43話 食べるという幸福

 山小屋の朝は早い。午前6時には、部屋にチャイムの音が鳴り響き、放送の声が響くのである。「朝食の準備が整いましたので、食堂にお越しください」と。


 俺は、未だ布団を頭まで被って眠る早瀬を起こすべく、布団を手で軽く叩いた。


「起きてくださーい。朝ごはんの時間ですよー」

「んん、眠い」


 早瀬は、布団の隙間からゆっくりと顔を覗かせた。目を細めて、大きなあくびをかました。


「なつぅきぃ?」

「ん、何?」

「着替えるから、そっち向いてて」


 早瀬は窓の外を指さしている。俺はおとなしく彼女に従って、山の峰の曲線と青空の境界を眺めたままでいた。背後からは、服の擦れる微かな音が聞こえてきて、それを鳥の鳴く歌が上塗りにした。


「……」


山小屋前のデッキのベンチを覆う屋根の上の小鳥を眺めて、一足先に出発した親子の背中を眺めて、天にゆっくりと昇る太陽の白い光に見惚れて……待てど待てど、背後から声がかけられない。


「終わった?」

「あの、いつまで待ってくれるかなーって実験してた。もういいよ」

「なんだそれ。まあ、待つのは苦手じゃないから大丈夫だよ」


 許可を得て、背後へ振り向いた。そこには、骸骨が堂々と描かれた長袖と、ジーパンを履いた早瀬が立ち尽くしていた。


「じゃあ、朝ごはん行こうか」


 朝食も、前日の夕食と同様に美味であった。特に、舞茸ごはんの味が気に入って、俺は茶碗一杯のおかわり、早瀬は二杯のおかわりをした。山で食べる山の幸の味は、やはり優れて美味しかった。


 山小屋を出て、昨日歩いた道を辿って戻る。睡眠時間も十分に確保できたので、俺も早瀬も休む時間少なく歩くことができた。お陰で、車を停めていた駐車場に到着した頃には、予定よりも早く、一時間の猶予が生まれた。


 その後は、互いに持ち寄ったCDを聞き合いながらしばらくのドライブ。予約していたホテルに早めのチェックイン。


「おお、結構広いね」

「せっかくなら、広々としてたほうがいいでしょ?」


 二人部屋としては広々していて、小さめの冷蔵庫にテレビ、ウォーターサーバーまで付いている。洗面所とトイレは当然キレイであって、浴室まで完備。至れり尽くせりの一室に、早瀬は満足げであった。


……その代わりに、新品のマウスやパソコンを買えるようになるまでの期間が延びた。


「私、こっちで寝ていい?」

「どうぞ、お好きに」


 窓際のベッドに飛び込んだ早瀬。俺の就寝場所はこれで限定されて、テレビ前の畳の上に布団を敷くか、早瀬の隣のベッドかである。


「じゃあ、俺はこっちで」


 迷いなく、テレビ前の畳に横になった。




****




 部屋のインターホンが鳴ったので、俺は扉を開けた。そこには、大浴場での入浴を終えた早瀬の姿があった。


「じゃーん。どう?」


 早瀬は、黒の浴衣を身に纏っていた。袖の肩の部分や背に金色の刺繍が飾る、美しくも落ち着いた雰囲気の浴衣であった。彼女がくるりと一回転すると、袖底がはらりと宙を踊った。


 彼女の頭のてっぺんから、スリッパを履いたつま先までをまじまじと見つめて、一つ、頷いた。


「うん。綺麗だと思うよ」


「やったー。ねぇ、写真で撮ってよ」


「はいはい」


 自分に合った着物を身に着けるに至って、早瀬はかなり上機嫌だった。骸骨や稲妻が走るデザインの、カッコいい衣服も似合うが、このような和の落ち着いた美しさも彼女には似合うなと、写真に収めてみて改めて思う。


 早瀬があまりに美しいから、着るものが彼女に合わせているようにも思えた。


「もう夕ごはんの時間になるよ。準備できたら、行こうか」


 部屋の鍵であるカードを斜め掛けのバッグに入れた俺。その後ろにぴったりと、彼女が付いてきた。


「ごはん、ごはん♪」


「ほんと、食べるの好きだよね」


「当たり前じゃん。人間にとっての幸せの一つだもの」


 エレベータに乗り込み、夕食の会場となる一階を目指す。ちなみに、部屋は五階の564室である。


 静寂を運ぶ、二人きりのエレベーターの箱の中で、俺は早瀬にちょっと聞いてみた。


「……なんか、早瀬があまりにちゃんとした着こなしだから、俺がみすぼらしく見えるな……?」


 オーバーサイズの黒ズボンに、ちょっと大きめの黒Tシャツが、俺である。早瀬との対比で、むしろ彼女の上品さを欠いてしまうのではないかという心配がわだかまりとなって、モヤモヤと体の内側に張り付いている。


 しかし、そんな調子の俺に、早瀬は上下の歯をかみ合わせてニッとした笑みを向けた。


「気にしないでって。女の子は、かわいいものを着てみたくなっちゃう生き物なんだから。夏輝は夏輝で、かっこいいと思うよ」

「そうですか」

「……なんか素っ気ないなぁ」

「俺はファッションに興味ないし、早瀬が着たいものを着られるなら、それでいいかなって」


 ちょっと気まずい沈黙が立ち込めたエレベーターから解放されて、本日の宴の会場へと到着した。


 夕食は、バイキング方式。様々な品の中から、自分で好きなものを盛りつける。


「じゃ、ここの席集合で。Fの3の席ね。目印として、俺のポケットティッシュ置いとくわ」

「うん」


 俺と早瀬は、お盆を手にして、人で溢れる会場を歩き回って盛り付けをした。



 サラダを最初に盛り付けて、あとは唐揚げと、温かい白米を茶碗に盛って、早々に席に戻った。これは、俺の小さい脳みそを大回転させて練られた策略である。


 会場が開放されて間もないので、同じ宿泊客たちの多くが盛り付けに夢中になっている。だから、人で込み合って様々な列が蛇のように伸びているのである。その間に俺は簡単な盛り付けで席へ戻ってそれを味わい、皆が盛り付けを終えて空いてきた隙を突いて、本命の盛り付けを行うということが、策略の内容である。


「あれ、それしか食べないの?」


 大皿にたんまりとステーキを盛りつけた早瀬が、席に戻ってきた。俺は、シーザードレッシングをかけたサラダをむしゃむしゃと貪っている。


「そんなわけないじゃん。人が少なくなるのを、こうやって虎視眈々と待っているのだよ」

「ああ~人が少なくなってきたら、たくさん持ってこようって考えね。めっちゃ賢いかも」

「でしょ?早瀬もそうすれば?」

「いいや!いっぱい沢山盛り付けて、一気に食べたい!」


 そう言って、早瀬は人混みの中に紛れていった。




 再び席に戻ってきた早瀬。俺は、彼女の分のジンジャーエールを持ってきておいて、ステーキとご飯を食べていた。


「いただきまーす」


 ステーキ、唐揚げ、ナポリタン、ガーリックピザ、アジフライ、マグロやサーモンの握り寿司、フライドポテト、メイプルシロップがたんまりとかけられたパンケーキ等々が、平皿に盛り付けられている。……すごい油ものが多い。


「そんなに食べられるの……?」


「もちろん。これ食べ終わったら、第二弾、第三弾のおかわりと、デザートもちゃんと食べるんだから」


「まじか……まあ、元が取れて得ができるぐらい、いっぱい食べてな。俺は、小食だから」


 俺が絶句している間に、早瀬は平皿に盛られたピザを手に取って食べ始めていた。そのピザのソースの甘辛さを舌上で転がす彼女の微笑みの輝きは、太陽よりも煌々としていたかもしれない。頬が緩み切って、今にも零れて落ちてしまいそうだった。


 そんな幸せに満ち溢れたような彼女を見ていると、俺までつられて笑みがこぼれた。


「……サラダも食べたら?」

 

 俺は、小皿に盛ったサラダを早瀬に差し出した。


「油ものが美味しいのは分かるけど、野菜は体にも美容にも良いよ。もっとかわいくなれるよ」


「ありがと。夏輝にそう言われたら、食べるしかないっしょ」


 早瀬はその小皿を受け取って、箸で摘まんで食べ始めた。演技か否かは分からないが、好きでないと言っていたトマトやレタスを美味しそうに食べる彼女の顔が見られて、俺はちょっと安心させられた。


「ああ~信濃くんと澪央みおちゃんも一緒に来られたらなー」

「しょうがないよね。みんな忙しいし」

「バーベキューは、秋になるまでに集まってやろうね!」


 そういえば、今回ここへ来られなかった信濃と西園寺さんとは、バーベキューをおすることを約束していた。いつものメンバーで集まるのは、もう少し先になってしまいそうか。


「やっぱり、4人で集まれるのが最高なんだけど……だけど」


 早瀬はたこ焼きの一つを頬張って、それを飲み込んだ後に、言葉を仮置きして続けた。


 その黒い瞳の優しげな光が、俺の額を貫いていた。


「夏輝と二人きりの旅行も、すっごく楽しいな」


「……そっか」


 俺は素っ気ない感じで言った。しかし……本心では、両手を挙げて叫びたいぐらいに、嬉しかった。車の免許の取得のために時間をかけて、バイトでお金を稼いで貯めて、綿密に計画を立てて、彼女を誘えて、本当に良かったと思った。彼女の嬉しそうな微笑みが見られて、本当に幸せだった。


 それを口で表現できなかったのは、棺の中に閉じ込めておいた「口下手」が蘇ってきたからであった。


「俺がもっと盛り上げ上手で、もっと楽しい話ができたら、もっと冬紀のことを楽しませてあげられたのに……」


 ナポリタンを箸でぐるぐると絡ませながら、ネガティブな思考の毒に侵されていた。もっと可能だったはずだと、いらぬ後悔の螺旋らせんを永遠繰り返した。


「今も十分、楽しいって!自分を責めないでよ……」


「ああ、ごめん。俺って、こんな所に来てまでネガティブだから、どうしようもないよな……」


「元気出してよ。ほら、甘いものあげるから」


 俺は早瀬の二枚目の平皿からショートケーキを一切れ、頂いた。それを一口、フォークで刺して食べてみると、クリームの甘さとイチゴの甘酸っぱさで目をが覚めたような気がした。


 




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る