第28話 星々に見守られて

 水族館内を一通り巡った俺と早瀬。空は、既に夜の闇を広げていた。


「今日は、ありがとうね、誘ってくれて」

「……いえいえ。たまには、こういうのんびりした時間もいいね」

「確かに。めっちゃリラックスできた気がする」


 俺と早瀬は、水族館の屋外レストランにて、夕食を嗜んでいる。幸運なことに、雨は止んだ。海岸に打ち付ける波の音と、風によって運ばれてくる潮の香りを浴びながら、屋外の席にて、フィッシュバーガーにかぶりつく。早瀬の方が一口が大きいので、俺よりも早く食べ終えてしまった。


 晴れ上がった空へと、白い朧月おぼろづきが昇る夜の景色を、二人で眺めている。街明かりが、遠方で煌々としており、星々が俺たちの軌跡を見下ろしている。


「星がきれいだね~」

「だね。午前中は雨が降ってたのに」


 俺と早瀬は、椅子をちょっと倒して、夜空を見上げている。空気がカラッと澄んでいて、雲一つない空を通して、煌びやかな光の点を数えた。


「かわいい魚、おいしかったごはん、綺麗な星……今だけは、悩みも全部忘れられそう」

「へえ、早瀬にも悩みがあるんだ。そうは見えないけど」

「悩みの一つや二つや百個……あるよ、だって、人間だもの」


 早瀬は、星々を指でなぞって、線で結んでいた。彼女が見上げる方角には、赤っぽい光を放つベテルギウスが煌々としている。


「私の悩み聞いてくれる?」

「俺でいいの?」

「いいよぉ。夏輝なら、真剣に聞いてくれるから」


 早瀬は、オレンジジュースをストローですすり、隣の俺の方へと顔を向けた。その白の美貌に月明りが流れて、輪郭の曲線の美を醸し出している。



「私のお父さんがね、最近ずっとパチンコと女の子にハマってて、私の家、お金が無いの」


「女の子?」



 俺が首をちょっと傾げると、早瀬は上下の歯を合わせたニッとした笑みを見せた。


「……【フウゾク】だよ」


「あ、ああ……そういうことね」


 早瀬の口から思わぬ単語が飛び出して、俺の喉元で言葉が詰まった。


 正直、人生経験の乏しい自分に、悩みを聞いてやれるだけの自信が無かったが、早瀬の勢いに乗せられるままに聞き入っていた。


「最近お母さんが病気で入院して、とにかくお金がなくって……もっと稼げるバイトに変えないといけないかなって、悩んでるの。あと、大学の進学も諦めて、働き始めた方がいいのかなって、迷ってて……」

「それは……なかなか深刻だね」

「でしょ?で、今のバイト先の居酒屋、店長も先輩も後輩もみんな良い人だから、辞めたくないなって思ってるの」


 俺は、夜空で見守ってくれている星々を見上げながら、頬に手を当てた。


 母は病気を患って動けず、入院のための費用が発生。父は、遊び呆けているご様子。だから、早瀬がバイトで稼いで、どうにか繋いでいる状況らしい。高校生のバイト労働分で、大人一人の入院の費用と、娯楽代を稼げるとは、到底思えない。いつまでも、今の状況を続けることは困難であろう。


「じゃあ、早瀬のお父さんに、遊びを止めてもらえるように頼むのは?早瀬が働いて稼いだお金は、早瀬のものでしょう」


 早瀬は、今のバイトを止めたくない良好な人間関係を持っており、母の入院はどうすることもできない。ならば、現状を変えるに易いのは、父親だろう。


 しかし、早瀬はジュースをまた一口含み、口元を歪ませて苦笑した。


「ふふ……うーーーーん……それが、前に止めてって言ったんだけど、聞いてくれなくって……それどころか、私がパチンコ代くらいは稼いでこいって言われて……」

「それは酷いな。自分の娯楽代を娘さんに稼がせるなんて」

「お父さん、どうしちゃったのかな……お母さんが入院する前は、こんなんじゃなかったのに……あんなに言葉遣い荒くなかったのに……」


 早瀬の言葉を聞いて、俺は五臓を鷲掴みにされるような妙な感覚に襲われた。


 人間は、ふとした出来事で変わってしまうものなのか、と思った。途方もない時間を経ても姿と輝き変わらない、あの空の星々と我々人間とは違うのだと、気が付いてしまった。


「お父さんには、いっぱいお世話になってるし、これ以上言うのははばかられるというか、何と言うか……」


 父親の調子で、早瀬はすっかり奥手になってしまっているらしかった。


「早瀬、日本の法律で定められている成人年齢は、何歳でしょうか?」

「ん?」


 俺は、唐突だが問題を出題した。よくよく勉強できていて、時事にも敏感な早瀬は、ちょっと考え込んで見事、正答を導いてみせた。


「男女どっちも18歳でしょ?最近法律で引き下げられたって、聞いたことあるよ」

「そうそう、正解」


 俺は、出題の真意を説明し始める。これが、早瀬家の状況の打開策になることを願いながら。


「早瀬は、18だから大人。歳が離れているとはいえ、君のお父さんと同じ「大人」なんだよ。言いたいことは、素直に言ってもいいと思うよ、俺は。お父さんも、一人の大人として娘がものを言ったら、聞いてくれる……はず」


 早瀬の普段の言葉遣いとか、勉強やバイトへの意識の持ち方とか、人間関係の築き方とか、そういう言動を俺は隣で見てきた。それも、中学生の頃から。それを基に考えると、早瀬のご両親は話の分かる、賢い人だと推察できる。


 早瀬が真っすぐに話せば、お父さんも分かってくれるはずと、半ば性善説頼りのアドバイスではあるが……


「うーーん……もう一回、言ってみようかな。話は、ちゃんと聞いてくれる人だからなー」

「うん。聞いたり、言ったりするのはタダだから、それが良いと思う」

「お!今めっちゃ良いこと言ってくれたね。『聞いたり言ったりはタダ』か。メモ、メモ……」


 早瀬は目を真ん丸に見開いて、ストロー片手にペンを動かす真似事を演じた。彼女の黒瞳に映る星々と三日月の白い光が、煌々としている。キラキラと、宝石の如く輝きを放っていた。


「……今月も、ギリギリって感じなの?」


 俺は、早瀬に尋ねてみた。視線は、足元に置いた自分の黒リュックに落としながら。


「ギリギリというか、足りないかも……帰ったら、お父さんに叱られるなぁ……」


 早瀬の顔からは、微笑みが消えていた。いつも、信濃や西園寺と一緒に居るときは、早瀬の微笑みが消えることはなかったのに。その様子はまるで、広大な平原の花々が枯れて、いろどりが失われてしまったかのようだった。


 俺は、おもむろにリュックから財布を取り出して、その中の万札を三枚、取り出した。——渋沢栄一さん、俺の代わりに早瀬を救ってやってください。俺には、貴方のような賢さも力もありません。


 その万札の三枚を、早瀬に手渡した。彼女は、困惑しきった顔であった。


「え……ちょっと、これ、何のお金?」

「……俺が、お金をこの場で落とした。俺は、探すのを諦めて、困っている人が拾ったことを願っている」


 落としてしまったら、仕方がない。取り戻すのは困難であるので、困った人が拾うことを願うばかりだ。


 演技混じりの俺。それを彼女は、珍しそうにしながら困り顔であった。

 

「貰っていいってこと?こんな大きなお金を?」

「落としたっていうていでだよ。帰ってくることも、期待してないってこと」

「私に……本当にくれるってこと?」


 俺は、誰が見ても明らかなように、首を大きく縦に振った。


「うん」


 早瀬の苦労話を聞いていると、腹の中がズキズキと、釘の先端で突かれるように痛んだ。だから、これは俺の体の痛みを和らげるためだと、自分に言い聞かせて暗示をかけた。


「こんなに沢山は、受け取れないよ……いくら夏輝くんでも、流石に」

「俺と、早瀬と、渋沢さんの力があれば、この乱世の困難を乗り越えられるはず」


 俺は、残っていたレモンジュースを飲み干した。


 この渋沢三人は、俺が親戚の人から貰ったお年玉や両親からのお小遣いを貯金して、新しいパソコンの購入に充てようとしていたお金だ。


 しかし、このお金で知り合いの一人の困難を少しでも和らげられるとなれば、迷う。結局、不器用な感じで手渡すに至ったわけだ。


「っ——ありがとう、夏輝くん。あなたの善意を、確かに受け取ったよ。この借りは、必ずお返しするからね」

「……落としたって言ってるでしょ。だから、帰ってくることは、期待してないって」


 俺は、そんな気恥ずかしさの空気に耐えられなくなって、被っていた帽子を顔に乗せて、狸寝入りを決め込んだ。俺自身の力ではどうにもできないと思ったから、お金の力を借りたまでだ。お金の力とは、最も強力で、最も効率的な力だ。非力な俺の腕や下手な口よりも、よっぽど説得力と力を有している。


 早瀬は、俺の帽子を静かに手に取る。すかさず、俺は腕で目元を覆った。——止めて、恥ずかしいから。人の為の行いは、なんでこんなに恥ずかしいと思うのだろうか。


 その腕と下の瞼との間から覗いた早瀬の顔には、微笑みが帰ってきていた。頬が緩んでいて、そこが紅を刺したかのように僅かに紅潮している。


「よかった。よかったよ、早瀬が笑ってくれて」


 嗚呼、俺は、人生で初めて、人の為に動いたんだと。人の痛みが、自分の痛みのように感じる「共感」を覚えたんだと、薄っすらとした感動に瞳を閉ざした。


「俺は、母さんも父さんも、弟のことも姉さんのことも、信濃も、西園寺さんも、早瀬のことも大事だと思ってるから……みんなの為なら、動いてもいいかなって思った」


「っ——」


 そうだ。この大嫌いで絶望に満ち溢れた世界で生き永らえているのも、みんなのお陰だった。


——だからこそ、そんな大好きな人たちとの日常が失われる前に……



「な……夏輝くん……」

「はい」



 早瀬は、ちょっと震えた声で俺の名を呼んだ。俺は、低い声で不器用に返事をした。



「私と友達になってくれて、本当にありがとうね……!」





——俺は、人生で初めて、友達を得たらしい。冥土の土産に、彼女の麗しい瞳と月明りという光景の記憶は、ちょうどいいかもしれない。

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