第25話 仮面の慟哭

 数日の入院を経て、俺は元の生活に復帰した。せっかく卒業間近に迫った高校生活を留年という形で繰り返したくはなかったので、気合いでベッドから起き上がったのだ。


 それと、医師から処方された薬が効果抜群といった感じで、衝動や過度の不安を払拭してくれている。現代医療の発達と日本の充実した制度に万歳三唱。


「行ってらっしゃい、気をつけてね~」


「行ってきます!」


 玄関で見送りをしてくれる母に向けて、精一杯の笑顔を作った。これ以上、心配をかける訳にはいかない。そう胸の内で決意して、玄関の戸を閉めて、学校へと向かった。

 

 高校卒業への仕上げとして、成績と、出席数を稼ぐことを心がけていた。毎朝ベッドから起き上がるのは、辛くとも我慢。もう一度、高校三年生をやり直すという無駄足を踏むよりはマシだと考えて、自らのネガティブな思考を上塗りにしていた。


「お、おはよう羽多氏!ずいぶん久しぶりっすね」


 どうやら俺が不在の間に、席替えが行われたらしく、信濃は、教室の一番後ろの廊下側の席から挨拶の声を飛ばしてきた。ちなみに、俺は後ろから二番目の窓側の席だった。


 挨拶は、社会を作り社会に生きる人間としての礼儀。満面の笑みでもって、信濃に応えてみせた。


「おはよう、久しぶり!ちょっとここ最近体調が悪くて、寝込んでたわ」

「でも、その様子だと元気になったみたいっすね。よかったっす!」

「ああ。残りの高校生活も短いけど、よろしく頼むぜ!」


 俺と信濃は、柄に合わないハイタッチを決めた。タイミングも力加減も分からないで、互いの手がかすれる微妙な音が、朝の教室の静寂さに響いた。


 次いで、ドアをガラガラと開けて教室に入った早瀬と、彼女の友達に笑顔を振り撒いた。


「おはよう、早瀬!久しぶり!」


「お、おはよう・・・・・夏輝くん、元気になったみたいだね」


 あまりの俺の迫力に、早瀬は目くらましを食らったかのようだった。挨拶の声は廊下にまで響いていて、無駄な声量を発揮したのだと自覚した。しかし、誰にでも同じように明るく接することは、俺が理想に思い描いた姿そのものだ。


「おはよう、羽多くん。急にどうしたの?前は、ウチに対して自分から挨拶なんてしてこなかったじゃん」


 早瀬の横を歩いていた友達は、俺に不思議そうな目を向けた。


「いやぁ・・・・・しばらく調子悪くって休んでたら、元気やる気が過充電されちゃったって感じ!だから、そんな俺でもよろしくね!」

「変だぞ、夏輝くん」

「いや、そんなことはないっすよ~これが、羽多夏輝っていう人間の内に秘められてた本性・・・・・みたいな?」



 早瀬の友達は、まるで醜い蛆を蔑んで見るような目をした。


 なんて分かりやすい人なんだ。表情に内面の感情が浮き出ている。俺のことを、休んでいる間に頭がおかしくなった人間として見ているように感じられた。



 そして、俺の笑顔は引きつっていて、頬が変に力を篭めたせいか痙攣していた。




✳✳✳✳




「羽多くん、ご両親から事情は聞いてます。苦しくなったら、授業を途中で退出してもらって大丈夫です」


 担任の森下先生は、休み時間に職員室へ俺を呼び出してこう言った。


「大丈夫です。薬を服用しているので、気分の過度な落ち込みはありません。私は、今も、これからも元気であります!」


 俺は、先生を安心させるべく満面の笑みを披露した。もう心配ありません。俺は、気を一新して生まれ変わりました!



 そうやって笑う彼の瞳の裏には、涙が溜池の水のように溜まっていた。








「じゃあ、ここの空欄に当てはまる慣用句は何でしょうか?分かる人プリーズ~」


 とある日の英語の授業。教室にはクラスの半分の生徒が集められていて、少人数での授業が展開されている。ちなみに、クラスはくじ引きで決定された。


 先生は、黒板代わりのホワイトボードを、手持ちの赤水性ペンでトントンと叩いている。


「誰もいませんか?」


 先生は腕組みをしながら、教室を見渡した。その先生と俺の視線が交わった。俺は、思いきって解答をすべく、腕をピンっと高く挙げている。


「・・・・・」


「あ」


 俺と早瀬は、同時に手を挙げていた。先生は早瀬と俺を順に見て、結局俺の顔を一見し、微笑みを浮かべた。


「では、お久しぶりのミスター羽多、スタンダーップ、プリーズ。解答をお願いしまーす」


 早瀬は無言のうちに手を下げて、俺は席から立ち上がり、先生から差し出された赤水性ペンを受けとった。


 さて、問題は英語の慣用句の語法を覚えているか否か。俺は、登校下校の電車内で英語の単語帳を読み込んでいるから、自信があった。みんなの眼前で解答を間違えることの羞恥心は、もはや俺の頭から排除されていて、高校を卒業するに必要な成績と出席数を確保することに奔走している。


「羽多のやつ、久しぶりだよな。先週から居なかったよな?」

「たぶん。先週の何曜日だっけか、水曜日?」

「というか俺、羽多としゃべったことないな」

「早瀬さんって、羽多さんと中学同じだったんだよね?」

「ん?そうだよ」

「どんな人なの?昔から、こういう感じ?」


 他の学友たちの囁き声さえも、持ち前の集中力で遮断して、俺は解答を丁寧に書いた。静かな教室に、ホワイトボードの表面とペンの先端がぶつかる、コンコンという音が響いている。先生は、授業中のおしゃべりは基本的に注意しない立場を取っている。


 解答を終えた俺は、胸を張って堂々席に戻った。その姿は、日本の国際連盟脱退の日の「あの人」を模倣していた。「我が身、堂々退場す」


 席に戻るとき、早瀬と目が合った。俺は、小さく胸の前でガッツポーズを取った。


「正解でーす!グッドトライ!!」


 先生は、大げさに赤ペンで丸を描いた。勢いがあって赤の色味が薄くなって、丸の形の始点と終点が合っていない。


「先生、俺、学校の生き帰りの電車の中で、英語の単語帳を読んでいるんですよ。ですから、思い出したら簡単に解けました」


 俺が先生に笑みを向けると、先生はそれに見事な笑みを返してくれた。まるで、俺の笑みの輝きを模倣するように。


「それは、ベリーベリーグッドな習慣ですね、ミスター羽多!是非、これからも続けてくださいね!」


「ありがとうございます、先生!」


 俺は、また先生と笑みを交わした。俺の顔は、俺に似つかわしくない程に頬がつり上がっていて、口角の両端が上向きになっていた。




 誰だこれ?気味の悪い、作り物の微笑みのお面を付けたこいつは、一体誰なのか。


 早瀬さんは後ろの席だったので、その表情を伺い知れなかった。こんな俺を見て、何を思うのだろうか。




✳✳✳✳




 またとある日の、放課後の電車内。俺は、いつものように英単語帳を読み込んでいた。


(はあ、何か気が乗らないな)


 そう思い、単語帳をゆっくりと閉じて、リュックの底のほうにしまい込んだ。代わりに取り出したのは、スマホとイヤホン。お気に入りのあの人の音楽に聴き入った。


 音楽の早いテンポと、電車のガタンガタンという揺れの音とが重なって、妙な共鳴を奏でた。さらに、向かう先の夕日が輝かしく煌々としている。


(なんだ、これ・・・・・)


 その夕日の茜の下に見たのは、いつもの変わらぬ風景であった。田舎と都会の境目であり、遠目に田畑の広い様と、また別の方角にはビル群の反射光を見た。


 そんな何の変哲もない見慣れた風景が、夕日の茜によって飾られて、どこか特別に感傷的な気持ちを引き出した。


(っ、早瀬・・・・・)


 その夕日によって、人の影のシルエットが照らし出された。それの正体は、いつもの高校の制服姿の早瀬だった。


 黒髪が夕日の赤っぽさと混ざり合っていた。他の乗客とは一線を画し、彼女の立ち姿はどこまでも俺の目を魅いた。それは、だだっ広い池の中心に立つ白鷺のように目立って、輪郭をはっきりとさせて美しかったのである。


「は、早・・・・・」


 しかし、口が呼びかける言の葉を紡ぎ出した時には、時既に遅し。早瀬は、俺に気がつかないまま、ホームドアの向こうへ歩いていた。


 俺は、窓に張り付くようにして、ホームを歩く早瀬を凝視した。隣に座る乗客に冷たい視線を送られて距離を取られたが、それよりも肝要なる景色が俺を支配して、焦燥へと駆り立てた。



 もし、俺が明日に死んだとすれば、もし、戦争が起こって日常が破壊されたとすれば、もし、大災害が起こって電車に乗れなくなったとすれば、あれほどの美しさを醸し出した早瀬の姿を見ることができなくなる。そう考えると、焦る気持ちが湧いて出てくると同時、それらの禍害に襲われる可能性に睨まれて、不安に駆られ震えた。


(は、早瀬、行かないでくれ……もう一度だけでもいい。もう一度だけ、その美しい顔を見せてほしい!もう、二度と見られなくなるかもしれないから、心の内側に永遠に保存させてほしい)



 無情にも、俺の焦りとは相反して、電車は景色を横へと流してしまうのである。早瀬の背中が、電車内の壁に飲み込まれてしまった。




 俺は、人目も憚らずに涙を零した。ボロボロ、ボロボロと。しかし、声が出なかった。下を向いて、ひたすらに自分の制服の黒色の膝の上に涙を落とし続けた。




——嗚呼、彼女のあの「美しさ」は……あの夕日の「美しさ」は、いつ失われてしまうのだろうか。それが不安で心配で、堪らなかった。

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