41話 はるかな尾瀬

 底がしっかりとした滑り止め付の靴を履いて、リュックを背負い、熊よけの鈴を揺らす。尾瀬沼の近くの山小屋までは、約3~4時間かかるであろうと想定して予定を組んである。しかし、今回は祖父母ではなく、早瀬が同行しているので、早くに到着しそうな予感がした。


「冬紀、準備できた?」


「おっけー!」


 俺たちは予定よりも1時間早く、山の中に設置された木道を踏んだ。目的地である尾瀬沼までの距離がそこまで遠くないルートでなおかつ、時間帯が早いこともあって、他のお客さんが見えない。


 この広大な自然の緑を、早瀬と独占だ。


「冬紀、疲れてない?」

「全然大丈夫だよ」

「やっぱり、バイトとか部活とかで運動してるから、体力に余裕があるって感じ?」

「多分ね。でも、山道は慣れないから、ちょっと大変かもね」


 ずっと登り調子が続いているが、早瀬は息の一つも切らさずに、余裕綽々なご様子。彼女が軽快に一歩を踏み込む度に、リュックにぶら下げたクマよけの鈴がカランカランと歌う。


 俺は小さい頃から祖父母と歩いたから、山道は歩き慣れている。しかし、早瀬は俺の後ろにぴったりと付いて来ている。


「ふう……ちょっとタンマ。お茶飲みたいわ」


 俺は木道の端に寄って、リュックのサイドに入れていおいたお茶のペットボトルの蓋を開いて、それを一口。


「あれ、もう疲れたの?」

「バイトと大学以外、家に引き篭もって椅子に座ってばっかりだからな」


 虫刺されや葉が擦れることを防止するため、山を歩く時は長袖がおすすめ。尾瀬の冷涼な空気もあって、歩き始めは心地よい感じなのだが、しばらく歩いていると、背中にじんわりと汗が湧いて出て来る。


 しかしながら、下界と違って空気がカラッとしていて、過度に湿気を含んでいないから、汗に不快感が無かった。


「……予定よりも、だいぶ早いな」

「早い分にはいいじゃん。お花とか、さっきからちょこちょこあるキノコとか見ながら、ゆっくり行こう」

「そうしようか。山小屋も、受付が始まる時間が早くなる訳じゃないからね」


 休憩多めのスローペースで、再び歩き始めた。8月の下旬ということで、花が多く咲き誇るシーズンを逃しているとはいえ、イワショウブの白い花が点々と咲いている。ちょうど、夏の花から秋の花へと移行する時期だろうか。


 しばらく木道を歩いていくと、開けた草原っぽいところに出た。ここが、国の特別天然記念物として指定されている湿原、尾瀬ヶ原おぜがはらである。


「うわー広ーい!」


 早瀬は大きく胸を膨らませて、声を張り上げた。なんせ、こんなに広い場所を、二人だけで堪能できてしまう状況であった。心が開放的になるのも、良く分かる。


 そして、日本百名山に指定されている至仏山しぶつさんと、燧ケひうちがたけを同時に臨むことができる、まさに絶景である。


「これも写真撮って、信濃と西園寺さんに送ろ」


 早瀬はスマホのカメラを構えて、尾瀬ヶ原の広大な緑や山々を、順に写真へ収めていった。


 池塘ちとうという、小さな池のようなものが湿原には点々としていて、そこをじっと覗き込んで見ると、イモリやカエル等の住人を発見することができる。それが、ここ尾瀬ケ原には1000個以上あるらしい。


「ねぇ夏輝、見てよ!カエル見つけたよ!」

「あ、ほんとだ。泳いでるな」


 早瀬は池塘ちとうの中を泳ぐカエルを発見した。悩み事なんてなさそうに、悠々自適といった感じで泳いでいるではないか。彼女は、そいつをスマホで一枚撮影した。


 周りを見渡してみると、はるか遠くの木道に二組、観光客が見えるだけ。もう少し早い時期にここを訪れると、さらに花々が咲き誇っていて、人も多くなるのだが、今の時期はこれで、空いていて良い感じだ。


「おはようございまーす」

「「おはようございます」」


 尾瀬を歩く時の雰囲気は、非常に良い。木道ですれ違った顔も知らない者同士が、心地よい挨拶を交わすのである。子供の頃から、こういう山の文化に親しんできたから、それに疑問を持ったことはないが、素晴らしい文化だと思う。


 早瀬は当初、多少の困惑があったが、今ではハキハキとした挨拶を飛ばしている。


「ちょっと休憩。疲れた」


 木道のところどころに、木製のベンチが設置されていて、休憩が可能である。リュックを降ろして、肩の重みから解放される快感は、クセになる。


「お腹すいたかも。おにぎり取って」

「何の具食べるの?」

「うーん……鮭で」


 俺のリュックの中に保冷剤と共に入っていたおにぎりを取り出して、早瀬に手渡した。早朝にコンビニで購入したものである。


 で、早瀬から預かったおにぎりの袋のゴミを受け取って、リュックのゴミ袋にぶち込んだ。ゴミ箱なんてありません。山で出たゴミは、原則お持ち帰りをお願いします。


「んんー!?」

「どうした?」


 早瀬はおにぎりを頬張りながら、小さい悲鳴を上げて俺に身を寄せた。肩と肩が触れるぐらいには、近しい距離に寄ってきた。


 どうやら、クマバチが訪ねてきたようだ。重低音のブーンという羽音を響かせながら、早瀬の頭の回りを旋回したり、空中でホバリングしたりしている。


「大丈夫だよ。こいつ刺さないから」


 俺が人差し指を立ててみると、そこにクマバチは止まった。羽を休めて、こちらを威嚇したり、針で刺して攻撃したりするような素振りを見せなかった。

 

 早瀬は、慣れた手つきの俺に不思議そうな顔を向けた。


「わあ、すごいね。ちょっとかわいいかも」


 早瀬はまたスマホでパシャリと、俺の指に止まるクマバチを撮影した。


「クマバチは、尾瀬の昆虫のアイドルだよ」

「んわあ!?こっち来ないでって!音が恐いよ!」


 俺に興味を無くしたクマバチは、また早瀬の頭の上を旋回した。しばらくじっとしていてもらうと、クマバチは花の蜜を求めてか、メスを求めてか、どこかに飛び去っていった。

 


 早瀬のそんな様子を見ていると、この旅行を計画してよかったなと思う。



 貴重な体験と自然を楽しむことができる尾瀬。是非、あなたも旅行で訪れてみてはいかがでしょうか。




_____メール______



12:46 【早瀬だよっ】 夏輝がトンボ捕まえてる!↓(写真)



12:47 【早瀬だよっ】 網とか無しで捕まえられるのすごくない?


12:49 【西園寺】 すご!もしかして夏輝くんって山育ちだったりする……?



12:50 【信濃@美月推し】 なんか楽しそうっすね~オレも行きたかったなー


12:51 【夏輝】 @西園寺 そんなことないよ。毎年おじいちゃんに連れて行ってもらったから、慣れてるだけ


12:53 【西園寺】 お昼は何食べるの?ちなみに、私は大学の食堂で友達とカレーライス♪



12:53 【早瀬だよっ】@西園寺 コンビニのおにぎり食べる~

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