第31話 手の届かないところ
「おじゃましまーす……」
私は、夏輝くんの弟の壮馬くんに、家に上げてもらった。小さい体が、ソファーの隅っこに収まって、ゲームをしている。
リビングの感じは、生活感で溢れていた。食事をすると思われる長方形の木のテーブルには、薬や、食べかけの菓子パンの袋や、機器のリモコンと電池の数々が置かれている。白色の壁紙と、天井の円形の照明が印象的だった。
「あの、お水かお茶か、頂いてもいいかな?」
「あ、今いれます」
弟の壮馬くんに尋ねると、ゲームのヘッドホンを付けたまま、台所の方へと走っていった。私は、それを横目に、食卓テーブルの前のソファーにちょこんと腰かけた。
壮馬くんがグラスに麦茶を入れてくれた。私は、それをぐびぐびと飲み干した。
「お兄ちゃんがどこに行ったか、本当に分からない?」
壮馬くんの隣に座りながら、私は尋ねた。グラスをテーブルに置く音が、室内の静寂を割って響いた。
「分からないです。『学校に行く』ってだけ、言ってました」
「そっか……お父さんとお母さんは、お仕事?」
「はい。それとお姉ちゃんは、午前中のバイトでいません」
壮馬くんの過去を語らう幼げの残る声の後には、再び外の鳥の鳴き声が、窓越しでも鮮明に聞こえてきた。
私は、夏輝くんのものと思われる、部屋の隅の机に歩み寄った。
(おお……几帳面な感じがする)
綺麗に整理整頓された机といった印象を受けた。本立てがしっかり有効活用されていて、学校で使用していた教科書や辞書、参考書が秩序立って置かれている。そして、夏輝くんが読み込んでいたと思われる英単語帳と、歴史の教科書と、本の表紙が、ボロボロになっていることに気が付いた。
この知識を基にして、小説を書いていたのか。
「すごい……なんか、頭良さそうな本読んでるなぁ……」
本棚には、文庫本が並んでいる。そのタイトルをざっと見てみると、
『異世界が魔王に乗っ取られてスライムが仲間とともに討伐するまでの話』『ホワイト・ローズ・ライン』『1984年』『人間失格』『金閣寺』『美神』『羅生門』『城の崎にて』『檸檬』……
国語の教科書で読まれるような、文豪の作品もちらほらと見られて、綺麗に並んでいた。
(金閣寺なんて、ついこの前、現代文の時間に習ったやつじゃん……)
そして、机を見つめていた私は、その重大なものを発見した。
机の眼鏡ケースの下に、薬の袋が二袋、置いてあることに気が付いた。表面には錠剤の写真と、服用は朝の起床時に服用することが記されていた。そして効能は、抗うつ、不安の抑制等々。
私は、その薬の袋を示して、弟の壮馬くんに聞いてみた。
「お兄ちゃんは、このお薬を飲んでるの?」
「そうです。気分が落ち込んだりし過ぎるのを、抑えてくれる薬みたいです」
ある薬の効能は、不安や緊張の軽減。副作用として、めまいや眠気。もう一つの錠剤は、睡眠導入剤の一種であった。
私が石像のように硬直してしまった隣に、壮馬くんが寄ってきた。彼の手に持たれたタブレット端末には、ゲーム実況の動画が映し出されている。
「いつからか、うつ病とか、不安障害?みたいなんです。僕には、詳しくは分かりませんけど……」
壮馬くんの説明を聞いて、私は言葉を喉元に詰まらせた。
——私なんかより、夏輝くんの方がよっぽど辛い思いをしているではないか。
そして、記憶の底から這い上がってくるのは、悪夢の光景。彼が、突然に校舎のベランダから飛び降りて、死んでしまった夢を思い出して、吐き気をもよおした。
「うっ——」
まさか……本当に?あんな光景を正夢にしてはならない。
「だ、大丈夫ですか?お茶、もっと飲みます?」
「大丈夫。ありがとうね…………」
壮馬くんがソファーの隅っこに戻っていって、私はそれから机の引き出しを開けた。……勝手に覗いてすみません。
引き出しから小説の設定集らしきファイルを発見した。題名は、『地球牢獄』それからもう一つは、『地獄旅行』。
私は、その設定集を一読して、さらなる焦燥へと駆られた。
「これは……」
次いで、くしゃくしゃになってシワを走らせる紙の一切れを見つけた。そこには、電車の乗り継ぎの道順、とある川の名前が記されていた。さらに、持ち物と書かれた手書きの欄には、睡眠薬と、写真と、小説と記されている。日付は、今日だった。
この川の名前を検索にかけてみると、この家の最寄りの駅から約30分かかる場所であることが分かった。
「なんで、こんな所……ここに向かったってこと?だとしたら…………」
不自然な点が散見された。彼は、壮馬くんに学校へ行くと告げて唐突に失踪。高校は、臨時休校となっているはず。さらに、猛烈な勢力の台風がすぐそこまで迫っているというのに、この時間から外出とは、何を目的としての行動か。
「っ——お邪魔しました!夏輝くんを探してくるね!」
「ああ……はい」
私は、メモが残っている紙切れを手にして、羽田家を飛び出した。振り返ると、壮馬くんが、ソファーから見送ってくれていた。
嵐が近づいているというのに、外出なんて危険だ。一刻も早く見つけて、家に帰ってもらわなければならない。夕方から夜にかけて、急に風雨が強くなるとの予報が出ている。
——何、この思わせぶりなメモの残し方は!?探してくれって、暗に言っているようなものじゃん。それに、不安とか鬱とかを抱えて一人でどこかに行くなんて、嫌な予感しかしない。
私は、最近の夏輝くんの様子を思い出した。
妙に気を張ったような、それでいて、無理に元気な姿を演じるような感じだった。さらに、水族館での彼は、自然な笑みを浮かべてはいなかった。常に虚ろで、口では「楽しい、良かった」と言いながら、まるで虎に睨まれているかのように怯えた目をしていた。あれも、不安とか鬱の病気の魔の手にかけられていたからなのだろうか。
——どうか、沢で一人座りこんでいて、「気分転換がしたかっただけだよ」って言ってほしい。決して、この世界から去ろうとしたなんて、言わないで!
私は、焦燥に駆られるままに、駅へと走った。こんな全力の走りは、バレー部の活動以来か。
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