「紫陽花・完全版」
成阿 悟
1
部屋の掃除を終え、窓を開けると、隣家の庭先で夏美さんが傘をさし、しとしとと降る雨に濡れながら紫陽花を愛でている姿が目に入りました。
薄曇りの空の下、その情景はまるで一幅の絵のように静謐でした。
隣家と我が家の境には、毎年この時期になるとたくさんの紫陽花が花ひらきます。
「今年は一段と綺麗ね」と声をかけると、夏美さんは微笑み、わずかに頷きました。
わたしも小さな傘を手に、庭へと足を踏み出します。
群れ咲く紫陽花が、そぼ降る雨に濡れて、しっとりと輝いていました。
「——紫陽花は、晴れた日よりも、雨に濡れている時の方が、その美しさが一層増しますね……」
今年は、青色の花が多く咲いているのを見つめながら、夏美さんがぽつりと言いました。
彼女の横顔にも、雨に濡れる紫陽花のような静かな美しさが漂っています。
「本当にそうね——」と、わたしは応えました。
この辺りは新興住宅地で、緑も多く、ご近所付き合いも和やかでした。
日常の挨拶や季節の挨拶が交わされる中で、笑顔が絶えない穏やかな日々が流れていました。
しかし、二年前、その静けさに波紋が広がったのです。
夏美さんの夫、和弘さんの勤めていた会社が突如倒産してしまったのです。
それからというもの、夏美さんは家計を支えるため、いくつものパートを掛け持ちして働くことになりました。
和弘さんも懸命に再就職先を探し、何度も履歴書を書き、面接に足を運びました。
しかし、不景気の風は冷たく、再び職を得ることは叶わなかったのです。
失望と焦燥が心を蝕み、やがて彼は酒に逃げるようになっていきました。
そして、その逃避行は——家庭内の平穏をも奪ってしまいました。
和弘さんの苛立ちは次第に暴力という形で噴出し、夏美さんや幼い娘にまで及びました。
家庭の中は怒号と悲鳴、そして泣き声が日常となり、かつての穏やかな時間は遠い記憶となっていました。
ご近所の人々の通報で何度も警察沙汰になり、その結果、夏美さんは同情されながらも距離を置かれる存在となってしまいました。
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