第35話 棺からの目覚め
俺は、ベッドの上で目覚めた。日付を見ると、あの豪雨の日から三日が経過していた。
「関東地方を中心に甚大な被害をもたらした台風27号。各地で復興に向けた動きが始まっています」
病室に備え付けられていたテレビの音声を聞いて、ようやく記憶を手繰りはじめた。たしか、早瀬に手を引かれて、山道で意識を失って……その後に何が起こったかは覚えていない。
手首の辺りには、点滴の管が刺さっている。そして、俺が横になる病室内で、弟壮馬と、姉和葉の姿を見つけた。
「っ——兄ちゃん起きた!!」
弟の悲鳴に近しい声で、姉と数名の看護師たちが、一斉に俺に振り返って、横になる俺に視線を向けた。
「夏輝っ!?」
弟が我先にと、俺の胸に飛び込んできた。看護師の女性が、点滴が抜けてはいけないから、弟をベッドから下ろした。相変わらず俺の弟は、中学生にしては身長が小さく、軽いと思った。
次いで、弟と変わるようにして、姉の和葉が両の腕で抱きしめてきた。……こっちは力が強くて、息苦しさを覚えた。
「マジで、良かった……本当に、よかった……」
「俺、臭くない?もう三日も風呂入ってないってことだよな」
「臭いよ。でも、今は抱きしめさせて」
「うわ、傷つくよ、そういう言葉は……」
「ごめん、ごめん。じょーだん」
俺は、そっと胸を撫でおろした。また、この陽光の白い明るさを見ることができたことと、家族と再会できることを、素直に喜んでいて、頬が自然と緩んだ。
その時、病室の入口の扉がガラガラと音を立てて開いた。廊下の側から、現れたのは、早瀬だった。黒のロングスカートが印象的だった。
「え……」
早瀬は、俺を見るや否や、言葉を詰まらせた。俺は、硬直する彼女に向かって手を振った。
「ただいま」
この時の早瀬の姿が、今もずっと忘れられない。彼女は、俺が言葉を発した後、目尻からボロボロと涙を溢れさせたのだった。その一滴一滴が窓から差し込む陽光に照らされて、宝石よりも煌々と輝いていた。
「——おかえり、夏輝くん……!」
早瀬が駆け寄ってきて、姉と入れ替わるように俺の手を握った。その温かさは、冷めきった心で淀んだ記憶を忘れさせるには十分だった。
「早瀬、俺のこと助けに来てくれて、ありがとう」
目覚めの直後の鈍い頭でも、この言葉を彼女に伝えたいと思った。俺は、目いっぱいの気持ちを込めて、顔を真っすぐに彼女を見た。
「っ——うん!夏輝くんの口から、その言葉か聞けて、めっちゃ嬉しい!」
煌びやかな秋の日の太陽のような笑みを浮かべながら、早瀬は俺の手に頬を寄せて、涙を伝わした。その姿を傍から見て覚えがあるなと思ったら、道路に跪いて、泣きじゃくった過去の俺の姿と似ているのだと気が付いた。
「また、みんなで一緒にごはん食べに行けるんだね……また一緒に電車に乗って学校通えるんだね……また一緒に、笑ってお話ができるんだね……!」
「ああ。もう今度こそ、大丈夫。悪い考えは、小説の紙と一緒に流れていった」
「本当に…………良かった!」
早瀬は、涙を頬に伝わせる顔を隠そうとせず、唐突に顔を上げた。
「夏輝、もうその彼女さんに、頭があがらないね」
と、ちょっと気まずい感じの俺を傍で見ていた姉の和葉が口を開いた。
「……てか、彼女じゃないよ!?」
俺は、姉の攻めた言及を全力でもって否定させてもらった。こんなに容姿端麗で、誰とでも仲良くなれて、勉強までできる、神から万物を与えられたような人と俺が、釣り合うわけがないのだから。
「アハハ。お姉さんにも認めてもらえたみたいだし、今日からはそういう関係ってことで、改めてよろしく」
「ああ、友達ね、友達……として、よろしく」
早瀬の言葉に、やっぱり助けられた。
「そうだね。友達。私と夏輝は、大切な友達」
俺は、早瀬からその言葉を引き出すのに、膨大な時間と多大なリスクと、膨大な言の葉とを要したらしい。互いに信頼し合えって、腹を割って話せる「友達」を得るのに、なんて回りくどい道を辿ったのだろう。
俺と早瀬は、改めて握手を交わした。言葉を交わさずとも、彼女との約束の誓いを立てたような気がする。
これからは、迷った時は早瀬に頼ろうと思うし、早瀬に頼られよう。二人で、美しさに満ちた世界を生き抜いていくのだと、自らの心と、早瀬と、こんな俺にチャンスを与えてくれた神と仏に誓った。
****
後から担当の医師に説明されたのだが、俺が意識を失っていた原因は、睡眠薬の過剰摂取の影響だけではなかったらしい。
どうやら、土壌中の悪い細菌に侵されていたようで、意識が戻らず、高熱を抱えていたらしい。あれだけの泥水を飲み込んで、肺に流し込んだのだから、それも納得できた。生き残ったことも、意識を取り戻したことも、また奇跡だった。
なるほど。水も食べ物も口にできない状態だったから、点滴を打たれていたのか。
そして、午後になると続々と俺のお見舞いにやってきた人が見られた。
「夏輝、もうお父さんを置いてどこかに行かないでくれ!!」
「おかえり、夏輝!」
母と父は、ベッドの上の俺を押しつぶさんとばかりに強く抱きしめてきた。それもそうか。二人は、俺の大切な両親だから。俺のことをこの世で最も心配して、無事と目覚めの知らせを聞いて一番に安心してくれた。
もう、この二人を悲しませたり心配させたりしてはダメだと、晴れやかな気持ちの上に、さらに決意を重ねた。
****
「おや、早瀬さんもご一緒ですか!?」
「先生!?」
夕日の茜に満ちた病室に、担任の森下先生がやってきた。両親は、扉を丁寧に閉めた先生に「ご心配をお掛けしました」と言って、何度も頭を下げていた。
なんと、先生もこの事情を知っていたとは。俺は、一体どれだけの人を心配させてしまったのだろうか。謝意と、感謝が絶えない。俺は孤独だと感じていたが、それは主観の勝手だったらしい。こんなに多くの人が、自分の身の心配をしてるのだ。
俺は、多忙の中わざわざ訪ねてくれた先生に謝罪と、感謝を繰り返し伝えた。
先生は、終始ニコニコとして、「お互い、元気に卒業式を迎えましょうね」と手短に言って、病室を出た。その長身の背中は、とても大きく感じられた。
****
(羽田氏!!元気になりました!?)
(冬紀ちゃんから聞きました。無事で良かった!)
信濃と西園寺さんからは、メールが届いた。俺は、二人にも感謝を込めて、返信を打ちこんだ。
「心配かけて、ごめんね。俺は、体のほうも心も大丈夫……」
「ねえ、二人で撮った写真送ろうよ」
早瀬は、俺のベッドの傍らに腰を下ろして、髑髏のマークの目立つケースに入ったスマホを掲げた。身を寄せ合って、これまでにない笑顔を作ってみせた。
二人からの返信は、驚くほど早かった。
(やっぱり、付き合ってるんすか!?恋人同士みたいっす!!)
(羽田くんが、今までにないぐらいに笑ってる!)
俺は、返信の内容に対しての気恥ずかしさから、早瀬に迫った。
「やっぱ、この写真削除しない?」
「だめ。これも大切な思い出になるでしょ?」
「まあ、たしかに……」
しかし、俺の提案はあっさりと両断されてしまった。
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