第27話 偶像崇拝


『地獄旅行』



  それは、俺の生涯における最後の小説のタイトルだ。学校にも行かず、約2週間、ロクに寝ずに書いたその作品を小説投稿サイトで公開した。書き上げ後に何度も推敲すいこうと修正を繰り返して、言葉の一つ一つに魂を込めた。そのせいか、はたまた睡眠不足による幻覚か、読み進めていると、言葉に命の灯の温かさを感じた。



 物語は、主人公が厭世から首を吊る場面から始まる。そこから、地獄、天国を巡って、最後は現世に再び生まれ変わるという、輪廻転生の物語だ。



 天国は、満たされているがゆえに、何の成長も成果も得られない地獄であった。




 地獄は、あらゆる苦痛で満ちていて地獄であった。




 現世は、失うことの不安に苛まれ続けるという地獄であった。



 これに気が付き、絶望の内で輪廻転生を繰り返してしまうということが、この物語の結末となっている。俺がもし、明日に命の灯が潰えてしまっても、この文章が、言葉が、物語が、死んだ俺の代わりに語ってくれるだろう。


 

 これは物語であり、俺の魂の叫びであり、人間社会への皮肉であり、この世界へのアンチテーゼでもある。





****





「久しぶり、夏輝くん」


 俺と早瀬は、水族館の最寄りの駅で落ち合った。


「ああ。久しぶり」


 俺は、早瀬にメールを送っていた。「今度の日曜日、スイレン水族館に行かない?」と、誘った。早瀬は、バイトのシフト上も問題ないということだったので、この日に約束をしてくれた。


「体調、大丈夫?」

「うん。今はむしろ、晴れやかな気持ち」

「そっか。それなら安心した」


 俺は、手際良く入場チケットを購入して、大人二人分の料金を支払う。


 今日の天候は小雨。湿度が高く、蒸し蒸しとしていて暑い。早瀬は、涼し気な着こなしだった。黒ワンピースの上にストライプの空色のシャツを羽織っていて、足元にはサンダルのスタイル。それら全てが、早瀬に備わっている可愛らしさ、かっこよさ、美しさに箔をつけていた。


 水族館の館内は、日曜日ということもあって、人で混雑していた。俺の注意不足からか、すれ違う人と肩がぶつかりそうになる場面も見られた。


「うわぁ、混んでるね」

「日曜だし、しょうがない」

「あっちはクラゲコーナー、こっちは熱帯の海の生き物だって。どっちから見る?」

「クラゲで。見てると落ち着けるから」


 早瀬に手招かれるままに、俺は人混みを縫って歩いた。


 まず足を運んだのは、クラゲの展示コーナー。淡い青色のライトに照らし出されるミズクラゲたちを眺めていると、心洗われる気分だった。心臓の拍動の奏でが落ち着きを取り戻して、室内の冷涼さから、背中の汗が引っ込んだ。


「キレイ~」

「うん。これが見られただけでも、来た甲斐があったよ」

「ずっと見てると、頭がボーッとしてきた」


 早瀬のうっとりとした横顔は、クラゲが優雅に泳ぐ光景よりも美しかった。人の姿をして現れた美の神が、母なる地球の海の美を眺めている姿は、まさに、あらゆる美を詰め込んだ「美の境地」だった。


「早瀬、写真撮っていい?」


 早瀬に撮影の許可を求めながら、スマホを取り出した。俺の要望に、彼女は首を縦に小さく振ってくれた。


「いいよ。後ろのクラゲと一緒に撮ってよ」


 早瀬は、ミズクラゲが悠々と泳ぐ水槽の前に立って、両手でピースサインを作った。


「はい、チーズ」


 撮影音がカシャリと鳴った。早瀬は、写真の出来栄えを確認するべく、俺に肩を寄せた。


「どう?いい感じに撮れた?」

「綺麗に撮れたよ。早瀬も、クラゲも……」

「確かに、いいね」


 早瀬の立ち姿が、水槽とライトの青色で縁取られていて、曲線の美を描き出していた。


 嗚呼、彼女の体の曲線の美で数学をすることができれば、あらゆる数式を好きになれていたかもしれない。


 数学は、この世の美しさを描き出すのに対して、歴史は、この世の汚らわしさを表現する。俺の好きな分野が後者であったことは、この数十年を生きたうえでの大きな後悔かもしれない。


 スマホの中に閉じ込められた早瀬の立ち姿をうっとりと眺めていた。すると、早瀬は俺に向き直った。振り返る時に、彼女の髪がサッと流れる。


「夏輝くんのことも、撮ってあげようか?」

「いや、いいよ。それより、次はイルカを見に行ってみよう」


 今回の表向きの目的は、二人で水族館を堪能することにあったが、俺は裏の目的を常に頭に描いている。


——早瀬という美と、水生生物という我らの母なる水の美の融合を写真に収めることが、真の目的である。決して、羽多夏輝という醜い泥のような存在が混じってはいけないのだ。清い水に泥が一滴でも垂れてしまえば、それは汚れた泥水になり果ててしまう。


 これは美の探求の作業であり、美の永遠の保存のための儀式なのである。


 それから、俺たちは水族館を巡りながら、写真を撮って回った。喜びから俺の頬は、常に緩んでいたかもしれない。




****




「……こっち見るな」

「ふふ……アハハっ、そのツッコミ、面白い!」


 肩を寄せ合う俺と早瀬を、ガラス越しで見つめてくるのは、巨体をもつアザラシである。ひげをヒクヒクとさせ、見事な立ち泳ぎで、体を悠々と水面に浮かべている。


 そんなアザラシと対峙した俺のツッコミに、早瀬は手を叩いて笑った。




****



「アデリーペンギン、エンペラーペンギン、マカロニペンギン、フンボルトペンギン……」


 早瀬は、岩の上の氷で身を寄せ合うペンギンたちの種類の名前を正確に答えてみせた。


「なんでそんなに詳しいの?」

「子供の頃に、動物の本をたくさん読んだから」

 

 のんびりと、悠々自適に歩いて泳ぐペンギンたちを眺めて、早瀬はうっとりとした顔を見せてくれた。彼女は一時期、水族館のスタッフに憧れていたらしい。



****




 昼時には、ショーを見に行った。5匹……いや、シャチは哺乳類だから5頭か。彼らは水族館スタッフの掛け声で見事なコンビネーションの技を決める。ボールと鼻先で運び、広いプール内を高速で泳ぎ回った。


 そして演出として、巧みな尾びれでもって水面を叩きつけた。



「わーきたぁぁ!!」


「う……くっ……」



 プールの水は、前列の観客席に襲い掛かった。俺と早瀬は、後列のほうに陣取ってはいたが、水しぶきを浴びる結果となった。早瀬は心から楽しんでいるご様子であったが、俺はスマホを守るのに必死であった。


 リュックに入れておけば、こんな危険に晒されることはなかったのに……


「ヤバイ……結構濡れたかも……」

「良ければ、これ使って」

「あ、ありがとう。助かる~」


 俺は、リュックから未使用のタオルを取り出して、早瀬に手渡した。彼女は、着ているワンピースをパタパタとさせている。そして、大胆にも俺のタオルで胸元を拭い始めた。……もうそのタオルは、受け取れない。


——綺麗な流れを成す黒髪が耳に掛けられる仕草が、あまりにも美しく、俺の瞳に映った。


「はい、ありがとう」


 最後に首元をサッと拭いた早瀬は、俺にタオルを返却しようとした。しかし、俺は断っておいた。


「あげるよ、それ」

「え、いいの?」

「いや……まあ、その、ね」

「ん、本当にいいの?かわいいタオルだけど」

「ああ……いいよ。大事に使ってね」


 言葉に詰まりながらも、小さいライオンが刺繍として描かれたタオルを、早瀬のものにしてもらった。



 こうして、水族館を巡る時間は、ゆっくりと過ぎ去っていく——


 

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