42話 時を秘める星々
昼時には、尾瀬沼に到着。日本において最も標高の高い場所にある湖の美を臨みながら、ベンチで早瀬と隣り合っておにぎりを頬張った。
岩を打つ湖面の波の奏でが、心を落ち着かせる。カルガモの親子が、ピヨヨヨと鳴きながら水面に顔を突っ込んで魚を探している。
「静かだね」
早瀬は湖面を眺めて、うっとりとした顔をした。その湖面に
「こんな優雅なお昼ごはん、久しぶりだわ。いつもは面倒臭くなって、カップ麺とか冷凍食品で済ませちゃうから」
「同じく。でも、こういうキレイな景色があれば、コンビニのおにぎりの美味しさも十割増しだね」
俺はそうやって感想を共有して、ツナマヨおにぎりの頭にかじりついた。ごはんのモチモチした食感と、海苔のパリパリとした食感が程よく、しかしツナとマヨネーズの味は、未だ覆い隠されていて遠かった。
「ごみ、ちょうだい。山降りたら、まとめて捨てちゃうから」
「ありがと」
早瀬からおにぎりのゴミを預かった。なんと、彼女の空腹は、5つものおにぎりを平らげてしまったらしい。牛カルビ味、ツナマヨ味、鳥からあげ味、辛子明太子に、鮭。いかにも彼女が好きそうな具が勢ぞろいであった。
昼食を食べ終えて、しばらく沼の景色を眺めて時間を潰し、山小屋にチェックイン。俺と早瀬は幸運なことに、角部屋に割り当てられた。
入口の戸を開けると、二人で使うには十分な広さの部屋が待っていた。床は畳が張り巡らされていて、自然の草木に近しい天然のい草の香りが鼻腔をくすぐった。窓の外には山小屋前の木製のデッキと、遠方の山々の緑が広がっている。
「はあー。疲れたけど、楽しかったー!」
「なら、良かった」
重いリュックを降ろして、畳の上で横になった早瀬。俺は、ペットボトルのレモンジュースを飲み干して、やっとの安息を得た。
ここまで、自分だけの力で辿り着くことができたことが、驚きであった。これまでは、何かしら両親や姉や祖父母の力を借りてきたのだが。
「これは、今日の早朝に出会った鹿の写真でしょ?これは、綺麗に撮れた朝焼け。これは、夏輝がトンボを指に乗せてるやつ」
「俺は、こういう旅行を企画するの初めてだったから、あんまり写真を撮れてないな」
畳の上、早瀬と肩を寄せて、今日撮った写真を見せ合う。彼女は、特に気に入った写真をメールアプリで送信して、信濃と西園寺さんに共有した。
そうして、時間はあっという間に過ぎ去って陽は傾き、夕食の時間がやってくる。
山の夕食は早し。午後5時半ではあるが、俺と早瀬は食堂へと向かうため、スリッパを履いて階段を降りていく。
「めっちゃ美味しいじゃん」
「山小屋のごはんって、なんかすごく美味しいんだよな……」
「塩焼きの塩加減、最高だね」
今日のメニューは、アユの塩焼きに白菜と牛肉のしゃぶしゃぶ、漬物二品とオレンジ、ホカホカの白米に味付け海苔と、味噌汁まで付いている。
それらを食べ終えたら、入浴の時間。
「お兄さん、どこから来たんだい?」
たんまり汗をかいた体をタオルで洗っている時、となりのおじいさんが話しかけてきた。唐突ではあったが、俺は冷静でいることができた。
「東京の
「はええ~えらい遠くから来よったなぁ」
「そちらは?」
「オレは、新潟の
なんと、おじいさんは新潟からの来訪者だった。新潟といえば日本のコメの生産地だったなと思い出しつつ、シャワーで石鹼を洗い流す。最近尾瀬では、石鹸や歯磨き粉の使用が解禁された山小屋が増えている。
「若いお嬢さんと一緒だったよな。デートかい?」
「い、いや、旅行ですね。高校の頃の友達なんです」
おじいさんから思わぬ言葉のを突きつけられて、俺はたどたどしい感じを隠せなかった。
よくよく思い返せば、早瀬と二人きりで旅行だ。アイスを一緒に食べて、ドライブを楽しみ、自然に包まれて、同じ部屋で眠ろうとしている。俺自身は全く意識していなかったが、傍から客観視してみると、思ったよりも「デート」っぽい。
頬のあたりに熱が籠って、カーっと熱くなった。俺は、そんな気恥ずかしさを上塗りするように、すかさず話題をすり替えた。
「今日は天気が良いので、星が綺麗に見られそうですね」
「おお、そうだな。ビール一杯やって、ゆっくり見るとするかねぇ」
そう言いながら、おじいさんは湯舟から出て、脱衣所の方へと出ていった。
「じゃあ、夜にまた」
「ええ。是非、ご一緒させてください」
「9時に、前のデッキでどうだい?」
「そうしましょう」
****
「ただいま」
「あ、おかえり。私も入ってきちゃった」
「
「若いお母さんと、娘さんが入ってたよ」
俺が部屋の戸を開けると、そこには高校のジャージ姿の早瀬が。床の畳の上で枕を首元に当てがって、スマホをいじっていた。髪がほのかにしっとりと濡れていて、香水か何かの柑橘系の匂いがほのかに風に混じっていた。
どうやら、同じぐらいのタイミングで入浴を済ませていたらしい。宿の予約が少なめで、
「もうお布団、敷いちゃおう~横になってゴロゴロしたいし」
早瀬は手慣れた感じに、布団を敷いてシーツをセット。枕を首元に当てて、大の字になった。
俺も、彼女に倣って布団を敷いた。
「もうちょっとこっち、おいでよ」
「せっかく広々した部屋なんだから、広く使えばいいじゃん……」
早瀬は、自分の布団の領域のほうへ、俺の布団を引っ張った。
まあ、今だけだと思って、早瀬のすぐ隣に寝転んだ。そうして、持ち寄ったトランプやUNOで遊んで時間を潰した。歯磨きを済ませれば、すぐに就寝できる体制を整えているのである。
……慣れない運転や旅行によって、体と精神は存外に疲弊していた。口元からあくびが漏れ出る。こういう時は、読書をして、気を紛らわせることが習慣である。
「冬紀、見て見て」
俺は、手に持っている文庫本を、隣でスマホをいじる彼女に誇示してみせた。
「あっ!!それ、もしかして夏輝が書いた本!?」
「そう。まだ一般では買えないんだけど、出版社のほうから、先行して貰ったんだ」
早瀬は分かり易く目を丸くした。
題名『地球牢獄』。表紙のイラストの美麗さからは想像に難い、痛烈な社会風刺を暗示する内容の小説が、遂に本という形となって世へ出ようとしている。出版はもう少し先なのだが、作者の特権ということで、完成品が送られてきたのだった。
「今年の冬に販売されるから、気になったら買ってみてね」
「うん。絶対買うわ」
よし、読者が一人確約されたし。
****
しばらくして、夜も更けゆく時間帯になってきた。俺と早瀬は就寝前のお楽しみを体験するために、山小屋の前のデッキへ。
「わお、すごいね」
「晴れた日には、これが楽しみなんだよね」
はるか天空を見上げると、そこには満天の星空が広がっていた。水族館を訪れた日に早瀬と見上げた空よりもさらに澄んだ空が、小さい俺たちを見下ろしている。
デッキのベンチで早瀬と隣り合って、星を見上げる。すると、聞き覚えのある声が俺を呼んだ。
「新台のお兄さん、来たか」
「ああ、こんばんわ」
振り返ると、黄金の色のビールが並々と注がれたジョッキを片手に持った、あの新潟からお越しのおじいさんの姿があった。
「この方は、お風呂で知り合った人で、お名前は……」
「
正田と名乗ったおじいさんは、隣のベンチに腰掛けた。そうして、ジョッキの中のビールを喉奥に流し込むように飲んだ。
「はじめまして~私は、夏輝の友達の、早瀬冬紀っていいます」
早瀬は、隣の俺を指さしながら、正田おじいさんへ挨拶をした。星に見惚れていた正田さんが、首をくるっと回して振り向いた。
「ああ、どうも、早瀬さん。いやあ、若い人が尾瀬に来てくれるのは、嬉しいことだねぇ~」
「私たちみたいな若い人って、珍しいですか?」
「いや、珍しいことはないけどねぇ。でもさ、若い人に尾瀬の素晴らしさを知ってもらえることは、いいなぁと思ってな」
正田おじいさんは、満点の星空を見上げ、次いで、周囲の闇を抱く森と山々を
「尾瀬の自然ってさ、人が守ってかなきゃいけないんよ。オレたち老いぼれは、先が長くねぇから、尾瀬を長く守れないんよ。だから、尾瀬が好きな若い人が増えるとさ、オレたちがぽっくり逝っちまった後も尾瀬の自然が守ってもらえる。それは、嬉しいことだろう?」
正田おじいさんは、渋い声で尾瀬への愛と展望を大いに語る。グラスを傾けて氷がガラガラと鳴らし、髪の薄い頭を掻きながら。
俺は、星空を三人で共有して見上げながら、思考を巡らせた。
尾瀬の自然は、美しい。その緑は俺の目を惹いて、白鷺が尾瀬沼の湖面で羽を休めるその白の際立った美の一点は、俺を死へと誘うぐらいに、魅力的だった。その美を未来永劫と守るためには、人の力が必要で、若い世代からその次の世代へと、この自然の美を伝えていってほしいという考えは、賛同を集めるに値するだろう。
「この自然が、ずっと未来まで守って伝えられるといいですね」
「そうだよなぁ。それが望むところだよなぁ」
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