第24話 暗闇から伸びた魔手
俺は、弟の壮馬が事故に遭って怪我をしたあの日から、気を病んで、家に引き篭もるようになった。ベッドにただ横になるばかりで、高校に通学するのも、風呂に入るのも、起き上がることも、全てが億劫だった。
ただでさえ軽い体重が、最近になって5㎏も軽くなっていた。久しぶりの風呂上りに体重計に乗ってみて、その数字に我が目を疑った。
「夏輝、食べないとだめだよ……」
「食べる気になれない……ごめん」
俺は、食べ物が喉を通らなくなっていた。母や姉が持ってきてくれるコップの水を飲むで精一杯だった。
寝て目覚めては、白い天井に悪夢を描いて、布団にうずくまる。そうして夕日が窓から覗いたかと思えば、あっと言うまに暗い部屋に飲み込まれて月を眺める。そんな日々をひたすらに繰り返した。
小説を書く気も、大学の進学に向けた書類の準備をすることも、食べることも、風呂に入ることも、あの人の音楽を聴くことも……全てが難しく感じられた。今の自分には、できる気がしない。
——あれ?生きるのって、こんなに難しかったっけ。
「ああ、壮ちゃん。無事だったか」
俺のベッドの傍に、弟の姿が。頬に、カッターで切ったような小さい切り傷の跡があった。
「うん。病院で検査してもらったけど、大丈夫だった。この前ね、トラックの運転手が、僕に謝りに来てくれたんだ」
「そうか……壮ちゃんが無事でよかった」
俺は、弟の頭を手のひらで撫でた。
俺の胸のあたりにあったはずの弟の頭は、俺の背丈に迫ろうとしている。たくさん食べて、大きく強くなってくれ。俺みたいに、弱い人間になってはダメだ。
弟は、無事であったことだけを伝えて、部屋を出て行った。部屋の入口のドアが閉じられて、一階のリビングへの階段の暖色の光も見えなくなって、俺は月明りに照らし出され、ベッドに磔にされていた。
****
俺は、夜中に叫んでいた。眠れない悪夢にうなされて、ベッドから転げ落ちたのだ。
「あああああ!!!」
「ちょっと、夏輝!どうしたの!?」
物音を聞きつけて、姉の和葉が階段を駆け上がって俺の部屋へ飛び込んできた。
「今すぐ、家の全部の電気とガスと火を止めて!!!火事になるかもしれないから!!!」
俺は、涙ながらに姉に訴えかけた。
「今すぐにここから逃げないと!嵐と、戦争が来るっ!!」
「おい、夏輝!どうした!?」
「兄ちゃん……」
次いで、弟と父も部屋に入ってきた。
——不安だ。とにかく不安だ。何時いかなる場合に、俺が築き上げたあのカップ麺の容器のタワーが崩壊するのだろうか。俺は、ただその不安に駆られて、泣いて叫んでいた。
「事故に遭うかもしれない!病気で急に死ぬかもしれない!また、誰かが死ぬかもしれない!ここから逃げて、みんな!!」
「ええ!?夏輝、お前には、何が見えているんだ?」
父は、俺の頬に触れた。皮が厚くて、丈夫な手の感触があった。
しかし、それを死神の手とでも勘違いしたらしく、さらに金切り声で叫び、目尻から涙を零した。自らの頬を引っ掻いて、血が滲むまで力を篭めていた。痛みによって、極度の不安を上塗りにしようとしていたのだ。
「兄ちゃん……」
弟は、部屋の扉の陰に隠れて、悪魔に憑りつかれたかのように狂気を叫ぶ俺のほうを覗いている。
「お父さん、精神科!夏輝を連れて行こう!」
「お、おおう……それがいいかもな」
「調べたけど、今の夏輝は鬱とか、不安障害っていうに当てはまりそうな気がするの!」
俺の耳には、ぼやけた姉と父の声しか聞こえなかった。姉の、父の声と、俺の叫びを、まるで深いプールの底で聴いているかのようだった。
それよりも、俺は更なる不安に襲われていて、深い暗がりの部屋でいたたまれない気持ちでいた。
1999年の空に、人々が大王を見ているかのような感覚だった。あの窓の向こう側から、大王たる何者かが俺の命と日常を奪いにやってくるのではいか、という強迫に駆られていた。
「もう、嫌だ……俺は…………」
「夏輝、大丈夫。お父さんも和葉も傍にいるからな」
父の声は、妄想が築き上げた虚構の不安の城に囚われている俺には聞こえやしなかった。
憲法がガラガラと音を立てて崩壊して、1984年の「眼」がやってくる足音の幻聴を聞いた。それは、恐らく、偉大な兄弟の足音だ。——彼が、俺のことを見ている、監視している。
耳を塞ぎ、瞳をぎゅっと閉ざして、見えないそれに、ひたすら恐怖していた。
「こんな時間帯でも開いてる病院は……」
父が携帯電話を操作している間にも、俺はさらなる恐怖と不安に襲われていた。
目の前に、ありとあらゆる「美しいもの」が映し出された。それらは自由自在に姿を変化させる。
美の女神のアフロディテ、黄金の林檎、富岳三十六景の大波、白馬とナポレオン、青の大海と戦艦大和、パイプオルガン、人間の鮮血、白色の満月、そして金閣寺から早瀬冬紀へと変化して……それは遂に、黒の一点に収束して、美しさの光が失われてしまった。
盛者必衰と生生流転の理の残酷さを突きつけられたようで、俺は猛烈な吐き気に襲われ、激しく咳こんだ。
「あ、今の時間帯でもやってるところがあるぞ!和葉運転できるか!?」
「まかせて!壮ちゃんは、家で待っててね!」
「うん……兄ちゃん、無事でいて……お願い」
「ど、どうしたの!?なんの騒ぎ?!」
「母さん!夏輝を病院に連れて行くから、ついてきて!」
「母さん、後ろに乗って、夏輝を落ち着かせてやってはくれないか?」
「わ、わかった!夏輝、起きられそう?」
俺は、姉と父と母に抱えられるようにして、車の後部座席に寝かされた。
この技術が成熟した社会では、何が起こり得るか?それを考えた時に、俺は監視と管理が行き届いた社会を想像した。全ての一挙手一投足が監視され、管理され、社会という「檻」に閉じ込められた人々が思われたのだ。
俺は妄想と幻覚の世界で、『地球監獄』に閉じ込められていた。自分で創造した世界に、想像でもって囚われて出られなくなっていたのだ。
母や姉や弟と父の声が、合成音声のような機械的な音に聞こえてきて、気持ちが悪かった。
——その日の夜の出来事の記憶は、非常に曖昧だった。気がつけば、俺は安らかな目覚めと共に、見慣れない簡素な白の天井を見上げていた。
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