第26話 美的感覚オーバーラン

 全身の力が抜けて、自分のベットにはりつけにされたような感覚に陥っていた。手首と足首のあたりに杭か、或いは桎梏を繋がれているかの如く、四肢が鈍重であった。


 そして、俺は来るか否かも分からない、禍害による破綻の時に怯えて震えていた。俺の命か、または日常が崩壊するその日を憎んだ。この世界の美が打ち砕かれるその時に睨まれて、ただひたすらに不安に駆られていた。


 しかし思い出してみると、あの夕日と早瀬は、神域に踏み込んだかのような感覚を醸して俺を酔わせて、何とも言えぬ幸福と恐怖を植え付けたような気がする。あれが失われることなど、俺が生きている間にあってはならぬことだ。


「ほら、水持ってきたよ」


 姉の和葉が、俺の枕元の時計の隣に、コップに注がれた水を置いた。カーテンの向こうの、さらに窓の向こうの夜空には、宇宙の美の代弁者たる白い三日月が控えている。


 ふと、その水を枕元にちょっと垂らしてみた。水は、当然浸透して、枕の一角を濡らした。


「……何してるの?」


 姉の問いかけなぞ意識の泉の外側で、俺は次いでコップを窓辺に垂らした。水は、当然雫を成して、月明かりを一身に受けて宝石の如く輝き、点々としていた。


「和葉、俺、水になりたかった。人間じゃなくて」


 泉に入れば、その囲いの形に。ため池に入れば、その囲いの形に。コップに入ればそれの形に。川を流れれば、多くの水と混ざって流れを成して、海に出れば、波を成して自由に動き回る。


 水のような柔軟さがあれば、如何なることが起きようと頑強であれたと思う。


「……そう。何言ってるのか分かんないけど、薬はちゃんと飲んでよね」


 姉は、時計の隣に二種類の錠剤を置いて、部屋を出ていった。一つは、精神の安定のための薬。もう一つは、睡眠を助ける薬。ドアの閉まる音の後には、心地よい風の語り声が窓のガラス越しに聞こえてきた。


「……」


 ふと、時計の時刻を確認する。デジタル的な数字は23を表記していて、もうすぐ日の変わりが近いことを知らせた。そして淡々と、無限に連続する時間を刻み続けている。しかし、電池が切れてしまえばそれまで。その先の時間が刻まれることはないのだと気がついた。


 時計さえも、永遠と在ることはありえないのだ。永遠と続くのは、時間と、宇宙と、あとは何だ?人間の欲望とかか?



 スマホをおもむろに手に取って、メールを確認した。すると、いつもの4人組専用のグループにメッセージのやり取りがあったことを発見した。



(夏輝くん、体調はどう?)


 早瀬は、骸骨のアイコン。彼女曰く、好きなアーティストのトレードマークらしい。




(羽田氏、森下先生も心配してたっす)


 信濃は、名前が分からない、アニメの美少女のアイコン。彼曰く、最近ハマっているアニメのヒロインらしい。




(最近は気候がおかしいみたいなので、体調の方が心配。お返事、待ってます)


 西園寺さんは、猫のアイコン。彼女曰く、愛猫の寝起きをとらえた写真らしい。



 そこには、早瀬、信濃、西園寺さんからのメッセージが送られていた。みんな、俺が学校にしばらく来ていないことを心配してくれている様子だった。そういえば、もう二週間は、この部屋に引き篭もっていることを思い出した。風呂も食事もロクにこなせず、明日への期待すら虚しく、死んだように生きていた。


 せっかく学校に復帰したかと思えば、またすぐに寝込んで不登校。このままでは、大学への進学どころか、高校の卒業すら雲行きが怪しいか。


「体がダルくって、どうしようもない……」


 俺は、グループに返信を打ちこんだ。「ごめん。体調が良くなったら、また行きます。心配してくれてありがとう」と、皆に心配をかけたことへの謝意を籠めて、メッセージを送信。


 ふと、画面を上にスクロールすると、過去の写真があった。


 そこには、駅の西口で肩を寄せ合う俺、早瀬、西園寺、信濃の姿が映し出されている。これは、この前の焼肉食べ放題の後に撮られた写真だ。その写真をボーッと眺めていたら、スマホの画面が唐突に闇を映し出した。どうやら、充電が切れたらしい。


 時計をまた見てみれば、23時5分の表記が。まだ、姉が部屋を去ってから五分しか経っていないのか……



「……眠いな。寝たのに」



 俺は、医師から精神を安定させる薬と、睡眠を助ける薬剤を処方されている。これを服用しているから、幾分かはマシ……なのだろうか。


 2つぶの錠剤を水で流し込んだ俺は、またベッドにはりつけになった。





 俺は、悪夢か吉夢にうなされていた。



 それは、広大壮大な自然の緑の中に、早瀬が一人で立っている夢だった。緑の中に、ポツンと白の一点がひとつ。彼女は、白い帽子と白いワンピースを身に付けていて、こちらを向いて微笑んでいる。まるで、ため池に立ち尽くす白鳥か白鷺のようで、この世の美を詰め込んだかのような美しさを醸し出していた。



——俺が木道を歩いて彼女に近づくと、彼女は何かを呟いた。何と言っていたかは、覚えていない。




 それは、東京タワーのてっぺんに、俺と早瀬と立ち尽くしていた夢だった。二人で手を繋いで飛び降りると、周囲の景色が目まぐるしく変化した。


 電車やビルの数々が、早瀬の白い腕に。空の快晴の青が、早瀬の瞳の黒と鮮血の赤の色に。道路や道の全てが、早瀬の白く美しい肌に。行き交う人々の全てが、早瀬の顔をしていて、ドーム状の建造物は、早瀬のふっくらとした豊かな胸へと、急速に変化した。



 俺は早瀬と手を繋いで、頭頂部から固いアスファルトの地面に衝突した。俺はその情景を振り返ってみて、「美しい」と思った。早瀬が衝突の直前に、何と耳打ちしたか、覚えていない。




 それは、真っ暗な空間に閉じ込められる夢だった。五感が全て剥奪されてしまった俺は、その闇を彷徨った。



 すると、声が聞こえてきた。芯のある、澄んだ鈴の音のような声の正体は、早瀬の声であった。彼女は一言、俺に告げた。



「——もう少し、マシな世界へ行こう」



 闇から浮かび上がってきた彼女の立ち姿は、女神のように美しかった。ギリシア神話における美の神は……そうだ、アフロディテだ。早瀬冬紀という人間は、まさに現人神だ。どうりで美しく、俺の目を惹いて、心に安らぎを与えてくれるはずだ。彼女が失われることなど、あってはならないことだ。そして、失われることに対しての不安から、俺は夢の中でも叫んでいた。





 重い瞼を開いて目覚め、俺はただ一人、夜のベッドの上で笑っていた。同時に、溢れんばかりの涙で枕をぐっしょりと濡らしていた。妙に、思い出された姉や父や弟や母の顔に、白いもやがかかっていた。


 そして、俺は「笑っていた」。不器用に顔を歪ませて、ひたすら笑っていた。

 

 

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