44話 夏の思い出

 夕食を食べ終えた俺と早瀬は、五階の部屋へと戻った。満腹感から、倒れ込むように布団の上に寝転んだ。


「はー、おいしかった。満足、満足!」


 早瀬も同様に、ベッドの上に横になった。


 今回宿泊したホテルは、バイキングでの品数が非常に多かった。サラダの専用のコーナーまであって、ドレッシングも豊富。早瀬が好む揚げ物も多種多様に用意されていて、ドリンクは飲み放題。ごはんも汁物も無現に補充されていた。これ以上ない満足感と充足感に浸されて、今度は眠気に襲われている。


「俺、疲れたから寝るよ」


「そっかぁ。今日はテレビで映画やるから、一緒に見たいなーって思ってたんだけどな」


 枕に頭を預け、柔らかい布団の感覚に全身を包まれていたが、洋室の空間から早瀬の声が聞こえてくる。未だ芯がしっかりとしていて、眠気を一切感じさせない声であった。


 俺は無言のうちに体を起こして、リュックからあるものを取り出した。袋を開けると、香ばしいバターの匂いが漂う。


「あ!おいしそうなもの食べてる!」


 俺がそれをバリバリと食べ始めると、野生の嗅覚と眼光を持った早瀬が、隣りに寄って座った。


「あるもの」とは、ポテトチップス(バター味)のことである。


「私にも寄越せー」

「欲しがるだろうなーって思って、開けたんだよ」


 テレビをつけると、ちょうどその映画が始まりつつあった。我々は、こんな更けた夜にポテチを貪り、お気楽に映画を嗜もうとしている。


 まあ、今日は貴重な旅行だ。楽しめるものは、思いっきり気兼ねなく楽しもうではないか。


「……」


「……」


 映画が始まると、ポテチを噛む音だけの無言が訪れる。俺も早瀬も、肩を寄せ合って映画の内容に集中している。


 たった今、放送されている作品は、甘酸っぱい男女の青春を描いたアニメ映画。昨年に公開されて、様々な賞を受賞したと聞いているので、期待は高かった。


「トイレ行ってくる」

「え、私も行きたいんだけど……」

「じゃあ、じゃんけんで決めようじゃないか。それが、うちの決まりだ!」


 コマーシャルが流れる時間になると、俺と早瀬はトイレの順番を巡って、決闘を繰り広げた。


 結果は、俺がパーの手を。早瀬はグーの手を出していた。


「お先~」


「負けた……」


 そうやって穏やかな時間を彼女と共有して、結局映画を最後まで視聴した。しかし、この二時間近い時間が経過しても、ポテトチップスは食べきれなかった。


 まあ、夕飯をしっかり食べたから俺と早瀬は二人とも、思っていたよりも満腹であったのだ。


「あんな高校生活、一回でいいから経験してみたかったな……」


 俺はテレビの前の畳の上に敷いた布団に横になりながら、映画で描かれた情景を想起した。無意識下で過去の自分の高校生活と主人公の輝かしさとを比較してしまって、少しだけもどかしい気持ちが湧いた。


「友達とか、彼女とか作ってみたかったってこと?」


 早瀬は歯ブラシを咥えながら、俺が横になる布団の近くのテーブル前に座っている。彼女がこちらに振り返る度に、レモンのような柑橘系の良い香りが空間に振り撒かれる。


 俺は、腕を額に乗せて、照明の白い光を仰向けで見た。


「人と関わる経験が少ないと、小説書く時に困るんだよね……会話が自然に思いつかないし、気持ちを描写するのに苦労するし……」

「あ~……そこ!?提出物とか予定分からない時に聞けなかったり、学校休んだ時に授業の内容聞けなかったりとか、そういうのじゃないんだ」


 早瀬はテレビのニュースを見ながら歯磨きをしていて、ゴロゴロする俺の方へ再び振り返った。また、彼女との価値観のすれ違いを引き起こしてしまった。


「……冬紀とは、やっぱり独りぼっちのレベルが違うんだよ。一人でも困らないように、ボッチは、学校休まないようにするし、分からないことがあったら先生に直接聞くんだよ」


 決して強がりばかりではなく、利点を実感してきたつもりだ。人と関わる力が身に付かなかったとはいえ、一人でどうにかする力が人より身に付いたと自負している。


 分からないことがあれば、先生やネットの住民といった有識者に尋ねる。道が分からなければ、スマホの地図を使う。日々の愚痴や不満は、小説のメタファーとして描き出して発散する。疲れれば、ゲームでもして落ち着くのだ。


「大学始まったけどさ、やっぱり冬紀とか、信濃とか、西園寺さん以外とはうまく話せないわ。胸襟を開けないっていうか、腹を割って話せないっていうか……打ち解け合える気がしないわ」


「ゆっくり距離を詰めれば大丈夫だよ。出身地とか、出身の高校聞くだけでも、話は膨らむじゃん?」


「俺にそんな話術は、ないよ」


 早瀬のアドバイスを実践で活用できるほど、俺は器用でないこと、自分が最も理解していた。


「まあ、冬紀と信濃と西園寺さんと、あと家族のみんなが居てくれるだけで俺は幸せだから、もう何も求めないよ」


 自分は満たされていると、自己暗示に溺れることで、他のことを考えずに済むのである。たった数秒先の未来への不安も、数年と先の闇も、その光が強過ぎるがゆえに、見えなくなってしまうのである。



——明日死ぬは良し。明日生きるのなら、なお良し。



 こんなマインドで生きていると、自然と心が常に落ち着くのである。


「ゴム取って」


「……!?」


 俺は布団から起き上がって、早瀬に手を差し出した。そして、テーブルの上のポテトチップスを指さした。


「ああ……どれ?」


「トランプの横にある『輪ゴム』取って。ポテチ、また明日の帰りにでも食べよう」


「は、はい。どうぞ」


 輪ゴムの一つを受け取って、ポテトチップスが少し入った袋を結んだ。これで湿気ることなく、おいしさを保ったまま明日も食べることができるのだ。


 そろそろ就寝しようかと思って、スマホの時刻を確認する。デジタル数字は11時30分を示していて、窓に掛かったカーテンの隙間からは白い満月が覗いている。


 明日は、山々の緑と別れ惜しいが、帰宅の途に就かねばならない。車の運転も、初日同様に長時間に及ぶことだろう。


「勘違いしちゃうでしょ……その言い方……」


「ん?」


 早瀬は、テーブルの間の座布団に正座しながら、俺の瞳の奥を覗き込むようであった。彼女の頬は、紅を刺したようにほんのりと紅潮していた。


 俺は、彼女に言われたことの意味が理解できずに、微妙な返事をした。


「……怒ってる?俺、なんか悪いことしちゃったか?ごめん…………」

「そういう訳じゃないけど……分かんないんなら、いいよ。おやすみ」


 早瀬は、後ろ髪を指でクルクルといじりながら、自分のベッドに歩いていって、浴衣を脱いだ。その下には、黒の薄いTシャツと高校で履いていたハーフパンツを身に着けていた。かなり、リラックスして寝られそうな恰好だった。


 俺はモヤモヤとしたわだかまりの感覚を抱えながら、歯磨きを済ませて、布団に横になった。


「冬紀、おやすみ」


「おやすみ……夏輝」


 早瀬からの明確な返事を受け取った。どうやら、不機嫌な様子ではないようだ。


 リモコンの「消灯」スイッチを押すと、入口とトイレ以外の照明が一斉に消えた。部屋に満ちる闇に紛れて、俺は布団の上へ、倒れ込むようにして横になった。


「……」


 静寂が満ちる室内、早瀬と俺の二人の、かすかな寝息の音が聞こえてくる。窓から覗く白い月の明かりが、ほのかな光を届ける。


 意識に霧がかかったようになって、体が浮遊感に支配される。眠りにつく前の独特の感覚に満たされていた俺は、足音を聞いた。


「……?」


 薄っすらと目を開ける。重い瞼の裏の眼球が捉えた景色には、暗闇に佇む早瀬の脚が映った。ただでさえ白っぽい彼女の太ももは、月明りの白を浴びてさらに白く見えた。


 トイレにでも行くのかと思われた彼女の体が、俺の胸に重なった。


「ちょっと……?!」


 彼女の頭が、すぐ耳元にあった。俺の薄い胸と彼女の豊かな胸とが重なって、心臓の鼓動の奏でを共鳴させる。体温を直接に交換できる密接な距離に置かれた俺は、言葉を喉元に詰まらせた。


「冬紀……?どうしたの、気が狂った?」


 俺は、選びうる言葉の中で最低なものを声にしてしまった。それほどまでに動揺してしまって、背中に汗が湧いて出たものだ。


 抱きしめられて、ちょっと息苦しくなった俺の耳元に、囁く優しい声が届けられた。


「夏輝は、すぐに自分を追い詰めちゃう癖があるから、こうやって発散しないとね」


「は……離れてよ。俺、臭いよ、今、汗もかいてますし!?」


「全然そんなことないよ。さっきシャワー浴びてたから、シャンプーの匂いがする」


 なんとか早瀬を引き剥がそうとしてみるも、より強く抱きしめられるばかりで、俺の体はメデューサに睨まれてしまったかのように、石像の如く硬直してしまった。


 しかし、そんな無言の時間を共有するうちに、徐々に心臓の拍動は落ち着いてきた。


「こうしてぎゅーってしてると、心が落ち着いてくるでしょ?」


「まあ、確かに。ストレスの軽減とかがあるって、何かの記事で読んだことがあるな」


 俺も、体を彼女に預ける形で脱力した。そうしていると、脳が大海原を漂うような、壮大な多幸感に包まれた。


「こういうのは、本当に好きな人としなよ……」


 やっと沈黙の壁を打ち破って、俺は言葉を紡いだ。早瀬は、表情の色を見せてくれた。


 その頬は緩み切っていて、あまり覚えに無い彼女の笑みを見るに至った。今までの微笑みや、目を細める笑いとはまた異なる、笑みを浮かべた表情であった。


「そうしてるつもりだよ?私は、本当に好きな人としかぎゅーしないんだから」


「あ……そう……そうですかぁ……」


 いくら鈍感な俺でも勘づくことができた。俺は、彼女から愛の告白を受けているのだと。


 本意としては、嬉しかった。早瀬のことは、最高の友達だという認識でいたが、まさか彼女はそれ以上の存在と俺のことを認識していたとは。


 しかしながら、こういう「愛される」経験が無かったので、どうやって心の内を表現すればよいか迷ってしまって、結局沈黙するのであった。


「んん……好きだよ。大好き、とにかく大好き……」


「あ……ありがとうございます……そう言っていただけて、幸せです……はい」


「夏輝は気が付いてないのかもしれないけど……私は、夏輝のことが大好きなんだよ?人間としても、友達としてもね」


「優しさは一方的なものかもしれないけど、それを互いに認め合えた時に『好き』が成り立つんだよ」

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