魔女


 声を聞いた瞬間、背筋を何とも形容しがたい感覚を伴う冷たさが走り抜けた。

 マデリンを見ると、先程までの勢いはどこへいったのか。一瞬にして蒼褪め、唇を振るわせてしまっている。

 妹が恐れを宿した蒼い瞳を向ける先へとアナスタシアとシュタールも眼差しを向け、揃って絶句する。

 そこにいたのは、恐らくは女だった。

 『恐らくは』としてしまうのは、声が女性のものではあるけれど、その影が明確な人の形を為していないからだ。靄のようなものが女性に見える形を取ってはいるが、人ではないものは明らかである。

 シュタールが警戒するように低く唸っているのが聞こえる。

 アナスタシアもまた、表情を固くしながらその影を見ていた。肌に感じるのは、あれが『良くないもの』だという事。

 影は、不思議な響きを帯びた声でおもむろにマデリンへと語り掛ける。


「マデリンよ。対価をもらいにきたぞ」

「ま、魔女……!」


 鷹揚な声音で告げられた言葉に、マデリンは慄きながら言う。

 それを聞いたアナスタシアは、驚愕に目を見張った。

 マデリンは今相手を『魔女』と呼んだ。

 世界に置いて、そう呼ばれる存在は、今はただ一人である。

 かつてはそう呼ばれる人間は複数あったらしいが、いつの間にかとある強い滅びの力を持つ女をこそ人々はそう呼ぶようになった。 

 呪われた魔力を以て世界を害そうとしたが当時の聖女に倒され、消え去ったはずのもの。

 正しい名は歴史の中に忘れられ、ただ『魔女』とだけ呼ばれる存在となったもの。

 いつしか、忌むべき存在の代名詞として扱われるようになったもの。

 この冷たい感覚を生じさせる禍々しさを帯びた影こそが、伝説の中にのみ名を呼ばれる存在なのだろうか。

 まさか、と心の中で呟く。

 確かに目の前にいる者は『良くないもの』だと思うけれど、魔女という存在はほぼおとぎ話のようなものだったはずだ。

 アナスタシアが内なる疑念に思考している間にも、マデリンと『魔女』のやり取りは続いている。


「どうやら、指定したものは間に合わなそうだ。約束通り、代わりの対価を渡すがよい」


 事の成り行きを強張った顔で見ていたアナスタシアとシュタールが、同時に息を飲んだ。

 どういう事だと問う気持ちと、事実を知るのが怖いという気持ちが鬩ぎ合い、何か言葉と思っても声を出せない。

 蒼褪め、険しい面持ちのアナスタシアは、魔女が自分達へと視線を巡らせたのを察した。


「このなりになって、どれほどたったか。わらわは気ままに各地を彷徨っておった」


 自分の事であるのに、まるで他人事のように語る魔女を言葉なく見据えるアナスタシア。

 『魔女』の言い伝えが語られ続けて幾星霜。それだけの長い間、滅びる事なく魔女は世界に存在し続けたのか。

 背筋に冷たい汗が伝うのが止められない。まさかと笑いたいけれど、嘘だと言い切れない何かを確かに感じる。


「強い負の心に引寄せられて赴いてみれば、このマデリンが居た。事の次第を聞いて、わらわはこの娘とある取引をする事にした」


 身体を失い長きに渡り形なきものとして彷徨って各地を巡り、辿り着いた先に居た大きな負の感情を持つもの。

 気が向いて出向いた先に居た、姉への憎悪を滾らせる少女。これは面白い、と彷徨える女はほくそ笑んだという。

 魔女は一度マデリンへと視線を巡らせてから再びアナスタシア達に向き直る。

 マデリンは蒼く強張った表情のまま、完全に言葉を失ってしまっていた。唇を噛みしめながら握りしめた手は、見てわかるほどに震えている。

 マデリンの様子など気にした風もなく、魔女は大層愉快そうに笑った後に続けた。


「姉の持つ全てのものを奪い取り自分のものにしたい。姉を今いる場所から突き落とし、代わりに自分が幸せになりたい、とな」


 思わず、アナスタシアの表情が強ばる。

 シュタールが弾かれたように気づかわしげにアナスタシアを見たが、悲しげに僅かな笑みを返すしか出来ない。

 それを見たシュタールはアナスタシアがマデリンの意図――姉を陥れて全てを奪ったのが他でもない妹自身の願いだったと知っていた事に気付いた様子だった。

 一瞬かける言葉を失った様子だったシュタールの表情に怒りが滲む。


「気が向いた故、わらわはそれを聞いてやることにした。そして必要だというものを……魔力持つ者にこそ作用する魅了の力と幾ばくかの魔力を与えた」


 アナスタシアは今度こそ愕然とした表情で魔女を、そしてマデリンを見た。

 あまりに不思議な程に態度を変えマデリンを称賛し、アナスタシアを蔑むようになった人々。

 噂が出回るのも今にすれば首を傾げる程に早く、何もかもが不自然な程にアナスタシアを貶めるように変わっていった。

 あれは、マデリンが魔女から与えられた魅了の力を使った為だったのか。

 魔力を持つ者にこそ作用するというならば、強い魔力を有する者達――王族や貴族、支配階級にある者達ほど強く影響されるはず。

 周囲の人々の手のひらを返したような態度も、エリオットの心変わりの最後の一押しも、その力故だったのだろう。

 アナスタシアはふと、誰も異議を唱えない中で処刑に対して反対を表してくれた第一王子を思い出す。

 彼はそれまでと変わった様子は一切なかったが、周りの変化に対して戸惑っている様子すらあった。

 恐らくセオドアだけが惑わなかったのは、特異な耐性を持つ人間だったからだ。魔力が強いほど惑わされる力も、彼には通用しなかったのだろう。

 マデリンは魔力を持つ上層の人間を魅了の力にて惹きつけ、自分の味方として取り込み、姉から王国における全てを奪い、陥れた。

 ただ、それは無償ではないはずだ、と思う。

 永き時を彷徨う力ある存在が、気紛れとはいえ対価もなしにそのような話を持ちかけるはずがない。だとしたら、対価としてマデリンは何を差し出すつもりだったのか。

 そこまで考えた時、アナスタシアの脳裏には先程のマデリンの血を吐くような追い詰められた叫び声が蘇る。自分には、もう時間がない、と。

 マデリンは、本来妃には必要のない『冠』を作ろうとしていたではないか。それも、獣人達の心臓石という稀なる貴石にこだわって。

 何故、そんなものをとアナスタシアは疑問に思った。

 その答えこそが、きっと。


「わらわが対価として求めたのは、数多の獣人の心臓石にて飾られた宝冠。期限までにそれをわらわに差すように告げ、この娘はそれを受け入れた」


 アナスタシアの心の裡を読んだかのように、魔女は答えを口にした。

 シュタールの表情が強張り、彼の銀灰の鋭い眼差しは魔女とマデリンとに向けられる。

 人の形をした靄の表情は分からないが、何故だか楽しそうに笑っている気がする。

 対してマデリンは、すっかり顔色を失い、愕然としたまま唇を震わせるばかりだ。

 マデリンが心臓石の宝冠を作ろうとしていたのは、魔女との対価だったから。対価を差し出せぬ場合に、恐ろしい結末が待っていると知っていたから。

 その先を知るのが恐ろしいと思ったけれど、魔女の言葉が止まることはない。


「それが果たされぬ場合は、代わる対価を……わらわの器としてその身体を差し出すという取り決めだった」


 アナスタシアも、シュタールも、その言葉を聞いた瞬間に叫び声をあげかけた。

 形を持たず彷徨う魔女が求めるものは、新たな器。魔女は対価を差し出せぬ場合の罰として、マデリンに身体を器として差し出す事を約束させたのだ。

 心臓石の宝冠が魔女にとってどのような価値を持つかはわからないが、どちらに転んだとしても魔女に損はない。

 少しでも慎重に考えたなら、手を出さぬほうがよい取引だとわかっただろう。

 けれど、姉に対する怨念ともいえる感情に囚われていた妹は、気付けなかったのだろう。

 もうどれ程責めたとしても、取引は為されてしまっている。

 そして、妹は対価を用意出来なかった。

 魔女の影は、大仰に溜息を吐きながら、ゆるく首を傾げて見せた。


「仮にここに残りの心臓石があって、後は台座に嵌め込むだけ。……といった誤差であれば少しの罰で見過ごしてやったのだがな」

「ま、まだよ! この二人を人質にすれば、石はきっと……!」


 それぐらいの温情はある、と肩を竦める魔女に、マデリンは叫んだ。

 追い詰められた手負いの獣のような鬼気迫る……狂気すら感じる爛々とした眼差しに、アナスタシアは息を飲む。

 妹の様子と、それによる魔女の変化に。


「まだわからぬのか」


 思わず身を強ばらせてしまう程に冷たい、常冬の大地を吹いていた吹雪のような冷たい声音だった。

 打たれたようにマデリンの身体が跳ねたかとおもえば、目に見えて震えだす。

 妹もまた気付いてしまったのだろう――もう、自分に救いは残されていないのだと。


「おぬしにこの二人を質に取る事はできない。おぬしの姉は、もうおぬしを攻撃する事を躊躇わない。最強の呼び名持つ獣人王もまた、おぬし相手に手心加える事はない」


 マデリンは錆びついた金具のような様子で、アナスタシアとシュタールを見た。

 かつて魔力にて人に対して攻撃できなかった姉は、守りたいものの為に戦う事に対する躊躇いを捨てた。

 その姉を守るようにして断つ白銀の獣人王は、姉と民を守るためならばマデリンを害する事すら厭わないと分かる。

 マデリンが対価を用意する為に打てる手はない。

 魔女は、欠片の容赦もなく、その事実を告げた。


「おぬしは負けたのだよ。そなたが対価を用意する事は、もうできぬ」


 人の形をした靄の手が、ゆるやかにマデリンへと伸ばされる。

 恐怖に錯乱したマデリンは身を翻して逃げそうとしたけれど、縫い留められたように彼女の足は動かない。

 嫌だ、と叫びながら闇雲に手を動かし暴れるけれど、魔女は意にも介さない。

 アナスタシアはマデリンへと咄嗟に駆け寄ろうとした。

 けれど、アナスタシアの足もまた地面に縫い付けられたように動かす事ができず。咄嗟に見たシュタールもまた、浮かんでいる表情から察するに同様の状態のようである。

 止める事ができずに愕然と目を見開くアナスタシア達の前で、魔女はマデリンの胸の中央に触れた。


「時間切れだ、愚かな娘よ」


 魔女の宣告と同時に、その場を覆い尽くす程の暗い風が吹き荒れ、視界を奪った。

 アナスタシアは、マデリンの悲鳴を聞いた。

 身体を無理やりに追い出され、肉体と断ち切られ。

 怨嗟と後悔に焼かれながら消え去っていく、妹の魂があげる断末魔の叫びを……。




 やがて、吹いていた風は収まり、視界が徐々に戻って来る。

 襲い掛かる暴風に対して、咄嗟にアナスタシアを庇うように抱いていたシュタールが、警戒を解かずに視線を前方に向けた。

 アナスタシアも覚悟を決めて、伏せてしまっていた瞳を開いて、そちらを見た。

 その場にあったのは、先程までと変わらぬ三つの人影だった。

 いや、変わらないのは人影の『数』だけであって、完全に違ってしまっている事がある。

 その場に居るのはアナスタシアと、シュタールと、そして。



「ふむ、良き器だ。魔力を持たぬ故にわらわの魔力との反発を起こさぬ。見目も美しい」


 満足そうに頷きながら、女は呟いている。

 蜂蜜色の巻き毛も、蒼穹を写し取ったような蒼い瞳も、愛らしい顔立ちも。

 先程までと全く変わらにけれど、明確に『違う』とわかる存在がそこに居た。

 姿はマデリンではあるが、マデリンではないもの――彼女の身体を器とした『魔女』は、険しい表情で自身を見据える二人へと視線を巡らせた。


「わらわは、別にそなた達と事を構えようとは思わぬ。目的は、この通り達した」


 見た目だけは変わらないのに、醸し出す雰囲気も口調も明らかに違う。

 長い年月を経た女が宿った今、元は愛らしいと称される事が多かった美しい顔立ちが纏うのは狡猾さと妖艶さだった。

 わらわは無駄な事が嫌い、という溜息交じりの言葉からは、アナスタシア達と戦う意思は持たないとわかるのだが。

 魂を掴む恐ろしさを感じさせる美しい魔女は、未だ強張った表情のまま警戒を解かないアナスタシア達を見て苦笑を浮かべる。


「聖女と関わりを持つ事は、魔女にとっては縁起が悪い故な」


 言い伝えが確かであるならば、魔女は当時の聖女に倒されて本来の身体を失い、歴史の中に名を失った。それならば、聖女と積極的に関わりたいとは思わないだろうが。

 何故だろう、とアナスタシアは心の中にて呟いた。

 何故か、その言葉に不思議な含みがあるように感じてならないのだ。

 だが、それを確かめる術はない。

 マデリンの姿を手に入れた魔女は、優雅な物腰で身を翻すと歩みを進め始める。

 アナスタシアとシュタールは呆然としたまま、ただそれを見つめている事しかできない。


「獣人の王よ。春告げの聖女よ。そなた達ともう相まみえる事無きを願っておる」


 苦い笑みと共に紡がれた、魔女の願いとも取れる言葉。

 それが、魔女が姿を消す前に残した言葉だった。

 風に攫われるようにして魔女が姿を消すと、その場にはアナスタシアとシュタールだけが残された。

 二人はどちらからも言葉を発する事のないまま、その場に立ち尽くしていた。

 もう身体は動かせるだろう。けれど、アナスタシアは魔女が消え去った場所を見据えたまま、凍り付いたように動きを止めたままだ。

 シュタールが、アナスタシアを覗き込むようにして見つめているのを感じるけれど、アナスタシアは沈黙したままだった。

 重い静寂が騒乱の去った場所に満ちて、暫くして。


「マデリンは、愚かな選択をしました」


 沈黙を破ったのは、アナスタシアの小さな呟きだった。

 シュタールは弾かれたようにアナスタシアの表情を見て、そして表情を強ばらせる。


「それでも、妹でした」


 淡々と呟くアナスタシアの頬には、瞳から零れた雫が描いた一筋がある。

 次から次に溢れて頬を伝い、一つ、また一つと地に落ちていくけれど、アナスタシアはそれを拭う事なく妹が居た場所を見つめ続けていた。


「私にとっては、たった一人の、妹でした……」


 何かが少しでも違っていたならば。

 アナスタシアがマデリンの心に気付けていたなら。

 もっと関わっていたなら。或いは、逆に関わりを持たずに生きていたなら。

 二人が生まれた場所が公爵家でもなく、またはアルビオンでもなければ。

 自分達は、姉と妹として生きられたかもしれない。今も、そうであれたかもしれない。

 もしも、の考えは幾らでも浮かび続ける。

 でも、アナスタシアは分かっている。妹はもういないのだ、という事実だけが、けして変わることも揺らぐこともない現実なのだという事に。

 感情が伺えぬ声音で呟き続けるアナスタシアの肩は、微かに震えていて。

 シュタールは様々な感情が綯交ぜとなった表情のまま、言葉なくアナスタシアの肩を抱いていた――。



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