第5話 河原撫子 前編

【秋風の 吹きにし日より いつしかど 我が待ち恋ひし 君ぞ来ませる  山上憶良】


 

 コオロギが鳴いている。もう秋なのね。

 河原かわら撫子なでしこは心の中で歌うように呟いた。


「鳴いてるんじゃなくてはねを擦り合わせて音出してんねん」


 少年の声が聞こえる。そう、鳴いてるんじゃなかった。

 撫子はうっすら微笑んで眼を閉じた。コロコロリー。低くて優しい声。これは【誘い鳴き】だ。こおろぎが求愛するときの声。


「コロコロコロって鳴くんは【ひとり鳴き】オスがなわばりを主張するときに出すヤツで、キリキリキリって強くて短めに鳴くときは【争い鳴き】そういうときはオス同士がケンカしてんねん。」


 そのあとコオロギを捕まえて見せてくれたっけ。


「これはエンマコオロギ。夜中にヒロヒロヒロって鳴いてるやろ?」


 虫は得意ではなかったがその時の撫子は「へえー」と少年が見せてくれたコオロギをじっと眺めた。

 その日撫子は、エンマコオロギという名前も、コオロギの右側の翅の裏にギザギザがついていることも、左側の翅に尖った部分があることも、そしてそれを擦り合わせて震動で音を出していることも。全部初めて知った。その少年がすべて教えてくれたのだ。ずいぶん前の出来事なのに昨日のことのように思い出せる。

 撫子は眼を閉じながらコオロギの愛のささやきに耳をすませた。


 

 撫子がまだ小学6年生だった9月半ば頃のこと。

 父親の転勤でその年の4月に東京から関西の方へ越してきた撫子は転校先の小学校で、まだ同級生たちと親しく会話を交わせたことがなかった。関東の言葉は気取って聞こえるようで、いつも撫子が話すたびに教室のあちこちからクスクスと忍び笑いが聞こえた。関西弁にも慣れていなかったため、ときどき言葉の意味がわからずキョトンとして相手を苛立たせることも多かった。もともと社交的ではない撫子はどんどん無口になった。必要最低限の言葉しか話さず、なるべく目立たないよう自分の影を薄くして。男子はおろか女子にも友達と呼べる人はいない。ただ黙々と授業を受け、学校が終わればそそくさと家に帰る。そんな日々だった。

 

 その日は朝から熱っぽかった。しかし撫子は「今日は休んでおく?」という母の問いかけに小さく首を横に振った。一度休んでしまったらそのままずるずると学校に行けなくなる気がしたから……体育は見学させてもらいなさいという母の言葉には無言でうなづいた。

 今でも撫子はこの日の自分を「えらかったね」と誉めてあげたい。自分を奮い立たせて学校に行ったからこそ、彼とあのひとときを過ごせたのだ。

 

 花壇のレンガに座って体育を見学していた撫子はぼんやりと空を見上げていた。空が高い。背後からは虫の声も聞こえてくる。まだまだ暑いのにもう秋が来ているのだなと虫の声に耳をすませていた、その時


「おーいっ、そっち行ったぞーっ!」


叫ぶ声がした。ドッチボールの球がこちらに向かって飛んでくる。撫子はとっさに立ち上がってボールの正面に立ちはだかりボールが花壇に突っ込むのを阻止した。バシッとボールは撫子の胸に当たって跳ね返る。一瞬うっと息がつまった。


「大丈夫か!?」


 先生が撫子の元へと走って来た。ケホッと息がこぼれ呼吸が出来るようになり、大丈夫です、と答える。跳ね返ったボールを拾った先生は


「羽木、お前ちょっと付いといたれ」


 ボールを投げた子なのだろうか、一緒に走ってきた男の子にそう声を掛けた。


「はい」


 男の子は素直にそう言うと撫子に近づいてきた。


「大丈夫?座れる?」


 うなづいて下を向いたまま撫子が花壇の縁に腰掛けると、男の子は当然のようにその隣に座った。


(うう……気まずい……どうしよう……)


 顔が上げられず撫子は下を向いたまま胸を押さえた。もうさほど苦しくは無かったが、こうしていれば男の子に話しかけなくても良いような気がしたから。


「わざとボールに当たりに行ったやろ?何でなん?」


 突然隣の……確か羽木くん?……が話しかけてきた。


「えっ……」


 思わず隣に顔を向けると羽木くんが撫子をじっと見ていた。


「あの……えっと……」


 そのまま撫子は花壇の方を振り向いた。さっきまで耳に届いていなかった虫の声がまた聞こえてくる。羽木くんは撫子と一緒に振り返って花壇の茂みを眺めた。

 これではなんのことだかわからない。説明しなければと撫子が焦っていると羽木くんは撫子の方に顔を向けて微笑んだ。


「ああ。コオロギ、守ったったんや!」


(え、わかってくれた?何も言ってないのに……)


 思わず撫子は羽木くんをじっと見つめる。羽木くんはさらににっこりと笑った。


「もしかして、虫好きなん?」


「え、あ、虫っていうか虫の声が……」

 

 好き、まで言えずまた下を向いてしまう。


「そっかぁ。エエよなぁ、コオロギの鳴き声」


 そう言って羽木くんは顎を少し上げ音楽を聴くように眼を閉じた。 

 それを見て撫子も同じように眼を閉じる。風が心地良い。心が軽くなっていく気がした。

 どのくらいそうしていたのか。撫子がそっと目を開けると羽木くんがこっちを見ていた。そして話してくれたのだ。


「鳴いてるんじゃなくてはねを擦り合わせて音出してんねん」


「どうして音を出すんだろう?」


 撫子の囁きに羽木くんは「ん?」と首を傾げた。


「あ、あの、だって音を出したら自分がそこにいることが周りにわかってしまうでしょう。コオロギを食べる鳥や動物なんかにも見つかってしまうのに……って」


 ああ、そういうことか。というように羽木くんがうなずいた。


「コオロギには3つの鳴き方があって……あ、鳴いてるんじゃないけど、まあ鳴き声でエエか。コオロギは鳴き声でコミュニケーションとってんねんて」


 そう言って羽木くんはコオロギの3つの鳴き方を教えてくれた。 


「確かに敵にも知られるかも知れんけど自分はここにいるぞって主張してんねん。そうじゃないと自分の居場所を確保出来ひんし子供も作られへんから。コオロギは成虫になったら1ヶ月半ぐらいしか寿命がないからその間にどうしても子供作らんとアカンしな。怖がってたらなんにも出来ひんやろ」


 羽木くんはそのあと先生に呼び戻されるまでコオロギを見せながら撫子と話しをしてくれた。この学校に来て以来両親以外の誰かとこんなに話したのは初めてのことだ。

 撫子は、羽木くんが「じゃあ、行くわな」と走り去ってからも胸を押さえたまま動けなかった。胸に当たったドッチボールのせいではない。けれど鼓動がどんどんと高鳴るのは少しの間治ることはなかった。


(怖がってたら何も出来ない……)


 撫子は羽木くんの言葉をそっと心の中でつぶやいた。

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