姉と妹
アナスタシアは妹の言葉をすぐには理解出来ず呆然としてしまったが、やがて蒼褪める。
思い返せば確かに、アインマールが困窮する契機となった出来事は、エリオットによる心臓石の要求を断ったことだった。
それは、妃が……マデリンが心臓石の冠をねだったからであって。
「何で、そんなにまで心臓石を……。それに、何故『冠』なの……?」
「そんな事、あんたに関係ないでしょう?」
何故そこまで獣人の宝石にこだわるのか。
そして妃が身に着けるティアラではなく、王が頭上に頂く冠なのか。
掠れた声で漸く問いを絞り出したものの、それに返る声音は毒の棘に満ちていた。
言葉遣いもかつての穏やかさや丁寧さは消えて、すっかり荒れてしまっている。
妹は何故ここまで、と青白い顔色のアナスタシアは訝しむ。
エリオットと愛し合い結ばれ、妃となる事が叶ったというのに。あの家に居た時より幸せに暮らしていたはずなのに……。
そこまで考えて、もしかして、とアナスタシアは心の裡に呟く。
あの時……毒を盛られたせいで、お腹にいた子を失ったから? と。
エリオットと結ばれ子供を授かった事は、悲しい境遇に居たマデリンにとっては大きな救いであり、希望だっただろう。
しかし、何者かの手により失ってしまった。
傷つき苦しんだ果てに、贅沢に慰めを見出してしまったのでは。
けれど、だからといって。
アナスタシアは一度唇を噛みしめたものの、自分を奮い起こしてマデリンを見据える。
「マデリン。子供を失って、自暴自棄になっているのかもしれないけれど。でも……」
「あたしの腹に、子供なんかいなかったわよ」
震えないように必死に抑えながら紡いだ言葉にかえってきたのは、素っ気ない声音で紡がれた予想外の言葉だった。
理解が追い付かず、咄嗟に呆然とした面もちで妹を凝視してしまう。
凍り付いた表情で言葉を失ったアナスタシアを見て、マデリンは姉を見下ろしたまま鼻で笑った。
「子供が出来たなんて嘘よ。あの王太子を口説き落とす為の嘘」
絶句しているアナスタシアを見て歪んだ笑いを浮かべながら、マデリンはいう。
エリオットがアナスタシアに対して劣等感を抱いていた事には、早い段階で気付いた。
話を聞くふりをして、エリオットが望む言葉を与え、慰めながら自分に依存していくよう仕向けた。
言葉巧みに誘惑し、深い仲になる事は出来た。だが、それだけでは自分に落としきるには至らない。
姉から乗り換えさせる為の理由として、もう一つ大きなものが欲しい。
だから、マデリンはエリオットに告げたのだ――身籠りました、と。
それを聞いたエリオットは、元から働いていた力に完全に屈して、マデリンの思惑に落ちた。
マデリンはめでたく王太子の妃となる事ができたが、問題は残っている。
彼女の腹には子など居ないのだ。最初はよくても何れ嘘は露見してしまうだろう。
「だから、毒を盛られたのを装った時に流れたってことにしたの。どこかから調達してくるのも面倒だったし。あんたを貶めるのにいい口実だったし」
アナスタシアの顔色は完全に失せてしまい、唇は僅かに震えてはいるものの、一つの言葉として紡ぐ事が出来ない。
語られた内容を理解する事を、頭が拒んでいる。
彼女が追放される原因となった、あの毒殺未遂事件が……偽りの妊娠を誤魔化す為にマデリンが仕組んだ自作自演だったというのだ。
しかも、実の姉を貶めるのにいい口実だったとまで言い放った。
アナスタシアが全てを奪われ罪人に堕ち追放されたことは、全てマデリンが望んだ事であったと、すぐには受け入られなかった。
様々な言葉と考えは脳裏を忙しく駆け巡り、心の平衡は揺れに揺れ、アナスタシアから返す言葉を奪っていく。
「何故……? 何故、そうまでして私を。姉妹、なのに……」
震えて途切れそうになる声を必死に繋ぐ事が出来た言葉は、かろうじて聞き取れる程の弱弱しいものだった。
それを聞いてマデリンの表情に明確な変化が生じる。
隠す事なく表れていたアナスタシアに対する負の感情が更に増し、美しいはずの顔が浮かべるのは魔物とも思ってしまう形相である。
大仰に溜息をついて見せながら肩を竦めたマデリンは、暗い蒼の眼差しで姉を睨んだ。
「そうね、姉妹よね。……半分だけは」
「え……?」
咄嗟にアナスタシアの口から零れたのは、戸惑いの声だった。
今、マデリンは何と?
半分だけ、と。アナスタシアとマデリンは半分だけ姉妹なのだと言った?
はしばみ色の瞳に戸惑いと疑問だけを宿して自分を見るアナスタシアを見て、マデリンはこれみよがしな溜息を吐いた。
「本当におめでたいわね。気付いてなかったの? あたしの髪や瞳が公爵家の人間としては珍しいって」
嘲りを含んだ言葉に、首を左右に振って否定する余裕もなかった。
勿論、マデリンの容姿が公爵家の人間としては珍しい事には気付いては居た。だが、それを不貞と結びつける事は無かっただけだ。
確かに妹の髪と瞳の色は、両親のどちらの特徴も受け継いでいない。祖父や祖母に遡っても同様だ。
ただ、公爵家の歴史はアルビオン建国の時代まで遡る。代を重ねてきたのだから、中には金髪碧眼の人間も居ただろう。
先祖返りという事だってあるのだから、すぐさま不実の証拠とするには早計すぎると思ったのだ。
或いは、心のどこかで無意識に否定していたのかもしれない――妹が、母の不実の証であるという事実を。
「あの気位だけは異様に高い母親が、旦那の目を盗んで間男との間に作ったのがあたし」
見事な仮面夫婦だったもの、とマデリンは皮肉を交えて呟く。
確かに、父と母の間に愛を呼べる感情はなかったように思う。
父は公爵家の権勢を更に増す事しか考えておらず、母は姉妹の中で自分だけ王妃になれなかった事を不満に思うばかり。
マデリンが語る話によれば、母はとある美しい容姿を持つ使用人と深い仲となり、身籠ったが、それは公爵たる父にすぐさま露見した。
もう何年も身に覚えがないというのに、妻に子が出来たとなれば気付かぬ筈がない。
だが、父は相手の男を始末するに留めた。妻を愛していたからではない。妻を寝取られたなどという醜聞を広めたくなかっただけだ。
そのまま、母は公爵家の娘としてマデリンを生んだ。
けれど、当然ながら父は汚らわしい不義の子とマデリンを蔑み、忌々しいと突き放し。
母もまた不貞の証を体現した上、魔力を持たぬ出来損ないである娘を愛せるはずもなく。
結果として、マデリンは公爵家で虐げられて生きる事となってしまった。
「お母様がそんな事を……。でも、だからといって貴方には何の罪もないのに……!」
それではあまりにもマデリンが不憫ではないか。
マデリンは、ただ生まれてきただけだ。責を問われるのは母であり、妹ではないはずだ。
震える声で呆然と呟いた姉の言葉を耳にした瞬間、マデリンの形相が瞬時に変化する。
「その、お優しい姉貴面が嫌だったのよ!」
あまりの激しい憎悪の発露とも言える叫びに、鞭で打たれたかのようにアナスタシアの身体は跳ねた。
かつて、ここまで激しく感情を露わにした妹を見た事がない。
もう無くす色すら無いといったところまでアナスタシアの顔色は消え失せて、慄くばかりだ。
何かがマデリンの逆鱗に触れてしまった、それだけは理解出来た。だがもう全てが全て、アナスタシアの理解を越えてしまっている。
唇を震わせながら言葉を失って目を見張る姉を見て、マデリンは堰を切ったように叫び始めた。
「あんたはいつも愛され、守られ、与えられ! 常に持つ者で!」
公爵家の長女として生まれ、強い魔力と精霊を視る力を持ち、幼い頃から何れ王妃となる為に育てられてきた姉。
一族の誇りだ、希望だと持て囃す人々を見ながらマデリンは暗い思いを募らせていた。
その感情の向かう先は、自分を蔑ろにする者達ではなかった。
マデリンの憎しみが向いた先は、愛され恵まれ続けた姉だった。
「あたしがどんなに欲しくても得られないものを簡単に手に入れて! そのくせ、私はいいのってあっさり手放そうとして!」
マデリンは暮らしていくのに必要最低限なものすら、碌に与えられない事が多かった。
女の子が喜ぶ人形やドレスや、他の綺麗なものなど勿論与えられるわけもない。
アナスタシアはそんな妹が不憫で仕方なかった。例え何も言わずとも、マデリンも年相応の憧れなどがあるはずだと思って。
両親はあまりいい顔をしなかったけれど、自分が与えられた物の中から折に触れてマデリンへと譲っていたのだ。
受け取る時、マデリンは控えめな笑みを浮かべて感謝を口にしていたけれど。あの笑みの裏側には激しい感情が渦巻いていたのだと、アナスタシアは今になって漸く知ったのだ。
「気紛れに向けられるお恵みが、どれだけあたしを惨めにしてきたか分かる?」
自分は充分に恵まれているから、情けをかけてあげる。貴方は持っていないものを、持っている私が恵んであげる。
慈悲深さに酔いしれながら与えられる物を素直に喜べるか、とマデリンは吐き捨てた。
アナスタシアは言葉を失ったまま、必死に否定の意思を込めて首を左右に振る。
違う、そんな事を考えていたわけではない。
ただ、喜んで欲しくて。俯いて暗い表情をしていた妹に、少しでも笑って欲しくて。
けれどその想いは、完全に逆転して妹に受け取られてしまっていた。
蒼褪め首を振り続ける姉を見据えながら、そこでゆっくりと口の端を吊り上げた。
「だから、奪ってやろうと思ったの。あんたが持つもの、与えられたもの、全部」
マデリンの顔には激情ではなく、笑みがあった。
だが、アナスタシアは妹の顔に浮かぶ今の表情にこそ今までで一番恐れを感じる。
艶やかに咲き誇る大輪の華のように微笑むマデリンは、とてもとても、楽しそうだった。
「物語では虐げられている少女も真っすぐな性根で描かれるけど、そんなの現実に有り得るわけがないでしょう?」
虐げられ、人に踏みつけられ続けた人間が。正しく与えられる事もなく、省みられる事のなかった人間が。
歪んでいかないはずがない。傷を起点に年輪が歪むように、変じていく。
そんな環境でも清く正しく美しく育つなど、物語の中で沢山だと妹は大仰に溜息を吐く。
大事にされてお育ちになったお姉様にはお判りにならないでしょうけど、という呟きには皮肉だけが満ちていた。
「健気に耐えている少女が、ある日突然いい男に見初められて与えられて幸せに、なんて頭がお花畑すぎるわ。欲しいなら自分から奪いに行かなくちゃ」
自分に与えられないと知ったなら、与えられるのを呑気に待つのではなく自分から奪いにいけばいい。
何時かは自分も幸せになれるなんて希望を根拠なく抱くぐらいなら、自分の手で現実にしてやればいい。
望むものが世において有限であると思うならば……持っているものから奪えばいい。
そして、マデリンの前には、アナスタシアが居た。マデリンが望む物を全て持つ者であった、悪意なく自分をただただ惨めな存在にする姉が。
躊躇う理由など何処にもなかった。
マデリンはそう言いながら笑みを零した。
「持たざる者に転落した後のあんたの顔! 本当に胸がすっとしたわ!」
腹を抱えて笑わんばかりの様子のマデリンを見ながら、アナスタシアは何か言葉を必死に紡ごうとしている。
けれど、唇から零れるのは掠れた呻き声だけだ。
自分が妹を惨めにさせていた事。妹が自分を憎み続けていた事。
故に今、自分達姉妹二人はこのような形でこの場にあるのだと知ってしまったからこそ、何も言えない。
これ見よがしな溜息をついて見せながら、マデリンは続けた。
「死ぬよりひどい目に遭わせてやりたくて断頭台はやめたけど、こんな面倒な事になるならさっさと殺しておけばよかったわ」
マデリンの思惑の通りにいけば、姉は殺されるより酷い目に遭わされ絶望し。獣人達は、命綱を断ってやればいずれ困窮して言う事を聞くはずだった。
そうならなかったのは、アナスタシアが生き延びていたからだ。
聖女が生きて追放された故に、その事を知ったシュタールはが春を呼ぶという最後の希望に賭けるに至り、それは成功した。
アインマールがアルビオンに泣きつくどころか、むしろアルビオンが窮地に陥る結果となってしまっている。
妹が歪んだ悪意でそこまで考えていたのか、と涙すら滲んできそうだった。
それだけは、と必死で抑えていたアナスタシアだったが、次の瞬間マデリンが言った言葉に表情を変えた。
「まあ、それでも心臓石と引き換える人質くらいには役に立ってもらわないと」
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