第7話 羽木雅城

【草深み こほろぎさはに鳴くやどの 萩見に君は いつか来まさむ  詠み人知らず】


 

 羽木はぎ雅城みやぎは勉強の手を止めて窓から聞こえてくるコオロギの鳴き声に耳をすませた。


(また秋が来たなあ……)


 秋が来るたびどうしてもそわそわしてしまう。

 もしかして彼女がこの家を訪ねて来てくれるんじゃないか……

 小学校の卒業式からもう3年近く経っているのに。そんなことあるわけないのに。わかっていてもやっぱりどこかで期待してしまうのだ。あの日雅城の言葉に頷いた河原かわらさんの潤んだ瞳と儚げな微笑みをまた思い出して雅城はそっとため息をついた。


 中学3年生の雅城はこのところ勉強勉強の毎日だ。幼い頃から昆虫に興味がある雅城は大学は農学部に行きたいと思っている。農学部がある大学は国立が多い。そのため高校も専門性の高い進学校を受験することにした。


(河原さんはどこの高校に行くんやろう……)


 雅城が受けるのは県内にある私立の男子校なので、高校で河原さんに会うことは絶対にないのに、そんなことを気にしてしまう自分がマヌケでちょっと情けなかった。


 小学6年生の秋の日。体育の授業中に河原さんと話せたことは雅城にとって奇跡といっても過言ではない。

 河原さんは東京から引っ越してきた転校生で学校には馴染めていないようだった。いつもひっそり目立たないよう佇んでいる姿は、河原さんの名前と同じ撫子なでしこの花みたいだった。

 いつもチラチラと河原さんを見ていたが、あの体育の日花壇にぽつんとひとりで座っている河原さんは本当に撫子みたいに可憐だった。思わず見つめていると河原さんの方に誰かが暴投したボールが飛んでいった。

 

「おーいっ、そっちいったぞーっ!」


 思わず叫んでいた。河原さんはボールの軌道からは少しズレていたのに立ち上がってわざとボールに当たった、ように見えた。

 つい河原さんのところへ駆け寄ってしまった。結構勢いのある球だったけど大丈夫だろうか。

 ラッキーだったのは先生が雅城に河原さんの側についておくよう言ってくれたことだ。河原さんと話せるチャンスに胸がどきどきして、その音が河原さんに聞こえてしまわないかと焦っていた。


 河原さんがわざとボールに当たったのは花壇を守るため。いや正確には花壇の茂みで鳴くコオロギを守るためだったと知り、虫好きの雅城はその瞬間本格的に河原さんに恋をした。今までも気になっていたがどんな子なのか知りたい気持ちの方が強かった。孤立しているように見えたし寂しそうで儚げな姿に少し同情していたのかもしれない。 

 でもその日、河原さんが同情されるようなか弱い女の子ではないとわかった。彼女は強い。独りぼっちで友達がいなくても毎日学校へ通って来る。それだけでも彼女が弱い人ではないとわかる。


 隣で眼を閉じている河原さんの横顔にハッとした。


(笑ってる……)


 河原さんと同じクラスになって以来、笑っている河原さんを見るのはそれが初めてだった。河原さんをもっと笑顔にしたくて雅城は必死に話した。しゃべれることは虫の話ぐらいで女の子がそんなことを聞きたいのかどうかわからなかったが、とにかく河原さんと話していたかった。先生に呼び戻されるまで雅城は夢中でしゃべり続けたのだった。

 結局そんなに話せたのはその時だけで、その後河原さんとは挨拶を交わすぐらいの間柄でしかなかったが、雅城は相変わらず河原さんをチラチラ見てしまう。たまに眼が合うと思わず笑みがこぼれた。河原さんはその度に恥じらうような微笑みを返してくれたけど、いつもニヤニヤと自分を見ている気持ち悪いヤツと思われてるんじゃないかと雅城は内心ひやひやしていたのだった。

 河原さんは徐々に元気になっていった。クラスの女子にも馴染んだみたいで少しずつ笑顔が増えていく。雅城は自分のことのようにうれしく、そして誇らしかった。

 やっぱり彼女は芯のしっかりした強くて美しい花だった。俺は前から知ってたけどな、と。

 卒業式の日、河原さんに声を掛けられて驚いた。そしてついあんなことを口走ってしまったのだ。


「ウチの庭、草ぼうぼうで秋になったらめっちゃコオロギ鳴くねん。いつか秋になったら聴きに来て」


 中学は離れてしまうから、せめて秋の間だけでも河原さんに会いたくて言ってしまった。

 その年の秋、コオロギが鳴き出した頃は毎日学校が終わると一目散に家まで走って帰った。河原さんが来てるんじゃないか期待して。休みの日はそわそわと一日中家の中をぐるぐると歩き回り、弟に「オマエは熊か。じっとしとけやっ、うっとおしい!」とキレられたこともある。

 でも河原さんは来なかった。コオロギの音もいつしか聞こえなくなり冬がやって来た。


 結局その後も河原さんがこの家にやって来ることはなかったが、毎年秋になりコオロギが鳴き出す頃になると、雅城はどうしてもそわそわしてしまう。


 ある日、万葉集の中に雅城の心情を歌っているような歌を見つけた。


【草深み こほろぎさはに鳴くやどの 萩見に君は いつか来まさむ】


 コオロギの求愛を聴きながら、今日も雅城は待ち続けることをやめられずにいたのだった。

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