決意
マデリンは今もなおアインマールから心臓石を奪う事を諦めていない。
そう、言っていたではないか。アナスタシアを餌にして心臓石をもぎ取ってやると。
マデリンが、何故そこまで心臓石の冠を作る事に固執するのかについては分からない。
けれど確かなにアナスタシアの心の中にあるのは、それを許容できないという思い。
それに。
「それは、私を人質にしたって絶対に無理よ……」
アナスタシアは呻くようにして否定の言葉を告げた。
蒼い瞳を軽く見張ったマデリンを、アナスタシアは静かに見据えながら低く告げた。
マデリンの望みはアナスタシアを人質にしようが叶う事はないのだ。
「心臓石は、今はもうないの……。春を呼ぶために、使ってしまったから……」
アインマールに遺されていた心臓石は先だっての春を呼ぶための大規模な術にて使われ、皆失われてしまったのだ。
アインマール全土をくまなく探しに探せば、数個ならば見つかるかもしれない。
だが、かつてシュタールが語っていた『エリオットが要求した心臓石の数』には到底足りないはずだ。
もうマデリンの願いを叶える事はできないのだ、とアナスタシアは必死に訴えた。
けれど、それに返ってきたのは事もなげな言葉だった。
「ない、っていうなら『作らせれば』いいだけの話でしょう」
妹の言葉の意図を理解した瞬間、アナスタシアは目を見開き愕然とした。
心臓石を作らせる、とは。それは、即ち――アナスタシアを人質にとって、アインマールの民の命を奪うという事だ。
理解を拒む程に惨い言葉だったが、紛れもなくアナスタシアの目の前にある現実だ。
マデリンは自分が求める心臓石を得るために、シュタールにアナスタシアと民の命を天秤にかけさせようとしている。
妹の心が全く見えない。視えない程に深く暗いものが満ちて、隔てている。
マデリンはこのままアナスタシアを人質として、アインマールに再び、以前以上の理不尽を突きつけるつもりだ。
何という事、と心に呻く。
唇を引き結び沈黙したままのアナスタシアに対して、マデリンが何かを言おうとした様子を見せた、次の瞬間。
不意に、洞窟の中に暴れ狂う風が生じた。マデリンの動きと視界を封じるためにアナスタシアが編み上げた、目くらましである。
暴れるように吹き抜ける突風に乗じて、アナスタシアは渾身の力を込めて起き上がり。
まだ動けずにいるであろうマデリンに背を向けて駆けだした。
だが、アナスタシアがまさに洞窟の外に出ようとしていた時、異変は起きた。
再び、肌が泡立つような禍々しい感覚を覚えたかと思った次の瞬間には、アナスタシアの両足を何かが捉えたのだ。
勢いあまってその場に倒れ込んだアナスタシアは、何事が起きたのか分からぬまま足元に視線を向ける。
そして目を見張った。 アナスタシアの両足には、はっきりとした形を持たない黒い靄のようなものが巻きついていたのだ。
まるで縄のような靄の先を辿ったならば……源は、マデリンの翳した手のひらで。
魔力による戒めであると一呼吸おいてから気付いたアナスタシアは、愕然としてしまう。
「マデリン、貴方何で魔力を……!」
妹が魔術を行使したところを、当然ながらアナスタシアは一度も見た事がなかった。
マデリンは魔術を使える程の魔力を有さなかったからこそ、尚更疎まれたというのに。
仮にも聖女と呼ばれたアナスタシアを戒めるだけの力を、ごく自然に操っている。
驚愕に目を見張る姉の問いには応えず、妹は煩わしいと言う様子で大仰な溜息を吐いた。
「余計な事をしないで、大人しく寝ていて頂戴な」
その表情には、余裕のようなものすらある。
幾ら戒めの術を使える程の魔力を手に入れたとしても、アナスタシアの魔力量がどれ程のものであるか知っていれば余裕などそう容易に持てないはずなのに。
何故か。それは、アナスタシアがけして魔力にて人を攻撃しない、つまり自分を害せないと知っているからだ。
攻撃を向けようとしても、身体が強張ってしまって魔術を使えない。アナスタシアにとって、それは心の中に無意識に存在する戒めだった。
人より強い力を持ち合わせている以上、使い方を誤れば人を傷つけ、災いを齎す者となりかねない。だからこそ、アナスタシアは自らに攻撃の術を禁じていた。
アナスタシアの中にある制約を知るからこそ、マデリンはこうまで余裕のある笑みを浮かべているのだろう。
何とか身体を起こす事にだけは成功しながら、アナスタシアはマデリンを見る。
暗い戒めの魔術を使う妹は、すぐにでもアインマールの者達に要求を突きつけるつもりのようだ。
そんなことになったら。アナスタシアと引き換えに心臓石を差し出せと……民を殺せと命じられたなら。
シュタールなら多分、正しく選択をしてくれると信じている。けれど、そこに至るまで彼も、皆も、どれだけ苦悩するだろう。
もしかしたら、苦悩した果てに思いつめてしまう可能性だってある。いや、シュタールならきっと……。
アナスタシアの呆然としていた眼差しに、不意に強い意思が宿る。
それだけは、絶対に嫌だ。
自分の所為で、シュタールや皆が苦しむ。
自分が、このままここで、囚われているままならば。
させたくない。守りたい。その為には……!
アナスタシアが心の中にて苦痛に強く叫んだ瞬間――心の中にて何かが砕け、強く力を放つものが生じた。
身を翻そうとしていたマデリンが、驚いたように振り返った瞬間。
アナスタシアの展開した複雑な文様から幾筋もの閃光が迸り、マデリンに向けて襲い掛かり。勢いを殺しきれなかった光は洞窟を抜けて、外へと走り出て行く。
衝撃にて戒めは霧散し、マデリンは悲鳴をあげながら床に転がった。
荒い息をしながら立ち上がり、マデリンを見据えるアナスタシア。
一方、マデリンは倒れ伏したまま、呆然と目を見開いていた。
服のあちこちが裂けていて、そこから覗く肌には鮮血の滲む傷が生じている。
衝撃によって地面に打ちつけられ何度も転がった負荷は、命に関わるものではないが、けして浅くもない様子だった。
しかし、それ以上に精神的な衝撃の方が大きかったらしい。
恐らく何が起こったのかを理解しきれていないのだろう。
あるはずのない事が起きた――アナスタシアがマデリンに抗うために、魔力によって攻撃したのだ、と。
油断なく次なる魔術を展開できるよう維持しながら、アナスタシアは静かに口を開く。
「貴方が私のことを憎んできたのは分かった。私が貴方にしてしまった事も。だから、私に対しては何をしてきても、受け止める」
今までの自分の行いは、例え悪意が無かったとしてもマデリンを傷つけ続けた。
悪気がなくても……そのつもりがなかったとしても、許されない事は確かにあるのだ。
アナスタシアとった行動が結果として二人の今の状況を招いたと思えば、自分に非がないとはけして言えない。
しかし。
「でもシュタールを……アインマールを巻き込む事だけは許さない。手出しをするなら」
マデリンがアナスタシアを憎んでいたとしても、姉妹の確執にシュタールやアインマールという国は関係ないのだ。
彼らにこそ非は全くない。
けれど、マデリンは今彼らに理不尽を強いようとしている。
アナスタシアは一つの確かな決意を抱いてマデリンと真正面から対峙する。
「……例え殺すことになっても。貴方を止める」
マデリンは口をかすかに開いたまま、驚愕に固まったままだ。
無理もない事なのだ。
何があろうとアナスタシアが人に対して魔力による攻撃を向けた事がなかったのに。明確な抗う意思と敵意を以て、他でもない唯一人の妹を攻撃したのだから。
自分の為には怒りを抱く事すら無かった姉が、今、確かに瞳に激情を宿して妹を見据えている。その事実に、流石のマデリンも言葉を失い立ち尽くすばかりだった。
厳しい眼差しのアナスタシアが見つめる先で、マデリンは何かを言い返そうと必死に唇を振るわせ。
漸く何かを口にしかけた時、猛々しい叫び声がその場に響き渡った。
「アナスタシアっ……! 無事か……!」
「シュタール?」
地を力強く蹴りつけてくる足音が聞こえたかと思えば、その場に駆けこんできて風のようにアナスタシアが腕に捉えたのは。
アナスタシアの心に宿った強い決意の理由の一つとなった、愛する白銀の獣人王だった。
何があったのかを理解するより先にアナスタシアの元へと駆け寄り、庇うように抱いてくれたシュタール。
その腕の確かな感触と温かさに一瞬涙が滲みかけたけれど、今は、と必死に堪える。
シュタールはアナスタシアを守るように腕に抱きながら、今まで見た事のないほどに険しい眼差しを立ち尽くすマデリンに向けている。
「ここが、どうして……」
「アナスタシアを探していたところに、不思議な光が生じたから駆け付けただけだ」
嵐を思わせる激しさで駆け込んできた挙句、姉を守るように腕に攫った雪豹の獣人。
名乗らずとも相手が誰かを察したらしいマデリンは、驚愕に表情が凍り付いてしまっている。
呆然と呟くマデリンを睨めつけながら、シュタールは低く怜悧な声音でいう。
どうやら、アナスタシアの姿が見えない事に気付いたシュタールと皆は少し前から手分けして探してくれていたらしい。
アナスタシアが誰にも何も言わずに、長く戻らないはずがない。
そして、焦るシュタールの前に現れた幼い精霊が、嫌なものを感じる、とこの方向を示して訴えたという。
アナスタシアの身に何か起きたのではないかと心配したシュタールは、胸騒ぎを覚えながらも何とかアナスタシアの気配を辿り、この近くを伺っていた。
その最中に目に飛び込んできた不思議な光にアナスタシアの危機を感じて、次の瞬間には駆けだしていたという。
こういう時の俺の勘は嫌な程当たる、とアナスタシアには少しだけ苦笑いして見せたシュタールは、再び視線をマデリンに戻す。
「お前がアナスタシアの妹で……。心臓石を求めた妃とやらか」
シュタールの声音はいつもの穏やかな温かさが嘘のように冷たく険しい。
それも無理はない、とアナスタシアは思う。アインマールが窮することになった理不尽な要求、その元凶とも言える存在が目の前にいるのだから。
「何故に、そこまで心臓石を求める。それが我らにとってどんな意味を持つものか知った上で、理不尽を突きつけたのか」
「あたしには、もう時間がないのよ!」
アナスタシアを庇って立ちながら、シュタールはあくまで冷静に問う。
だが、返ったのは追い詰められたような、答えとして意味の通らぬ言葉だった。
アナスタシアは思わず目を見張り、妹を改めて見遣る。
交渉材料にするはずだった姉は、してくるはずのなかった攻撃をして抵抗し。挙句に現れた敵といえる獣人王に奪い返されてしまった。
確かにマデリンの置かれた立場は、先程までに比べれば不利になっている。
けれど、それにしても。尋常ではない程に追い詰められているように見えるのは、気のせいだろうか……。
怪訝に思うアナスタシアの眼差しの先で、マデリンは醜悪なまでに歪んだ形相で手元に魔力を呼び寄せていく。
「王も、あんたも、まとめて人質にとって石に変えてやる……!」
手負いの獣のような鬼気迫る様子で叫びながら術を展開しようとしているマデリンに、アナスタシアは抗う為の力を描こうとする。
シュタールもまた、剣を引き抜き構え。
二人がマデリンと対峙する場には張り詰めた空気と重苦しい沈黙が満ちる。
だが、不意にそれが破られる。
「まあ、それが叶うと良いがな……?」
響いたのは、アナスタシアでも、シュタールでも。
そしてマデリンでもない、その場の誰でもない『誰か』の声だった――。
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