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そうして半年ほど前、夏美さんが「和弘さんが帰ってこないんです」と、憔悴した様子でうちに相談に訪れました。
「飲みに出たまま一日二日帰ってこないことは、これまでも何度かありましたが、今回は一週間も音沙汰がないんです」というのです。
「いなくなったのは子供じゃないのだから、もう少し様子を見たら?」と軽く返しましたが、その言葉は、不安に揺れる夏美さんの心を癒すことはありませんでした。
一週間後、彼女の顔には疲労の色が一層濃く刻まれていました。
わたしは彼女に付き添い、警察に「行方不明者届」を出しに行くことになりました。
静かな交番の中、書類にペンを走らせる夏美さんの手が小刻みに震えていたことを、今でも鮮明に覚えています。
夫が行方不明になって最初の頃、夏美さんは「いつ帰ってくるかわかりませんから」と、怯えたような目をしていました。
しかし、三ヶ月が過ぎる頃から、その怯えも次第に薄れていき、少しずつ平穏を取り戻し始めました。
そして半年近く経った今、彼女の笑顔にはかつての輝きが戻りつつあります。
その笑顔が、かえってわたしの胸を痛ませました。
「ただいまぁ」
下校してきた夏美さんの小学生の娘、秋菜ちゃんが赤い傘をひらひらさせながら庭先をこちらに駆けてきます。
その姿はまるで初夏の風に乗る蝶のようです。
「おかえり、秋菜ちゃん。今年も紫陽花が綺麗に咲いたね」と声をかけると、「うん。青いお花がいーっぱい」と、彼女は目を輝かせて嬉しそうに返しました。
半年前までは、秋菜ちゃんの笑顔なんてほとんど見たことがありませんでした。
「あっ、ママ、かたつむり!」と指さす秋菜ちゃん。
「わぁ、本当ね」と夏美さんは優しく微笑みます。
その光景は、まるで心地よい風が吹き抜けたかのように、見る者の心を温かく包み込むものでした。
これが、夏美さんと秋菜ちゃんの本来の姿なのです。
二人とも口には出しませんが、きっと彼女たちも内心では、暴力を振るう夫であり、父親である存在が帰ってこない方がいいと思っているに違いありません。
花びらに宿る露が、光を受けて虹色の輝きを放つ紫陽花の向こう側、笑顔で楽しそうに話す母娘。
その姿を見つめながら、ずっとこのまま明るく穏やかな日々が続いて欲しいと願わずにはいられませんでした。
「——ごめんね」
わたしは、そう呟きながら、実の息子の和弘さんの養分を吸って咲き誇る紫陽花をそっと撫でました——。
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