第32話 雨、風、雹、夏の暑さ
窓の外の自然の緑を映す電車が、とある駅から動かなくなってしまった。風が強くなっていて、空が暗くなり始めている。
「もう、なんで……」
電車は、強風の影響によって、この駅で停車するとの旨が、車内アナウンスにて伝えられている。運休を告げられ、乗客の吐いたため息の音が、かすかに聞こえてくる。
あと二駅で、目的の駅に着いたのに。
私は、電話を発信しながら、電車からはじき出されたかのように降りて、また風を切るように走り始めた。
「もしもし、
「何~?」
電話は、2コール目で繋がった。相手は、友達の一人である西園寺さんである。
「めっちゃ急で申し訳ないんだけど、高校に行って、羽田くんが居ないか探してくれない?電話もメールも、反応がないの!」
「ええ!?もうこっちは、雨も風も強くなってきたよ」
巨大な嵐の予感は、既に私たちというちっぽけな人間に迫っていた。冷たく、髪を巻き上げる風は、時が経つに伴って強くなってゆく。
「気象庁は、静岡県の全域に、大雨特別警報を発令しています」
「スーパー台風、遂に関東上陸か!?」
切羽詰まった様子で、ラジオと思しきアナウンサーの声が響いている。
「うわああ!?」
「ヤバイ、ヤバイ、傘が飛ぶって!!」
「おい、走ってこっち来い!!」
駅は、強風によって喧噪が起こっている。
駅前の看板が、ガラガラと音を立てて揺れている。自動車用の信号機は、一見して分かるぐらいに揺れていて、行き交う人々の傘が飛ばされるか、あるいは裏表がひっくり返った。
私は、酷く息を切らしながら、メモに残された沢があると思われる方角目掛けて走っている。握りしめるスマホの通話は、まだ西園寺さんと繋がっている。
「無理にとは言わないよ!もし、行けそうならって話!」
「わかった、学校見て来る。羽田くんと連絡が取れないってことね。後で、事情は聞かせてね」
「ありがとう、
私は通話を切断して、スマホを斜め掛けのバッグにしまった。慌てて、指をチャックに挟んでしまったが、そんなことお構いなしに、走り続けた。
「っ——バレー部で付いた体力を舐めるなって……!」
駅前の喧噪を離れて、畑道の真ん中を走る。黄金の色になりつつあった稲が、私の背中の方向に倒れそうになっていた。それほどに風は、私を押し退けようと吹き荒れている。
そうやって走りながら、スマホをまた取り出した。今度は、信濃くんに発信した。
——スマホの画面を、雨の一滴が打った。
まずい、まずい。山の方は、既に強雨に襲われているだろうか。
「もしもし、こちら信濃っす」
電話の音声越しに、聴き慣れた声が聞こえた。私は、一息の間を設けて、なんとか言の葉を紡ぎ出した。
「どうしたんすか、早瀬さん?」
「羽田くんが、いなくなった。メッセージとか、通話、掛け続けて!」
「ええ!?もう暴風域、すぐそこまで来てますよ!?こっちも、窓が唸ってるって感じで……」
「だから、心配なの!こんな天気で外に出ていくなんて、おかしいじゃん!」
「そ、そうっすね…………」
私は、一旦立ち止まって、自販機に身を預けて寄り掛かった。震える手で小銭を二枚入れて、麦茶を購入して、それを浴びるように飲んだ。焼けるような痛みに痙攣する喉を清涼感が流れて助けて、幾分かの痛みはマシになった。
「わかったっす。通話とか、メッセージを送ってみるっす」
「お願い。それで、もし羽田くんから反応があったら、すぐに家に帰るか、安全な建物に移動してって言って!」
「オッケーっす。今は、何があったか説明してる余裕とかは……」
「無いっ!!」
喉奥に流し込んだ麦茶が、喉元にまで昇り詰めて吐き出しそうになった。しかし、それを唾と一緒に勢いよく飲み込んで、また酸素を求めて、何度も胸と肩を上下させた。
「だ、大丈夫っすか?」
「私は大丈夫!だから、夏輝くんとの連絡手段の確保を……」
「は、はいっす!」
通話が切れて、雨のパラパラとした音が強くなってきた。遠方には、眩い閃光のような稲光も見えた。
(羽田夏輝、無事でいて。何事もなく、いつもの神妙な面持ちで居て…………)
ようやく、夏輝くんの残した紙切れに書かれていた沢に辿り着いた。【縞神川】の上流。それが、メモに残された場所の名前だった。周囲は山がちで、林の木々が強風によって煽られ踊るようである。
もう数十分間、駅の方面から走り続けている。全身全霊の力でもって脚と腕を酷使していたので、一度立ち止まってしまうと猛烈な痺れと痛みに襲われた。
ふくらはぎは、電流を流されたかのような痛みを訴えた。
「痛っ…………」
スカートは雨水を多量に抱え込んでいて、とても重くなっている。汗と雨水とが混ざり合って、衣服に纏わりついている。それらを何とかいなしながら、走るしかなかった。
雨と風は、加減を知らないようで強くなってゆく。道路の真ん中を、どこからか飛ばされてきた雨どいが転がる。それの後を追うようにして、ブルーシートやカラーコーンが宙を舞った。
「あっ!!」
風をかき分けて走る私は、道路の窪みに気が付かず、盛大に転んだ。
「最悪!ほんとドジっ、終わってる!!」
膝を擦りむいていて、立ち上がっただけで針を刺されたような痛みが走った。さらに、衣服のあらゆるところが泥で汚れていた。髪にまで泥と土が纏わりついていて、強雨を浴びて適当に洗い流しておいた。
私は、胸の苦しさに襲われて、山道のトンネル内の壁に寄り掛かった。
「はぁ……はぁ…………うぅ」
胃酸が食道を登ってきて、その不快感を盛大に吐き出した。血の混じった黄色い吐しゃ物が、トンネルの側溝に流れ込んだ。意識が朦朧として、酷い耳鳴りに襲われた。
——あれ、私、何してるんだろう。本当にこの先に、夏輝くんは居るの?
トンネルに吹き込む強風によって、私の体は地面に押し倒された。防水加工によって生き残っていたスマホが呼んでいる。私は、それに腕を伸ばした。
「も、もしもし…………」
「冬紀ちゃん、学校に羽田くんは居なかったよ!」
「早瀬さん、やっぱり繋がらないっす。というか、こっちは停電でやばいっす!」
グループ通話に切り替わったらしく、西園寺と信濃の声が聞こえてきた。私は、麦茶で喉を洗いながら、通話を続けた。
「冬ちゃんは、どこに居るの!?」
「今、は……夏輝くんを探しに、縞神川っていう川の上流の方に…………」
「本当にそんなところに、羽田くんはいるの!?危ないよ!!」
「俺んちの近くの川が溢れて、ヤ」
私は、通話の声を途切れさせながら、トンネルの出口に向けて歩き出した。すると、信濃くんの声が完全に途切れた。通信障害だろうか。停電に関して言及していたので、それの影響なのだろうか。
「ごめん、行ってくる。また電話かけるわ」
「冬ちゃん!危ないって!!」
しかし、歩き出してから、ふくらはぎの激痛に襲われて、すぐに膝と手のひらを、アスファルト舗装の地面に突いていた。
「痛い…………マジで…………」
部活動にて、肉離れを経験したことがあるが、それの痛みに酷似していた。歩くこともままならないで、私はひたすらに蹲っていた。
すると、ライトの明かりがトンネルの向こうに見えた。酷い耳鳴りの中で、エンジンの音を聞いた。
「おい、こんなところで、どうしたんだ!?」
白の軽トラックの窓を開けて、顔の知れないおじいさんが叫んだ。私は、痛みに歪めさせられた顔を上げた。
「人を探していて……この先の沢に、人が…………」
「乗ってくかい!?逃げ遅れた人がいるっちゅうことだな!?」
「……はい。お願いします」
私は、おじいさんに肩を支えられながら、助手席に乗り込んだ。目尻からは、涙の一滴が零れ落ちた。
「オレも、山の上の家から避難するところだったんだ」
痛い、とにかく痛い。ふくらはぎが、肺が、喉が、腕が、脚が…………痛い。人間に痛覚が備わっていることを恨むほどに、激痛に苛まれていた。
「大丈夫かい?ケガしてんのかい?」
「私は、大丈夫です…………何とか」
「そうかい、大丈夫には見えんけどな。とにかく、沢に逃げ遅れた人がいるってのは、本当かい?」
「はい……」
「こんなに水で溢れてるとこ、果たして生きてんのかいな…………」
おじいさんは、軽トラックのハンドルを強く握り閉めながら、山道の切り立った崖の下を窓から見下ろした。
私も、痛みを堪えながら、眼下の川を見下ろした。そこには、茶色く濁っていて、流木が混じった多量の水の濁流を抱える川を見た。
「ああ……ああ…………」
私は、次の言の葉を紡げなかった。この気持ちを、何と現せばいいのか、分からなかった。
そして、薄っすらとした意識の中で、夏輝くんの机にあった物を手繰り寄せた。バッグの中にしまってあるメモは、ここまでの道順を事細かに記している。睡眠薬と、不安を和らげる効能を持つ錠剤……
それから、小説の設定集。『地球牢獄』と『地獄旅行』の結末は、主人公の「自死」で閉幕すると記されていた。彼が芸術肌の人間であるならば、この後どうなってしまうか、嫌でも創造できてしまった。
「うおっ!?」
速度を出してトラックを走らせていたおじいさんは、急ブレーキを踏み込んだ。
「これは、無茶だ!全部崩れやがって」
フロントガラス越しには、道路に立ち塞がる巨木と岩の数々が見える。とても、軽トラックが横断できる様子ではなかった。
「お嬢ちゃん、これ以上は無理だから、かわいそうだけどよ…………引き返すぞ」
「っ——ごめんなさい、私は、行ってきます…………!」
ドアを勢いよく開けて、私は地面に転がった。
「やめなさい!!これ以上は無理だ!!おーーいっ、待ちなさい!!」
おじいさんの制止の声を振り切って、私は立ち上がり、巨木に登って跨いで、山道の先へ走った。雷鳴が、地の怒りを体現するように轟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます