第34話 言の葉のコドク

 俺は、泥水と胃酸が混ざったものを吐き出して、空気を思いっきり吸い込んだ。どうやら、流れの緩やかなところに浮かんでいて、自力で岩の上に這い上がってきたらしい。



 耳鳴りと、雨が打ち付ける音がうるさい。そうして震える鼓膜が、聞き馴染みある声を捉えた。


「…………上に…………よ、早く!」


 ぼんやりと籠った音になっていて、早瀬の声が伝えたい旨の理解が困難であった。泥で汚れた袖で目元を拭うと、早瀬に手を引かれて、川から離れた山道のところに連れられていたことを知った。脇を抱えられて、半ば引きずられるような恰好ではあったが、早瀬は俺を安全な場所に置いてくれたのだった。



 固いアスファルト舗装の地面に膝を突き、そこへ頭を擦りつけるようにして土下座の恰好をした。



 俺は、儀式を完遂できず、命の灯を保っていたのだった。それは、神、仏からの罰であったのかもしれない。「生きて償え」と、どことなく叱責されているような気がしたのだ。




「うっ、ごぇ……ごめん、本当にごめん…………」


 俺は、早瀬の手の甲にしがみついて、泣きじゃくっていた。息も切れ切れで、時々泥の塊を吐き出しながら、頬に溢れんばかりの涙を伝わせた。


「ちょっと、そんなに泣かないで。私も夏輝くんも、無事だったんだから、よかったじゃん?」


「うぅ、ごめん…………本当に、マジでぇごめんなさいぃぃ!!」


 咽び泣いて、吐き出したい謝意も詰まって音にならない。


 内側に熱した鉄球を抱えているように、体が熱かった。皮膚の内側を流れる血がマグマの如く、腕が、額が、頭が燃えるように熱く感じた。雨に背中を打たれながら、恐らく生涯で最もな恥に苛まれている。


 羽田夏輝という人間は、自らで決めた運命によって死にきれず、早瀬を危険にさらした。ここへ至ってようやく、罪の意識を自覚するのだった。


「本当に、本当に、ごめん。申し訳ない…………一人が良いって思っても、『独り』は、やっぱり辛くて寂しくって………」

「私の方からも謝らせて。ごめんね。夏輝くんが辛い思いしてたの、気が付かなくって」

「お、俺が……全部悪かった。俺が、俺の気が狂って、魔が差して……」

「……そういう日もあるよね」


 頭を上げられない。早瀬に、如何なる顔を見せられない。俺は、慈愛に満ちた手の平にしがみ付いて、ひたすら咽び泣くことしかできなかった。


「私もそういう日あるよ。たとえば……あ、バレー部の県大会で負けちゃって、全国大会に出られなかった時とか。気持ちは落ち込むし、同じチームの人には申し訳ないなって思うし、大好きなごはんが喉を通らなかったよ」


 腕を俺に預けてくれたまま、フォローするような言の葉を投げかける早瀬。そんな彼女に訊いてみた。疑問は、どうやってここに居ると分かって、どうやってここまで来たのか。


「……どうやって、ここまで?何で、俺の居る場所が分かって…………」


 早瀬は、泥で汚れた斜め掛けの鞄から、水気を含んでくしゃくしゃになった紙切れを無言の内に取り出して、俺が顔を下げる地面に置いた。


「っ——家まで来たってこと……?」

「何、これ?誰かに探してほしかったんじゃなかったの?誰かに、見つけてほしかったんじゃないの?違う?」


 白く細い指が押さえる紙切れは、これに至るまでの計画の走り書きだった。電車の乗り換え駅や持ち物、嵐が来襲する儀式の為の「吉日」を記していた紙だ。


 それが視界に入った刹那で、目の裏側に溜まっていた涙がさらに溢れ出して、結んだ口の端から嗚咽が漏れだした。視界が潤んで、複雑に歪んだ世界を映し出した。


「それは……ああっ……」


 紙をゴミ箱にでも入れてしまえば、あるいは自分で持参していれば、早瀬がそれを見つけて、危険を冒してまで助けに来ることはなかったのだ。そして、俺が救われることも無かった。


 それが出来なかったことは、俺の無意識の泉のイデアに潜んでいた、未練や微かな期待による仕業であろう。神に、仏に、何者かに、死を渇望していながら、救済が為されることに中途半端な期待を寄せていたのかもしれない。


「……ごめん。早瀬まで危ない目に遭わせて……」

「いいよ。私は、夏輝くんを助けたスーパーヒーローになれたから」

「早瀬、ケガしてる……」

「夏輝くんもだよ。足、血だらけで、痛くないの?」

「え……」


 俺は、顔を下に下げたまま自らの足を見た。靴も靴下も身に着けていない裸足は、真っ赤な鮮血を雨で洗っている。


「ああ……これ、全部俺の血かよ……」


 濁流の中、ゴツゴツとした凹凸を持った岩を登ろうとしたから、多数の裂傷が刻まれていていた。その鋭利な激痛に、どうやら気が付かなかったらしい。痛みの気にするよりも、罪の意識の重荷や早瀬への謝意に苛まれていたのだ。


 早瀬は、蓋がきっちりと閉じられた、消毒液の入ったスプレーを取り出して、俺の足の傷にそれを噴射した。


「痛っ——っがああ……!!」

 

 消毒液の酸性が傷に染み渡る激痛に喉を絞られて、声が滲み出た。


「ばい菌が入ったら、大変でしょ?」


 それは、早瀬の善意からの痛みであった。


「みんなと、またごはん行くって、約束してたよね?だから、また行こうよ。気持ちが落ち着いたら」

「……ごめん。ぐぅ……っ」

「これで、お相子だね。水族館に行った日に夏輝くんが私のことを助けてくれて、今日は私が夏輝くんのことを助けた」



 とんでもない。天秤にかけたら、その差は歴然のはずだ。


 環境や状況の困難から、俺は早瀬のことを確かに救ったかもしれない。それも、お金の力を借りて。しかし、早瀬は、自らの命も顧みずに、濁流に飲まれそうになった俺の手を引いてくれた。明々白々、俺は早瀬に対しての膨大な借りを作っているのだ。


「まだ、早瀬に借りを返しきれてないってのに、また大きな借りを作った……」


 自らの醜い過去を振り返ってみれば、自分は早瀬に助けられてばかりだと、改めて認識した。話す相手もろくにいなかった中学時代、唯一話しかけてくれたのは、早瀬だった。彼女は、ただ多くの人と話をしたかっただけのようだが、俺にとっては大きな影響だった。なんせ、そのお陰で、口下手は多少なりとも改善したのだから。


「俺にめっちゃ話しかけてくれて、俺に優しく接してくれて、ごはんまで誘ってもらって、おごってもらって、数学の分からないところ教えてもらって、命まで拾ってもらって……」

「夏輝くん……いや、夏輝」

「え、あ……」


 唐突に呼び捨てで名前を呼ばれて、また言葉を喉元に詰まらせた。早瀬は、俺の肩を軽く叩いて、雨音に負ず劣らずの声量を絞り出した。


「私たち、友達じゃん?」

「あ、ああ……」


 また、顔に熱が籠った。彼女は俺のことを、まだ寛大に受け入れてくれるらしかった。これほど迷惑を振り撒くような人間、俺であれば願い下げなのだが。


「だから、貸し借りとか、そういうことは気にしなくていいと思う。あと、もっと私にも頼ってくれていいんだよ?」

「ぅ……」

「辛いときは、支え合えれば、辛さも和らぐでしょ?人間って、自分の為に生きて、自分のために死ねるほど、強い生き物じゃないから」

「……」


 一切の反論が許されないほどに、早瀬の哲学は、慈愛に満ち溢れていて、優しさの温かさが籠っていた。その言の葉の意味を、一つ一つ無言のうちに反芻する度、心の裂傷が白い糸で縫い直されるような感覚に包まれた。


 自分で縫って、自分で結んで、自分で切った糸は、ほつれていて、綺麗とは形容し難いものだった。その糸の乱れが、早瀬の言の葉の一つ一つによって補修されていく。


「早瀬、おこがましいかもしれないけど……俺を許してくれ。ごめん、お願い……」


「ごめんって百回言われるより、『ありがとう』って一回言ってもらえるほうが嬉しいよ……!」


 俺は、早瀬にそうやって進言されて、初めて顔を上げることができた。



——早瀬の顔が、ガラガラと音を立てて崩れた。彼女の目元に掛かってい黒い霧が晴れ上がり、その下からは、早瀬の微笑む顔が現れた。


「でしょ?」


「……うん」


 黒い雲間から陽光が覗いて、早瀬の顔を照らし出した。嵐さえも、早瀬の瞳の一閃を退けることはできなかったのだ。



 そうか、眼前に居るのは、地上のあらゆる美しさを詰め込んだ偶像でも、美の神でもない。「早瀬冬紀」という、一人の人間が居るのだ。俺はそれに、やっと気が付くことができたのだった。



「っ——早瀬、ありがとう」



 やっと、その言の葉を紡ぐに至れた。「ありがとう」のたったの五文字を絞りだすために、膨大な時間と、二つの命を懸けることを要した。


「わぁ、何かドラマみたいで、恥ずい」

「……小説みたい」

「事実は小説よりも奇なりって言葉、あったよね。まさにそれな気がする。ここに辿り着けたのも、勘頼りなところもあったから」



 俺と早瀬は、まっすぐに視線を交えた。雨が小康状態tなって、しとしとと天から降りてくるようになった。そのため、互いの顔がより良く鮮明に見えるようになっていた。


 早瀬の鼻筋には、赤い鮮血が滲んでいた。ここへ向かう最中に、転んで擦ったのだろうか。


「早瀬」

「ん?」



 俺は、早瀬の黒い瞳を真っすぐに見た。



「俺、生涯をかけて早瀬に、この借りを返したい」

「だから~……そういうのはいいって」

「ごめ、ん……」


 一息の空気を思いっきり肺に取り込んで、言葉が喉に詰まらないように、はっきりと彼女に声を届けた。



「だから、俺の生きる意味になってくれない?」


 これが彼女に認められれば、彼女が活きる限り、俺の命が潰えぬ限り、恩を、借りを返すことが叶う。


「オッケー。じゃあ、あなたは私の生きる希望になって。それで対等でしょ?」

「あ、ああ。分かった……」

「また、面白い小説書いて、読ませてよ。というか、これ題材にして書けるんじゃない?」

「たぶん」


 俺は、じっと彼女の瞳を見つめていたが、やはり、人と視線を交えることは苦手だった。少しずつ、目線が下に落ち込んでいて、いつの間にか、早瀬の膝を見ている。濁流によって流されてきた緑の草が、泥を伴ってべっとりと付着していた。


 突然、意識に霧がかかったように、頭がボーッとしてきた。次いで体に力が入らなくなって、仰向けに倒れ込む。


「ど、どうしたの!?ここまできて死んじゃうの!?」

「い、いや、そういうわけじゃなくって……さっき飲んだ睡眠薬が効いてきたかも……」

「ええっ!?」


 そういえば、楽に死ねるようにと、睡眠薬を過剰に摂取したばかりだった。


「あ、歩ける!?」

「……微妙」


 早瀬の肩を借りて、なんとか立ち上がった。しかし、足元はおぼつかず、膝や腰の芯が抜け落ちてしまったかのように脱力した。道路の砂や泥の不味い味を、思う存分に舌上で転がした。



 そうして、俺の意識は真っ白な霧に包まれていった。



「夏輝!!」



 またまたの最後に、早瀬が俺を呼ぶ声がどことなく反響した。




****



「おーい、大丈夫かぁ!?」

「はい……」


 白一色の意識に、声が響いた。それは早瀬と、聞いたことのない男性の声だった。


「そ……その、少年は生きているのかえ!?」

「生きてます。無事でした。薬を飲んでいたみたいで、眠ってるだけです」

「手を貸そうか?あと、救急車呼ぼう!」

「はい、お願いします」

「オレのトラックのところまで戻るべ!頭の方、持ってやりな」

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