祭りの宵に

 広場を始めとした街のあちこちには、アインマールの民が得意とする工芸を活かした飾り物が配置され、皆の目を愉しませた。

 人々は広場中央に据えられた炎を囲んで集まりながら、それぞれの家で秘蔵していたとっておきの酒を出しては飲み交わし。手料理を褒め合い、相好を崩して舌つづみを打つ。

 やがて興が乗った歌自慢のものが歌い始めると、それに合わせるように手を打ち鳴らし。或いは踊る者達も現れた。

 他国の祭りとは比べるべくもない規模であるけれど。人々は、飲み、食べ、そして歌い踊ることによって確かに心の結びつきが強まるのを感じていた。

 初めての催しを通して、皆の顔に浮かぶ笑みは眩しい程に幸せと喜びに輝いていた。

 アナスタシアはシュタールの隣にて、皆が笑いながら祭りを愉しむ様を見ていた。

 こんな時でも甲斐甲斐しく世話を焼こうとするフロイデに、貴方もちゃんと愉しんで、と苦笑して伝える。

 最初こそ遠慮していたフロイデだったが、シュタールやロイエにも口を添えられると苦笑してしまっていた。

 感謝をしながら一言残すと、侍女は親族や友人達の元に駆けていく。

 それを見送って、アナスタシアもまた皆の輪にまざるべくシュタールと共に歩みを進めるのだった。

 陽が落ちても盛り上がりがおさまることはなく、篝火が夜闇を押し返すように辺りを照らす中、人々は大いに浮かれ騒ぎ続けていた。

 ひといきれで火照った頬を抑えながら、アナスタシアは少し人の輪から離れた場所に腰を下ろしている。

 些かはしゃぎ過ぎてしまったかもしれない。祭りの熱にあてられて、少しぼうっとした心地がする。

 皆が幸せそうに笑い合う姿を見られて、苦しい程に胸がいっぱいで。笑顔の理由の一つになれたのかと思えば、尚の事胸には温かなものが途切れる事無く溢れていく。

 罪人として全てから捨てられた自分を、受け入れてくれたアインマールの人々。

 最初から受け入れられたわけではなく、道のりはけして平坦なものではなかった。

 けれど、傷ついても苦しくても。必死に力の限り歩み続け、今いつか見た夢の形に在る。

 自分が、自分の出来る事で誰かの役に立てた事が嬉しくて。そして、初めて愛しいと思えた男性の願いを叶える事が出来た事がとても幸せで。

 そう心に呟いて、ふと気付いた。

 シュタールの姿が先程から見えない気がする。少し外す、と言ってアナスタシアの隣から消えていったものの、それ以来戻っていない。

 浮かれる皆にあちこちで呼び止められているのだろう、とも思うけれど。それにしては少し長いような気がする。

 何故か妙に心騒めいてしまって、浮かれる人々から離れるようにしてシュタールを探して歩き始めた。

 もしかしたら自分と同じように熱を冷ます為に一人で居るのかもしれない。

 そう思いながら探し始めて少しして、アナスタシアは街の外れに探し人の姿を見出した。

 シュタールの姿を見つけて喜びの表情を浮かべて歩み寄ろうとしたアナスタシアだったが、その足が凍りついたように止まる。

 一人佇む獣人王の横顔が、今まで見た事もない程に切なく複雑なものだったからだ。


「ようやく、貴方が望んだ春が本当にこの地に来た……」


 シュタールは何かを月に掲げるように手にしながら、大切な誰かに囁くように紡ぐ。

 彼が手にしているのは、何か夜風を受けて揺れる薄い布地のように見える。

 あれは、とアナスタシアは目を見張る。

 シュタールが手にしているのは、アインマールの女達に教えてもらったこの地の花嫁衣裳の一部……花嫁の頭飾りだ。

 この国では、他国のように絹地を用意することも、飾りに宝石を用いる事も出来ない。

 だから、女性達はそれぞれに嫁ぐ際に頭を飾る布に精一杯良い糸で刺繍を施す。

 いつか嫁ぐ日を心待ちにしながら、幸せな夫婦となれますようにと祈る気持ちを込めて。これからの生を共に過ごしたい相手を想いながら、針を進めるのだという。

 それを、男性であるシュタールが何故。

 悲痛なまでに切ない眼差しを手にした頭飾りに向けているシュタールは、声をかける事を躊躇わせる何かがある。

 まさか、シュタールには、とアナスタシアは心に呟いた。

 頭飾りを縫って彼との婚礼を待ち続けるような女性が居た……? 

 あの飾り布がシュタールの手にあること、彼の様子からして、その女性は既にこの世の者ではないのかもしれない。

 ああ、と呻き声をあげそうになるのを必死で堪えた。

 シュタールがあんなに一生懸命にこの地に春を呼ぶ事を望んだのは、その人の為で。あんなに切ない表情をするほどに、シュタールは今でもその人を。

 そう思った瞬間、アナスタシアは弾かれたように身を翻して駆けだしていた。

 駆けて、駆け続けて。篝火の途切れた街はずれまで、気が付けば走ってしまっていた。

 足の力が抜けて、その場に座り込んでしまう。

 シュタールは王であり、王の立場にある者として伴侶と認められた女性が居てもおかしくはないではないか。

 なのに何故こんなに胸が痛むのか。自分は、苦しいと思ってしまっているのか。

 勘違いしていたから、とアナスタシアは苦く呟く。

 シュタールと、少しでも思いが通じていたと……シュタールもアナスタシアが彼を思う心と同じ物を向けてくれていたのではないかと、思ってしまっていたから。

 言葉にして告げられたわけではないのに、そう思って浮かれてしまっていたから、現実を突きつけられて痛みを感じているのだ。

 自分を苦々しく思いながら、顔を歪めて深い息を吐いた。

 情けなくて、恥ずかしくて。その場に突っ伏してしまいたくなる程だった。

 だが、何度も溜息を吐き続けた後に思い至る。

 言葉にされなければ、結局きちんとした事が分からない。真実を確かめることも、心に決着をつけられず、引くも進むもできないのだ。

 このままモヤモヤとした気持ちを抱え続けるぐらいなら、本人に確かめたい。そう思ったアナスタシアは、意を決したように頷くと元来た方へ踵を返した。

 否、返そうとした。

 一瞬にして全身の肌が泡立つ程の禍々しい何かを感じて、身体が強ばる。

 何かがそこにいる、と思って確かめようと振り返りかけた次の瞬間。

 全身に強い衝撃を受けて、アナスタシアの意識は途切れ、闇に消えた――。



 次にアナスタシアが目を覚ました時、彼女は見知らぬ場所にいた。

 頬に冷たく固い感触を覚えながら重い瞼を緩やかに開いたなら、そこは岩に囲まれた空間だった。

 少しずつ周囲の様子が分かっていくにつれて、居る場所がそう大きくは無いものの洞窟なのだと気付く。

 アナスタシアは、岩の床に転がされるようにして倒れていたのだ。

 雪に閉ざされていた頃には分からなかったが、アインマールの周辺には切り立った崖が幾つかあり、その中には洞窟を有する物もあると徐々に判明しつつあった。

 多分、その中の一つなのだろうとは思う。

 だが、何故自分がここに居るのかが意識がはっきりとした後も分からない。

 記憶に残っている限りでは、自分は『何か』を感じて振り返ろうとした。

 その次の瞬間、激しい衝撃を受けて意識を失ったのだ。

 徐々に何があったのかを思い出していくけれど、肝心の『何故』が分からない。

 どうして自分はこんなところで目覚めるような事になったのか。

 その答えは、アナスタシアの耳に響いた声が手がかりとなった。


「目が覚めたようね」


 自分以外の誰かがその場に居る事で、アナスタシアの表情は一気に強張った。

 一体誰が、と声のした方に険しい視線を向けようとしたアナスタシアは凍り付いたように動きを止めて、目を見張った。

 とても、聞き覚えのある声だったからだ。

 かつて実家で耳にしていて、あの日王宮で聞いたのが最後だった。

 おそるおそる揺れる眼差しをそちらに向けると、視界の端に煌めきが過ぎる。

 揺れる明かりを弾いて輝く金色の巻き毛は、確かにアナスタシアにとって見覚えがあったもので……。


「マデリン……?」


 倒れていたアナスタシアを冷たい眼差しで見下ろしているのは、他でもないアナスタシアの妹であるマデリンだった。

 あの日、血を吐いている姿が最後となって別れる事になってしまった妹だ。

 愛らしい面立ちを歪め、眦を吊り上げて。血の繋がった相手であるはずの姉を、まるで仇か何かのように憎悪を込めた形相で見つめている。

 鬼気迫るその様子に、何故と問いかけたのが止まってしまう。

 王宮に居る筈の王太子の妃であるマデリンが何故ここに……彼らが蛮族と蔑む獣人達の国に。それも、人も立ち入らぬような場所に。

 姉の問うような視線を受けて、マデリンは更なる憎しみに耐えかねたように舌打ちした。


「蛮族がちゃちなお祭りもどきで、随分と楽しんでいるようだこと」


 口元を歪めながらいう妹の口調は随分と乱暴で、アナスタシアは思わず妹を凝視する。

 かつて会話する時には、どこか控えめで自信なさげに話していたマデリン。

 エリオットの妃になる事が決まってからは明るい様子であったが、それでも穏やかで大人しい口調だったはず。

 それが、まるで別人のように態度も口調も荒々しく棘に満ちている。

 これは本当に自分の妹だろうか、と目を見張ってしまっている姉を見下ろしながら、妹は怒りと憎しみを込めて言い放った。


「あのけだものの王はあんたに大層ご執心らしいから。あんたを餌に心臓石をもぎ取ってやる……!」

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