんはそのころは他県にある大学の院生だったらしい。姉は佐名の両親と話し合った結果、まだ家族を失った悲しみも癒えておらず院生とはいえ学生の櫟さんには葛のことを伝えないと決めたのだそうだ。

 

「……でもホンマは怖かっただけ。アンタを取られるような気がして黙って独り占めしてん。櫟さんも家族全員亡くして独りぼっちやったのに……」


 佐名の両親は初めから自分たちの子供として葛を籍に入れるつもりだったので、野田櫟に葛のことを言う必要はないと思っていたようだ。


「でもずっと気になってた。櫟さんが大学から戻ってからはこっそり様子見に行ったりしててん。そしたら2年くらい前に「曙堂」っていう和菓子屋の娘さんと結婚したって聞いた。そのころ櫟さんがアンタくらいの女の子と手ぇ繋いでキレイな女の人と歩いてるの見かけたことがあってん。櫟さん笑ってはった。その時そのキレイな人が妊娠してはるみたいやったから家族が出来たんや、良かったぁって思って」


 姉は本当に嬉しそうな顔をしながらそう言ったあと、すぐに真剣な顔になって葛に尋ねた。


「けどアンタにとっては櫟さんは血の繋がった伯父さんなわけやから……もしアンタが伯父さんに会いたいんやったら、私ちゃんと話して黙ってたこと謝りにいこうと思うねんけど……どうする?」


 どうする?と聞かれても……と葛は思った。伯父さんと言われても今ひとつピンとこない。父親なら会いたいと思ったかも知れないが父はもうこの世には居なかった。

 

 そんなことより葛が驚愕したのは自分の伯父さん、野田櫟さんが同じクラスの野田藤のお父さんだったということだ。

 姉の話では野田藤は奥さんの連れ子らしいので葛と血の繋がりはないということだが。

 

(従姉妹ってことになるんか?……従姉妹って結婚出来るんやっけ?4親等以上なら大丈夫。アレ、俺と野田さんは何親等になるんかな……いや、そもそも血ぃ繋がってないしっ!)

 

 そんな場合ではないのに思わずあり得もしない結婚のことまで考えてしまったほどの衝撃だった。もしかすると最近の数多の真実公開のなかで一番の衝撃的事実だったかも知れない。


 葛が藤と同じクラスになったのは5年生が初めてだが、実はその前から藤のことは知っていた。

 葛は藤の従姉妹の染井そめい吉野よしのと3年生のとき同じクラスだった。葛の小学校では「男子は必ず染井吉野に恋をする」と言われているほど吉野は可愛い女子として名を馳せていた。確かに彼女はその名である桜の花のように、派手ではない穏やかな華やかさを持ちその笑顔は見る者の心をほわっと柔らかく和ませてくれる。そんな可愛らしい少女だった。

 でも葛は吉野よりも彼女といつも一緒にいる藤の方に眼を惹かれた。葛にとって藤は吉野に見劣りしないほど美しい人である。

 ただ野田藤という少女は小学生にしては大人びていたし落ち着いていた。どこか他人を寄せ付けないような雰囲気を醸し出していて、馴れ馴れしく声を掛けられない高尚で高貴な、そうまさに藤の花のような人なのだ。

 小学生の小僧にはまだまだその魅力はわからないが大人になればさぞかし麗しい女性になるだろうと己れも小僧の葛は思っていた。

 葛にとって藤は高嶺の花という言葉がぴったりくる手の届かない存在。5年生になって同じクラスだったことに雄叫びを上げたいほど興奮したのだがいまだにマトモに話したことはなかった。

 

 その藤が自分の実の父親の兄の義理の娘……うーん、なんかややこしいが要は親戚なのだ。葛は心底びっくりしていた。

 葛は藤をついつい眼で追ってしまう。従姉妹だからではなく野田藤だから。けれどやはり迂闊に声を掛けることなど出来ない。そんな風に葛がぐずぐずいじいじしているうちに、あろうことか藤は別の小学校へ転校してしまったではないか。葛は今、こそこそ見つめていた藤の姿を思い出してはため息を吐くだけの日々を過ごしている。

 

 葛がどんよりと憂鬱な日々を送っていたそんなある日の日曜日。

 ぶらぶら散歩しているつもりがどういうわけだか姉から聞いた葛の伯父櫟さんが結婚した藤の母親の実家だという「曙堂」の前まで来ていた。もしかしたら藤に会えるのではという無意識の期待からだろうか……

 片思いとは人を簡単にストーカーに変えてしまうのかと葛は恐ろしくなった。そうは思いながらも葛は「曙堂」の自動ドアの前に立ち恐る恐る店内に足を踏み入れる。


「いらっしゃいませ」


 声の方に眼を向けて葛は固まった。


「……野田さん?」


 もしかして会えるかも……などという淡い期待は抱いていたが実際に藤が居るとは思ってもみなかった。


「あ~あ~あ~」


 突然声が聞こえて固まった視線をようやくズラすとそこには赤ちゃんがいた。藤が抱いている赤ちゃんが思いっきり葛に向かって手を伸ばしている。


「ちょ、ちょっと…いっくん……」


 野田さんが落ちそうになる赤ちゃんを必死で支えている。葛は考える前に足と手が動き自然に赤ちゃんを抱き取っていた。

 葛の首にぎゅっと抱きつく小さな手。ぷくぷくで柔らかいふわふわしたほっぺ。胸の奥がきゅーっとなる。


(か、可愛い~♡)


 葛は野田さんのことさえも一瞬忘れて赤ちゃんを抱きしめた。


(姉ちゃんの腹の中にもこんな可愛い物体が入ってんのかっ?!)


 葛は今までさんざん触ってきた姉のお腹の感触を思い返していた。


(…結構カチカチやったけどなぁ……)


 葛はとにかく姉のお腹の子が姪だろうが妹だろうがきっと可愛すぎて離れられなくなるだろうということだけは確信した。赤ちゃん最強。可愛いは正義だ。


 

 その後はまるで夢の中のような感じだった。夢かうつつか定かではないが藤と二人で親密な話を語り合った。

 

 藤にはちょっと格好をつけて一連の衝撃的事実に全く動じていない振りをしていた葛だったが、本当はまだ少しモヤモヤしていた。 

 でもこの日藤に話すことで、母でも姉でも、両親でも祖父母でも、姪でも妹でもどっちでもいい、みんな大事な自分の家族だと心の底から思えて、葛の心はスッキリと晴れ渡ったのだった。もしかすると言霊の力なのかも知れない。

 さらによくよく考えるといっくんは葛の正真正銘の従兄弟ではないか。従兄弟ですらこんなにも可愛く愛おしいなんて……葛は姉のお腹の子の可愛さを想像するとなんだか少し怖くなってきた。


 何故ここに来たのかと藤に聞かれたときはつい姉が和菓子中毒だと嘘をついた上にお土産の和菓子まで頂いてしまった。葛は今度来る時はいっくんの喜びそうものを必ず持ってこようと決めた。

 藤の母親は藤に似て品のある優しくて綺麗な女性ひとだった。葛はこの女性と藤といっくんが家族なら伯父の櫟さんは無敵なのでは、と思う。姉にもそう伝えることにした。


 別れる間際、葛は藤と一緒に春秋高校に行く約束を交わした。……多分約束したんだと思う。約束したで良いことにしよう。

 それはいつか本当の父と母が交わした約束。

 

 今度は何があっても叶えてみせるからな。


「曙堂」からの帰り道、葛は見上げた空に向いそう固く誓ったのだった。

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