第33話 神の御手
降りしきる雨。吹き付ける風。足元には、茶色く濁った濁流が流れていて、大口を開いて俺のことを待っている。
俺は、自作小説の『地獄旅行』の最後の一ページの印刷紙を抱えて、ただ
「ごめん…………」
得たものが失われるかもしれない恐怖や不安を抱えて生きるには、俺は弱すぎた。あのカップ麺の容器のように、積み上げたものが崩れる光景を、もう二度と目に映さないで済むように、必ず儀式を完遂する。
手元に錠剤を多量に開けて、それを喉の奥に放り込んだ。
「俺は、永遠に自由だ」
川の水量は増え続けていて、いつかはそれに飲まれる運命。これは、俺がいつの日か決めていた最期の在り方だった。
そして、腕に抱えているファイルの中には、「美しさ」の記録が入っている。家族写真が一枚。それから、早瀬と信濃と西園寺さんで撮ったものが数枚。これを抱えていることで、水と俺の身体とが融合する時に、写真の記憶や美しさも共に混ざり合うことができるのである。
失われるかもしれなかった光が、失われないように、永遠に自らの内側に閉じ込めてしまおうと思いついたのは、いつだっただろうか。もう、それは覚えていない。
(これで、いいんだな?いや、良いと決めたはずだ)
閉じた
弟と一緒にゲームをした、ある日の記憶が。姉にからかわれる、何気ない日常が。学校の静寂のトイレに籠って昼食の弁当を喰らった、コドクの景色が。無言のうちにキーボードをカタカタ叩く、黒い画面に映った自分の醜い顔が。朝日が昇って窓から覗く、学校の景色が。そこに佇んで微笑む西園寺さんと、信濃の姿が。
そして、早瀬の微笑みが、最後に見えた気がした。その白い肌と、眩しいぐらいの笑みとを思うと、心臓の拍動の奏では旋律を乱れさせた。
「うわっ」
俺は、小さく喉を鳴らした。脚と尻が、濁流によって浮かされたのだ。そして一言、俺の最後を見ているであろう神に向けて、告げた。
「最もな後悔は、この世に生を受けたことだ——」
それは、『地獄旅行』の最後の一文の言葉である。この言葉によって、この世界が呪われるのである。俺が死んでも、この言葉は永遠と生き続けて、言霊の如く叫び続けるのだ。
泥の草っぽい苦みが、舌上になだれ込んだ。肺を侵されて、濁流が抱えた大木に脚を挟まれて、骨がきしんだ。苦しい、とにかく苦しかった。なぜ、人の必然たる死にこんな苦しみが同伴しているのだろうか、全く理解に及ばない。
景色は、瞼を閉ざしているから真っ暗の闇。川の流れる轟音だけが、未だ明瞭であった。
そういえば、人は死に際、最後まで聴覚を残していると聞いたことがあったな。
——だから、早瀬の叫びが聞こえたのかもしれない。
「夏輝っ!!掴まって!!」
手首を強く引かれた。俺の体は、濁流とその手によって引かれて、千切れそうな痛みを訴えた。肺には、既に多量の水が押し寄せていて、意識に霧がかかったようになっていた。
「はっ…………」
早瀬の名を叫ぼうとして口元を緩めると、泥水が攻め入ってくる。
「早く……上がってきて……!!」
俺の足裏が、石の感触を捉えた。靴は既に流されていて、足裏には石や木の枝の鋭利な先端が突き刺さった。
滑る、ツルツルとした表面が滑って足を取られる。早瀬は、石の隙間に足先を引っかけて堪えながら、俺の腕を強く引いている。俺は、微力を振り絞って石に足を掛けた。
「うっ」
その時、流されてきた大木が、俺の頭を殴りつけた。足が滑って、早瀬の手から離れていった。俺の意識は体から抜け落ちてしまって、早い流れの水音も遂に薄れていく。どうやら、水の中で、もがいているらしい。
濁流が成す轟音を割って、ある音が聞こえてきた。それは、「声」だった。声が、言の葉を紡いで、叫びを導いた。
「夏輝っ!!!」
最後に聞いた音は、早瀬の芯のある、鈴の音のような美しい声の叫び。最後に見た景色は、腕に抱えていた黄緑色のファイルが茶色の濁流に連れ去られる景色。その中から写真と紙が散らばって、永遠に見えなくなっていった。
俺は、この時強く神に、仏に、願っていた。どうか、早瀬だけは生きていてくださいと、薄れゆく意識の中で手を合わせて、願っていた。罪を背負うのは早瀬ではなく、紛れもないこの俺、【羽田夏輝】である。
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