第15話 佐名葛 前編

『お姉ちゃんって呼んでたな、葛くん。可哀想に……』

『……切ないわ。今度産まれてくる子とは普通の親子として暮らせんのに……葛くんだけ何も知らんとお母さんのことずっとお姉ちゃんって呼ぶんやで』

『不憫やなぁ……』

『可哀想に……』


 

 もしかして自分は可哀想なのだろうか。

 佐名さなかずらはあれからずっと考えている。

 

 

 姉は妊娠がわかってすぐ婚姻届は出したそうだが、妊婦であることを言い訳にその後もずっと実家で暮らしている。義兄は結婚前から住んでいたマンションで今も独り暮らしのままだ。

 安定期に入ってから行われた姉の結婚式は葛が小学5年生になる前の春休みだった。そこで叔母たちがこそこそ話しているのを盗み聞きしてしまい衝撃の事実を知ってしまったわけだが、葛は真実を知ったことを両親や姉に話すべきかかなり悩んだ。そしてその結果、黙っておこう、という結論に達していた。

 

 姉には子供が産まれる。女の子らしい。姪と呼ぶのか妹と呼ぶべきかわからないが、何にせよその子が産まれたとき葛が本当のことを知っていては家族全員が気まずいのではないかと思った。何より葛自身がそうなるとどんな風にその子に接すれば良いのかわからない。自分は叔父さんなのかお兄ちゃんなのか……

 やっぱり黙っておこう、と決めた。


 姉が実母だろうが両親が祖父母であろうが家族に変わりはない。今まで通りで何の問題もない、と葛は必死で自分に言い聞かせていた。

 普通の家族のように些細なことでケンカしたり言い合ったりすることはあっても、両親と姉という家族がいて何不自由なく幸せに生きてきたと思う。自分を不幸とか不憫だなどと思ったことは一度もない。 

 それなのに叔母の言葉を借りれば葛は今まで「不憫」で「可哀想」な人生を歩んできた、ということになる。

 言霊とは祝いでもあり呪いでもある。実際はそうでなくとも言葉にすると現実になるような気がした。

 余計なこと聞かせやがって…と盗み聞きしたことを棚に上げて葛は心の中で叔母達に向かって盛大に舌打ちした。

 

 自分では今まで通りに振る舞っていたつもりだったが、結婚式の日からしばらく経ったある日の午後、家で姉と二人昼食のうどんを食べているとふいに姉が問うてきた。


「アンタ、私とのこと誰かに何か聞いた?」


 葛は食べていたうどんが変なところに入って思い切り咳き込んだ。


「やっぱりな……」


 葛はティッシュで口元を拭きながら恐る恐る姉に尋ねた。


「……何でわかったん?」


「だって今までは私のお腹毎日触ってきてたのに、式の後から触るどころか見ようともせえへんやん……」


 姉はそう言って自分のお腹を見下ろしその上に手を当てた。


「……ごめん」


 その通りだった。それまでの葛は姉のお腹の中に赤ちゃんが入っていることが不思議で面白くて、毎日のように触らせて貰っていた。なのにあれからどうしてなのか姉のお腹を見ることも触ることも出来なくなった。


 するといきなり姉が葛に向かって頭を下げた。髪の毛がうどんに浸かるほどに。


「ずっと黙っててごめん。母親としてそば居られへんかったこともホンマにごめん」


 葛は慌てて姉に手を伸ばした。


「やめろや。お腹苦しいやろ、頭上げろって」


 姉が顔を上げる。葛は姉が泣いているところを初めて見た。


「……聞きたいんやったら全部話すけど、どうする?」


 姉の言葉に葛は頷いた。


「聞きたいし全部教えて欲しい。でも俺が知ってることお父さんとお母さんには言わんとってな」


 葛の言葉に姉は眼に涙を溜めたまま


「アンタはエエ子やな」


と言って寂しそうに微笑んだ。



「小学生のときからずっと好きやった同級生の男の子と中学に入ってから付き合うようになった。子供やったけどその時は子供なりに真剣で、将来は絶対に結婚しよう、この人ほど好きになれる人には一生会われへんって本気で信じてた」


 姉は自重するかのような少し皮肉な笑みを浮かべた。


「今思えば考えなしで浅はかな行為やったって思う。責任も取られへん歳やのにって……でもその子を好きになってアンタを産んだことは一回も後悔したことない」


「……その子…俺のお父さんは今どうしてんの?」


 葛は一番気になっていることを聞いた。

 姉が実母だったことは確かに衝撃の事実だ。でも一番の衝撃は自分に今の父ではない本当の父親がいるということだ。

 

 姉は眼を閉じた。涙が頬をつたう。


「その子…いつきは中3の夏休み、ご両親と一緒に車で事故に遭って……亡くなった」


 またしても衝撃の事実だった。


「斎が亡くなったって聞いても信じられへんかった。認めんのが怖くてお葬式も行かれへんかったし。夏休みが終わっても学校にも行かんと部屋に引きこもってずっとベットの中で眠ろう眠ろうとしてた。現実が夢で、夢が現実になったら良いなって思って……」


 姉はその当時を思い出すかのような遠い眼をしながら話し続けた。

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