第12話 野田藤 前編

 【花の色は 昔ながらに見し人の 心のみこそ うつろひにけれ  詠み人知らず】


 

 今となっては顔も思い出せない人だが、ひとつだけ覚えている父の記憶。

 それは庭でしゃがみ込んでいる幼い自分の後ろに立った黒くて大きな影。首をひねって見上げたその顔は逆光で真っ黒だ。

 ふじが立ち上がって抱っこをねだるようにその影に向かって両手を広げると見下す影はふいに後ろを振り返り大声で母の名を呼んだ。駆けつけた母に抱き上げられるまで、藤は降り注ぐ太陽のまぶしさにギュッと眼を瞑ったまま誰もいない空に向かって両手を広げていた。





「お母さん、代わるからお昼ご飯食べて来たら?」


 藤は店先の母に声をかけた。母は「ごめんね」と言いながら店の奥、住居の方へと入っていく。

 

 母の実家である「曙堂あけぼのどう」はこの町では結構老舗の和菓子屋さんだ。3代目だった祖父も祖母もすでに亡くなっていたが、今は母の姉である伯母の夢実ゆめみと祖父の代から職人として働いていた染井そめいの伯父さんが結婚してその跡を継いでいた。

 

 藤は5歳の時、母とともにこの「曙堂」へやって来た。 

 それまで暮らしていた家は「曙堂」よりもずっと有名で大きな和菓子店だった。厳格な祖母、ほとんど話したこともない父。

 藤はその家でのことをあまりよく覚えていないが、藤が何かするといつも母が祖母から酷く叱られていたのは記憶に残っている。それが嫌で物心ついてからはひたすら自分の部屋でじっとしていた。

 結局跡取りが産めないのなら出て行けと言われた母は、大人しく離婚届に判を押す代わりに藤の親権を手に入れると実家である「曙堂」に出戻ってきた。

 

「曙堂」には2人の子供がいた。染井家の長男の春告はるつげと長女の吉野よしの春兄はるにいこと春告は藤より3つ年上で吉野は藤と同い年だった。母の嫁ぎ先では家の中で走り回ったことも、大声で騒いだことも、笑ったことも泣いたこともケンカしたこともなかった藤だったが、この家に来て従兄妹たちのお陰でそれらのすべてを経験することが出来た。楽しいとか幸せだという気持ちも染井家の家族になって初めて知ったのだった。

 

 母は藤が小学3年生の時、近所に住む野田さんという高校の同級生だった人と再婚した。野田さんは昔から染井家と交流があり、藤が「曙堂」に来てからは藤のことも可愛がってくれていた。お店が忙しい染井の伯父や伯母の代わりに「曙堂」の子供たちを遊園地や動物園に連れて行ってくれたり一緒に遊んでくれたりと、藤にとってはずっと父親代わりのような存在だった。なので野田さんが「お母さんと結婚しても良いかな」と藤に尋ねた時は満面の笑みで頷いた。

 それからは母と藤は野田さんの家に移り住むことになったが、「曙堂」のすぐ近くだったので相変わらず毎日のように染井家に遊びに行っていた。

 

 藤が小学4年生の時、弟が産まれた。野田家は4人家族で暮らすには手狭になったそれまでの家を離れ新居を構えることになった。野田家の新居は「曙堂」からさほど遠い場所ではなかったが、藤は家族だった染井家と今までよりも距離が出来ることが少し寂しかった。

 

 そして藤が小学5年生になった今年の夏。ついに野田家は新居へと引越し、藤は夏休み明けに今とは別の小学校へ転校することになった。

 家も小学校も離れてしまったが、従姉妹で同い年の吉野は藤に、というより弟である一斎いっさいに会いに毎日野田家の新居へやって来た。可愛い可愛いと姉である自分よりも弟を可愛がる吉野を見るたびに藤はいつも自分が恥ずかしくなる。

 

 確かに弟は可愛かった。母が弟を妊娠したとき藤は心から喜んだし早く会いたいと弟の誕生を今か今かと待ち侘びた。実際に初めて見た弟は真っ赤っかでしわしわなのにやっぱり堪らなく可愛かった。自分の人差し指をぎゅっと握る弟の小さな手。弟がほわほわと泣き出すと藤は家族の誰よりも先にそばへと飛んでいった。あれから少しずつ成長していく弟は今でもやっぱり愛おしい。

 それなのに……


 藤が小学校を転校してから1ヶ月ほどが過ぎたある日曜日のこと。

 その日は従兄弟の春兄はるにいの野球の試合があるので伯父、伯母、吉野の3人は応援に行っていた。母がひとり店番として残ると聞き藤は弟の面倒を見がてら母を手伝おうと「曙堂」に来ていた。

 母が遅いお昼ご飯を奥で食べている間、藤はショーケースの内側に立ちお客の居ない店内をぼんやりと眺めていた。

 ふいに「あーあー」と背後から声がする。振り向くと弟の一斎いっさいが店の上がり框から藤に何やら話かけていた。


「いっくん、こんなトコ這い這いしてたら危ないで」


 藤は弟が段差から転げ落ちないよう慌てて抱っこした。弟はなにやらうーうー言いながら藤の肩をきゅっと掴む。藤はよいしょっと弟を抱き直した。甘く優しい匂いがする。小さな可愛い弟、こんなにも愛おしいのに……

 それなのに藤は最近弟を見るたび胸の奥に小さなしこりが出来ていくような気がしていた。しこりは日を追うごとに大きく重くなっていく。

 藤は自分の心がわからなかった。何故こんなにモヤモヤするのか。野田の父は弟が産まれてからも自分を分け隔てなく可愛がってくれる。母もそうだ。学校の友達は下の子が産まれたら「お姉ちゃんでしょ」とか「お姉ちゃんのくせに」とか言われてムカつく、などと言っていたが母は一度もそんな風に言ったことはない。むしろ藤が自分から「お姉ちゃんやから」とか「お姉ちゃんやもん」などと言って勝手に我慢したり弟のお世話を手伝ったりしていた。

 

 弟は何も悪くない。

 弟が何をしても何をしなくてもきっと藤は弟に対して何やら複雑な気持ちになってしまうのだ。どうしても弟を見ると思ってしまう……

 

(もし私が男の子だったら……)


 記憶の中の父、あの大きな影は自分を抱き上げたかも知れない。母はあの家を追い出されることもなかったし、祖母に虐められることもなかっただろう。藤が女の子だったばっかりに。

 藤は腕の中の弟を見ながらそっとため息をついた。

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