幕間・穏やかな雪解けの

 常冬の地と呼ばれていたアインマールに、再び『春』が巡りきてから半月ほどたって。

 始めのうちはまだ、本当に冬は終わったのかと信じきれずに居た人々だったが。

 穏やかで温もりを感じる風が吹き、柔らかな日差しが照らす日々が続くうちに。

 驚くほど速やかに大地を覆う白が減り、代わりに土の色が表れるのを目にするうちに。

 自分達が今、本当に春という季節の中にあるのだという事を実感できるようになった。

 本来は雪が消えるのはもう少し緩やかであるはずなのだが、アナスタシアが聞いた精霊の声によれば『今までの分のお詫び』とのことである。

 子供達は空が青いとはしゃぎながら、表れた土の上を転げまわり泥だらけとなり。

 親達は優しく笑って子供達を叱りながらも、初めて迎えた春に必要な物を考えて頭を悩ませたりしていた。

 今はまだ厚く大地を覆っている雪が溶け切っていないが、何れは大地が完全に表れる。

 そうすれば作物を育てる事も叶うだろう。

 だが、肝心の種苗や肥料といったものが何も無い。どうしたものか、と各地を見て回りながら、シュタールは皆と話し合いを続けているようだ。

 その一方で、アナスタシアはというと……まだ自室の寝床の上だった。

 春告げの術を行った後、自力で立つ事すらできない状態だったアナスタシアはそのまま意識を失い、シュタールに抱えられて自室へと連れ帰られたらしい。

 かつてアインマールに連れて来られた時とは違って、優しく横抱きにされて。

 暫くは力を使い果たした反動があまりに大きすぎて、手を動かす事すら辛く、床から起き上がる事すらままならなかった。

 けれど、それも少し前までの話である。

 魔力は緩やかに元に戻りつつあるし、身体だって床から起き上がる事も可能なぐらい元気になりつつあるというのに。


 シュタールが、頑としてまだ休むように、と言うのである。

 聞いた話によると、意識を失ってから数日の間、アナスタシアは死んだように眠りについていたという。

 魔力の使い過ぎの為であり、休めば回復すると分かっていても、シュタールは出来る限りの時間をアナスタシアの傍らで過ごそうとしていたらしい。

 アナスタシアが目を覚ます時を、今か、今かと傍で待ち続けていたシュタールは、アナスタシアが目覚めた時には感極まった様子で強く抱きしめた。

 フロイデに叱られても、シュタールは暫くの間アナスタシアを離そうとはしなかった。

 心配させてしまったという自覚はあるが、自分としては想定したいた事だった。

 こうして順調に回復しているのだから、少しぐらいは動きたい。

 皆が忙しくしているのだから何か手伝いをしたい、と思うのに……。

 その時風を感じて、アナスタシアは、小さく溜息をつきながら空気の入れ替えの為に開かれた窓を見遣る。

 窓を開いておくなど、それまでのアインマールでは考えられない光景だった。

 差し込む陽射しは穏やかな眩さを湛え、そよ風を受けて揺らめいているのはアナスタシアが手慰みに縫い上げたカーテンだった。

 その時、シュタールがアナスタシアの様子を見にやってきた。

 話し合う事も多く忙しいだろうに、時間を見つけてはこうして訪れるのだ。

 調度アナスタシアが床から離れて起きだそうとしていたところで、しまった、と心の中で呻いた時には遅く。

 慌てたシュタールによって、アナスタシアはすぐさま床に戻されてしまった。

 流石に過保護すぎやしないか、と若干渋い顔になってしまう。


「もう大丈夫なのに」

「駄目だ。あれだけの無理をしたのだから。もう少し休んでいてくれ」


 このやり取りも、もう何度目になることか。

 憮然とした面もちになってしまっていたアナスタシアの頬に、温かな感触が生じる。

 包み込むようにアナスタシアの頬に手を添えながら、シュタールは心配そうに眉を寄せている。悲しそうであり、そんな顔をしているとどこか子供のようにも見えてしまう。

 ずるい、とアナスタシアは心の中で呟く。

 そんな顔をされたら、何も言えなくなってしまうではないか。

 大丈夫だと主張を通したいのに、本当に心配してくれている事が伝わってくるから、結局大人しくしてしまうのだ。

 それに、こんな風に触れられる事にも随分慣れてしまった気がする。

 温かな手の熱を感じるのが、嬉しいとも……。

 シュタールへの想いを自覚してはいる。でも、そう想っているのは自分だけなのではないかという不安がある。

 優しくしてくれている。大切にしてくれている。それは疑いようがない。でも、シュタールは受け入れた者に対しては等しく優しい人だから、とも思ってしまうのだ。

 シュタールの手に、気が付いた時にはアナスタシアの手が自然に添えられていた。

 二人の間に言葉はない。ただ、お互いを静かに見つめているだけ。

 それぞれの眼差しには、少しずつそれまでとは違う光が宿り始めている。

 けれど、二人はただ言葉なく見つめ合うばかりだった。



 その頃、アナスタシアの部屋の外には二つの人影がある。


「……見ていて歯がゆいのですが」

「野暮は止めておきましょう。ご本人達の問題です」


 溜息交じりにいうフロイデに、苦笑しながら応えるのはロイエだった。

 日頃はシュタールが不用意にアナスタシアに触れる事を叱るフロイデも、最近はさすがに二人の様子に焦れている。

 実は、これに関してはアインマールの民達も同意見なのだ。

 見ていてわかるほどに、アナスタシアとシュタールの心は明らかなのに、当の本人達が一番気付いていない。

 それぞれが、相手を想っているのが見てわかる程に明らかなのに。

 自分の中に燻る様々な不安故に、素直に伝える事が出来ずにいる。

 フロイデは再び小さく溜息を吐く。

 それを見たロイエは、少しだけ笑いながら侍女を宥めた。


「来るはずのない春を迎えて、この大地は漸く先へ進むのです。……焦る必要はないと思いませんか?」


 雪解けが緩やかに進みつつあるように、あの二人もまた緩やかな時を経て、何れ寄り添う日が来るだろう。

 王の側近の穏やかな言葉を聞いて、聖女の侍女は苦笑し一度深く頷いて見せたのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る