第36話 最後の授業
状況は、目まぐるしい変遷を辿る。俺は、学校に復帰して、見事に大学受験を乗り越えて、無事に高校の卒業式を迎えた。
西園寺さんは一足先に美術系の専門学校への合格を勝ち取り、信濃は印刷会社への内定を獲得した。俺の大学の合格の知らせの後に、早瀬の大学の合格の知らせがあった。4人ですぐに夕食会を開いて、互いの進路の決定を、まるで自分事のように喜び合ったものだ。
そして、高校の卒業の時は来た。
「早瀬さん、羽田くん、ちょっと……」
俺と早瀬は、担任の森下先生によって別室に呼び出された。卒業証書の入った筒を持ったままだ。
「何ですか、先生」
「ふふふ……」
早瀬が聞いても、先生は微笑むばかりで、黒板の前の教卓に立ち尽くすのみであった。
黒板にとある文字を書いた先生は、開口した。
「わたしはねぇ、人生最後の担任として君たち二人をクラスの生徒として持てて、良かったと思います」
「先生……ご退職なされるのですか?」
「そうなんですよ、羽田くん」
森下先生は、終始ニコニコとしていた。
「私たちが、最後のクラスだったっていうことですよね……」
「そういうことなんですよ。もう、そんな歳です。若く見えるかな?へへへ」
そして、先生は、黒板の文字が俺と早瀬に見えるように移動した。授業の時と同じ声色、立ち位置で、白のチョークの文字をはっきりと声にした。
「『言葉』の大切さを、君たち二人に改めて学ばせてもらいました。こんな歳でも、日々勉強ですね~」
先生の人差し指が、黒板の「言葉」の文字をコンっと叩いた。
「夏輝くん……良い方向に変われましたね。一年生の時は、先生正直、心配でしたよ~」
「すみません……先生には、大変ご迷惑をお掛けしたとともに、とてもお世話になりました。入院のお見舞いにまで来ていただいて……」
俺は、深々と頭を下げた。再び目線を上げると、先生の深いシワに沈む微笑みの視線と俺の視線が交わった。
「いいんですよ。生徒と関わり合い、生徒と助け合い、生徒と一緒により良い道を考えることが、教師の役割ですから」
先生は、教卓に腕を突いて、黒板の文字を書いた真意を説明し始める。
「古文とか現代文の授業でも言ったような気がしますが……やっぱり『言葉』は大切ですね。一つ一つが歴史の中で磨かれて、秋の紅葉のようにヒラヒラと舞う美しさが、時に人を救う最もな力になります」
古文の授業の中で先生が言っていたことを思い出した。今の言葉は、全てが歴史の中で磨かれて、姿を変えながら生き残ったものだと。文字を、言葉によって、時間さえも超えて世界の美しさを共有しているのだと、先生は言っていた。
「そして『言葉』は、人と人との架け橋となります。内なる自分の思いを、声という形にして外向きに表現することによって、私たちは繋がっているんですね~」
先生の言葉の真意に気が付いて、俺は無言で小さく頷いた。早瀬も、俺の隣で静かに先生の話を傾聴している。
「羽田くん、早瀬さん。授業で習ったように、『言葉』を大切にして、誰かを、友達を、自分自身を、幸せにしてあげてくださいね」
そうして、短く締めくくられた最後の授業は幕を閉じた。俺と早瀬は、先生からメールアドレスを教えてもらい、本当の別れの時を迎えた。先生は「先生と生徒としての時間はこれで終わりですが、この世に生ける人間同士としての時間を」と言い残した。
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