還る想い

 祭りの夜の騒動から、暫くして。

 アインマールは次々に他国の使いが訪れ、俄かに騒がしくなっていた。

 元々フロース帝国がアインマールを国として認め、支援を行った事で各国は獣人の国を注視していた。

 そこに、属領扱いして蔑んでいたはずのアルビオンが、アインマールに謝罪する為の正式な使者を立てたという情報が瞬く間に知れ渡る。

 対応を決めかねていた国々も、二つの国の動きに倣う事にしたようだ。

 シュタール達は慎重に吟味した上で受け入れる意向であったが、何分アインマール自体がまだ落ち着いているとは言えない状態だ。

 国内が平静を取り戻すまで今少しの時間を、と丁重に願う旨を認めて返答する事が続いている。

 アルビオンから国王陛下直々の謝罪が届いた時には、アナスタシアも驚いた。

 息子の愚行を詫びる旨と、アインマールを正式に国家と認め、今までの不当な扱いを償いたいという意向が記されていた。

 そして、それを追うようにして、エリオットが廃嫡されたという報せが届く。

 エリオットは辺境に追放され、密かな取引相手……セオドアが弟に変わり王太子に立ったらしい。

 それを聞いて、思うところがなかったわけではない。だが、さして胸が痛まなかった自分を、アナスタシアは我ながら薄情と苦笑する。

 幼い頃から何れ伴侶となる為に長い時間を共に過ごしていたのに、脳裏に描ける思い出らしい思い出がない事に気付く。

 マデリンの事が無かったとしても、自分達の間に通うものは無かったのだと思えばかすかに寂しさはある。

 けれど、悔いる何かがあったとしても、確かなのはもう自分達の道は交わらないのだ。


 ある晴れた日、アインマールにアルビオンから再び特使がやってきた。

 特使は、王都の魔術回路の中枢にあった心臓石を携えていた。

 それは、かつて嫉妬にかられた兄により害されて奪われた、先代精霊の心臓石だった。

 サイサリスは、セオドアに回路中枢にある心臓石にまつわる出来事を知らせた。

 それを聞いたセオドアが、これはアインマールに返還するべきものである、と父王達を説得したのだ。

 王都の混乱が未だ完全に収まらないため直接赴けなくて済まない、という謝罪の手紙と共に故郷の地に戻ってきた精霊の形見は、力を使い果たして輝きを失ってしまっていた。

 でも、とアナスタシアは心臓石を手にして祈りを捧げる。

 彼女の心はここにある。まだ、共に居られる場所へ行けぬまま。彼の元にかえりたい、と願っている。

 生まれたばかりの小さな精霊は、悲しそうに石を見つめながら、縋るようにアナスタシアの服の裾を掴む。

 頷いて目を伏せたアナスタシアの祈りに応じるように、心臓石が淡い光を帯び始めて。

 それが一瞬にして膨れ上がり、周囲に満ちる程の輝きになったかと思った瞬間、石は澄んだ音を響かせて砕けた。

 皆は、輝きの中の中に一人の乙女の姿を見た。

 漸くゆける、と喜びに微笑む美しい先代の精霊の姿を。

 乙女は、天へと昇っていく。かつて離れ離れになった想い人に会うために。

 民は、かつてこの地を守り続けた偉大な存在が漸く救いを得た事に頭を垂れ、ただ静かに祈りを捧げ見送った。

 幼い精霊は、涙が滲んだ瞳で静かに去り行く姿を見守り続けていた……。



 何かと慌ただしい日が続く中でも、シュタールとアナスタシアは二人の時間で語る時間を必ず作り続けた。

 その日も、二人は他愛ない話をしながら、穏やかな時間を過ごしていた。

 だが、時折密かにアナスタシアの心の中には翳りが生じる事がある。

 シュタールが手にしていた花嫁の飾りの事だ。

 直接聞きたい、とは思うけれど、中々言葉にするのが難しく。言い出せないままもどかしい思いをする事が増えていた。

 ただでさえ勘の鋭いシュタールが、それに気付かないわけがない。

 ある時、シュタールは問いかけた――何をそんなに気に病んでいるのかと。

 アナスタシアは狼狽えて何とか誤魔化そうとしてみたものの、元より嘘の気配に敏い獣人の王を相手に叶うはずもなく。

 観念したように俯くと、消え入りそうな声で語り始めた。


「シュタールが花嫁の頭飾りを、大切そうに持っているのを見て」


 何気ない様子を装いたくても、表情が暗くなってしまう。

 シュタールは目を瞬いて、少し驚いた様子でアナスタシアの言葉を聞いている。


「シュタールには、結婚を約束した大切な人が居るのだ、と思ってしまって……」


 居るのかもしれないし、居たのかもしれない。

 過去を詮索するような真似はしたくないが、気になっていた事だった。

 聞かずに引きずるよりは、と勇気を奮い起こしたものの、気まずくなってしまう。

 唇を引き結んで俯いたアナスタシアを見て、シュタールは何やら考え込んでいたが。


「あれの事か……」


 確かに大切な存在に間違いないが、と呟くシュタール。その表情は少しだけ複雑そうな様子である。

 すっかり肩を落して俯いてしまい顔をあげる事が出来ずにいたアナスタシアは、シュタールが立ち上がった気配を感じた。

 立ち去ってしまうのか、と握りしめてしまった手に力が籠った時、アナスタシアの目の前に大きな手が差し出される。

 驚き、弾かれたように顔をあげたアナスタシアの眼差しの先で、シュタールは優しい笑みを浮かべていた。

 そして、一緒にきてくれるか、と問いかけ首を傾げて見せる。

 シュタールがそう言い出した理由が分からず目を見張ってしまったアナスタシアに、シュタールは噛みしめるような声音で言った。


「騒ぎのせいで機を失いかけていたが。……本来持っているべき人間に返さなくては」



 シュタールがアナスタシアの手を取って導いた先は、都を見下ろす事ができる小高い丘だった。

 穏やかな春の風が吹き行く中、緑を取り戻しつつある大地と、賑わう都を一望できる場所である。

 その場所で、幾つかの人影が測量作業を行っていた。

 水辺も近く地理的に好条件だということで、農園を開く試みが進んでいるのだ。

 フロースからやってきた研究者やアルビオンから移住してきた技術者の指導の元、作業は滞りなく進んでいるようだ。

 シュタールは王に気づいて手を止めて、頭を垂れる者達を労いながら、アナスタシアを伴ってある人影を探す。

 少し進んだあたりに目的の人物を見出したシュタールは、歩み寄ると彼の名を呼ぶ。


「ロイエ」

「シュタール様、進捗を確認にいらしたのですか? アナスタシア様もご一緒に」


 手にした地図に調査してわかった様々な事を書き込みながら人々に指示を出していたロイエは、シュタール達に気付くと手を止めた。

 アナスタシアが隣に居る事に気付くと、ロイエの顔に穏やかな笑みが浮かぶ。

 シュタールはロイエの問いかけに、ゆるく首を左右に振る。


「いや、お前に用があってきた」


 僅かに怪訝そうな表情を浮かべたロイエだったが、次の瞬間に目を見開いた。

 シュタールが静かに、丁寧な手付きであの頭飾りを取り出したからだ。

 ロイエが戸惑ったように動きを止め視線を向ける中、シュタールは花嫁の願いが籠ったそれをロイエに差し出した。


「遅くなってすまなかった」


 驚愕の様子で動きを止めてしまったロイエを見ながら、アナスタシアも戸惑っていた。

 シュタールは、あの飾りを本来持っているべき人間に返すと言っていた。

 そして今彼は、それをロイエに対して差し出している。

 アナスタシアの裡に生じた問いの答えを、ロイエに対して真っ直ぐな眼差しを向けたシュタールは、確かな声音で紡いだ。


「ロイエ。……今こそお前に、姉上の想いを還す」


 それ聞いた瞬間、アナスタシアは思い出した。

 シュタールには、数年前に流行り病で亡くなった姉が居た事を。

 そして、あの流行り病の騒動の渦中でロイエが辛く切ない表情を浮かべていた事を。

 少しずつ、氷が解けるようにアナスタシアの中の問いがほどけていく。

 あの頭飾りは、シュタールの姉が縫いあげたものであり。

 シュタールの姉が……リーリエという名の女性が何時の日かの夢と想いを込めた相手は、ロイエだったのだ。

 ロイエは、最初はただ迷いに表情を曇らせ、手を伸ばす事が出来ずにいるようだった。

 だが、シュタールが静かに、真摯な眼差しを向け続けるのを見て、やがて丁寧な手付きで差し出されたものを受け取った。

 そして、瞳を伏せて、そっと胸元にて握りしめる。

 頭飾りが自分の手からロイエの手へ渡ったのを確かめると、シュタールは無言のまま身を翻して歩き出す。

 慌ててアナスタシアもそれに倣い、少し早足気味にシュタールの跡に続いた。

 ロイエが今どのような表情をしているのか、見る事は叶わない。


 けれど、きっと……。




 シュタールとアナスタシアが立ち去ると、その場にはロイエだけが残された。

 彼と共に測量作業をしていた者達は、いつの間にか周囲から姿を消している。

 恐らく、シュタールが何か申し伝えていったのだろう。

 全く、変なところで気を利かせるのだから、と呟くロイエの顔には、喜びと哀しみと、相反する感情に満ちた複雑な笑みが浮かんでいる。

 ようやく、彼の元に戻って来たのだ。彼がただ一人愛した女性の想いが。

 告げる事すら出来ずに、密かに思い合う日々だった。

 言葉に出来ずとも、気が付いた時に触れ合う眼差しを幸せと思う、温かな日々だった。

 優しい女性だった。

 獣人の中にあっては身体があまり丈夫ではなかったけれど、気丈で人を思いやる心を忘れる事のない人だった。

 病に倒れ、自らが助からないと悟った時。彼女は、自らの心臓石は皆の為の薬に変えてくれ、と最期に遺したのだ。

 その言葉に従う為に、彼女の心臓石で薬を贖いに行ったのは他ならぬロイエだった。

 心が裂けるかと思うほどに苦しく、このまま自分も彼女の後を追っていけたならと血を吐く程に願った。

 けれど、彼女が遺したもう一つの願いが彼を引き留めた。

 シュタールの姉は、この地に春を呼んで欲しいと願って逝ったのだ。

 何時の日か、この常冬の大地に春が来る日を。緑為す大地にて人々が笑顔で暮らせる日がやってくるという途方もない夢を、誰よりも強く信じていた。

 シュタールの姉が『何時の日か』を信じながら紡ぎ続けた、彼女の想いの証。

 彼女が遺した最後の心ともいえるそれを、シュタールは最初ロイエに託そうした。

 しかし、ロイエ自身がそれを拒否した。今は、それを受け取る事ができない、と。

 彼女が最後に臨んでいた夢を現実に出来たなら、その時こそ受け取らせてもらう。

 そう告げて、王と共に見果てぬ夢を追い続ける事を選んだのだ。

 彼女の心は、穏やかで優しい風が吹く春の陽射しの下で、彼に戻って来た。

 現実のものとなった彼女の願いの光景の中、彼の手の中にある。


「リーリエ、見えますか?」


 人々が笑顔で暮らす都を見下ろせる場所にて、亡き人へと呼びかける。

 手にした頭飾りに温もりある風を感じさせるように。人々の喜びに輝く光景が見えるように、手を翳しながら。

 万感の思いを込めた語り掛ける言の葉を、ロイエは静かに紡いだ。


「貴方が望んだ春が、今、ここにありますよ……?」


 一つ、雫が落ちて、静かに大地に沁み込んでいく。

 ふわりと、優しい風がまた吹いて。

 肩を抱くような不思議で温かな感触を、丘に立つ男は確かに感じた……。

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