訪れしもの

 翌日、王の名において正式に、春告げの計画がアインマール全ての人々に知らされた。

 同時に、試みの為に心臓石を提供して欲しいという旨も。

 王都、そして全ての集落に齎された報せに驚きの声をあげた人々は多かった。

 無論の事、戸惑いと恐れを口にする者も多数あった。

 けれど最後には、皆視線を交わして頷き合い、家族が残した輝きを差し出す事を決めた。


 アナスタシアは心臓石が集まり行く中、入念に準備を進めた。

 王の招集に応じた獣人の中でも魔力持つ一族に必要な知識と技術を教え込み、補佐する為の術具を作り、授け。

 どう動いて欲しいのかを伝え、それぞれの適性を最大に活かせるような配置を考案する。

 アナスタシアは歩みを止める事なく、準備のために奔走し続けていた。

 アナスタシアと、彼女に教えと術を授けられた魔力を有する者達は、各地を繋ぐように進みながら大地を巡る回路を癒していく。

 未だ吹雪に閉ざされた白の荒野を進む事は厳しく険しいものだった。

 けれど、アナスタシアの中には吹く冷たい風にも負けない炎が宿っている。

 進むアナスタシアの隣には、白銀の王の姿があった。

 見つめ、微笑んだならば。確かな眼差しを向けながら、微笑み返してくれる。それだけで、アナスタシアの中には進み続ける力が満ちていくのだ。

 アナスタシアは、アインマールで調達できない魔術的な資材について遠慮せず従兄を頼ることにした。

 かつては色々と考えてしまい躊躇っていただろうが、アインマールの為と思えば少しの迷いもない。

 サイサリスに事の次第を伝える手紙を送ると、皇帝はただちにアナスタシアが必要とする資料と資材をアインマールに届けてくれた。

 対価として、成功したら新しい試みである術式に関してまとめたものを資料として帝国の研究所に欲しい、ということだった。

 アルビオンの謎の取引相手からも、多くの資材が寄せられた。

 その人物は、成功した暁には是非とも一連の出来事を題材とする権利を得たい、と手紙にて告げていた。

 アナスタシアは相手の素性について立てた仮説を確かにしたが、それを口にすることはなかった。

 アインマールの人々は心臓石を提供するばかりか、少しでも計画が恙無く進むように、と各自の出来得る限りの事をした。

 奔走する者達の為に食事を用意し、休める場所や寝床を提供し。必要な物品が生じたなら、直ちに持ち寄って。

 試みに携わる者達が最善の状態で挑めるように、様々な事に心を配り続けてくれたのだ。

 アインマールの国は一つの目的の為に、白の大地に生きて来た者達の悲願である春を現実のものとする為に。

 老いも若きも、男も女も。

 途方もない試みである事を知っても。

 皆、一人の聖女の見出した希望を信じ、力を尽くし続けたのだった。

 人々の想いが集い、巡り、一つとなり。

 準備は着実に進められ、整い。やがて時は満ちて、その日はやってきた。



 幾重にも術式を重ね地に魔術の陣を展開した、魔力の起点であり終点となる地において。

 アナスタシアは強張った表情のまま、大きく息を吸い、吐く事を繰り返していた。

 大丈夫だ、と自分に何度も言い聞かせる。

 以前研究していた全ての知識を総動員した。

 アインマールの地に存在していた資料も、サイサリスから齎された帝国の資料も、くまなく目を通して。持てる限りのものと調べ得る限りの知識と技術を集め、完璧と思える程の術式を練り上げた。

 大地を巡る回路は、皆の尽力にて修復出来た事を何度も確かめた。

 そして、目の前には零れんばかりに山を為す眩い煌めきがあった。

 民が持ち寄ってくれた、皆の家族が遺した形見。

 アインマールの王墓に遺されていた、歴代の王の形見。

 この大地に生きてきた人々が遺した想いは響き合い、力の源となるのに充分な量がある。

 自分自身も数日間身を慎み休め、内なる魔力を最大限に高めるよう勤めてきた。

 今、アナスタシアに宿る魔力は最大のものといっていい。

 これならば、想定している通りの作用を……アインマールの地に再び魔力が巡るようにし、大地を活性化できるはずだ。

 けれど、どれだけ打ち消しても、打ち消しても。

 もし失敗してしまったら、という恐れがこの期に及んで湧き上がってきているのだ。

 皆が持てる全てを以て、出来る限りを尽くして協力して歩んできた道の最後を担うのはアナスタシアだ。

 自分がもし失敗してしまえば、皆の賭けてきた全てが無駄になってしまう。多くの人々が必死に積み重ねてきた全てを、この手で無に帰すことになってしまう……。

 浮かんでは打ち消し、打ち消しては浮かび。

 震えがとまらない両手を握りしめようとした時、不意に温かさを感じて目を瞬いた。


「大丈夫だ」


 他の采配を済ませてきたシュタールが、いつの間にかアナスタシアの傍にきていた。

 添えられた温かな手を感じた瞬間、アナスタシアは自らの内に浮き上がり続けた恐れが静かに消えていくのを感じた。


「俺は、アナスタシアを信じている」


 シュタールが発したのは、短い、ただ簡素な言葉だった。でも、アナスタシアにとっては何よりも雄弁な言葉であり、確かに感じるシュタールの心だ。

 獣人の王は、眼差しで、手の温かさで伝えてくれる。一人で背負えとはけして言わない。暗きも明るきも、自分も共に背負うのだと。

 震えが落ち着いたなら周囲を見回す余裕が生じた。

 フロイデやロイエが。その場に居て最後まで万全の準備をと尽くしてくれていた皆が、アナスタシアを見つめている。

 眼差しに恐れはない。あるのは、確かな信頼だけだ。


 ――今なら、出来る。


 アナスタシアは一つ頷くと、その場に居る全ての人々に試みの開始を高らかに告げる。

 魔力を行使できる者達が下地といえる力を展開した後、アナスタシアが集中し始めると空中を光の軌跡を描いて魔力が駆け巡り始める。

 それはさながら何かの生き物のように一つの意思を帯び、定められた道を奔り始めた。

 呼応するように山を為していた心臓石が仄かな光を帯びたかと思えば、やがて目を開けていられない程に眩しい光となって周囲に満ちていく。

 心臓石は、一つ、また一つと輝きながらアナスタシアが描き進める光の一部となって消えていく。

 この地に春を、と願う音にならぬ囁きを残して。

 共鳴により極限まで高められた魔力の奔流は、計画通りの道筋を描き大地を巡っていく。

 その場からは肉眼では見ることが叶わない故に獣人達は固唾を飲んで見守るしかできないが、アナスタシアには『視えた』。

 不思議な輝きを帯びた魔力の流れが、綿密に計算した通りの軌跡を描きながらアインマールの大地を進んでいく様子が。

 アナスタシアは集中が途切れぬようにと張り詰めながら、ただひたすらに祈り続けた。


 どうかこの時に集った願人々の願いが、祈りが届いて欲しい。

 皆の心、残された心が、大地を巡り巡って辿り着いて欲しい。

 微笑みが満ちる春へと。

 多くに人々が夢見た、緑満ちる大地へと――。


 アナスタシアの『瞳』が見据える先にて、魔力の流れは無事第一の地点を通過した。

 しかし、想定していた以上にアナスタシアへの負荷が高い。

 要を通過した際に軌跡を伝ってきた衝撃に足元が揺らぎそうになり、焦りが生じる。

 だが。


「支えてやることしかできなくてすまない」

「充分すぎるぐらいです……!」


 揺らぎかけた身体を支えてくれたのは、すっかりアナスタシアにとっては大切な日常の一つとなった力強い腕だった。

 アナスタシアの肩を逞しい腕でしっかりと支えながら、シュタールは苦笑いしながら詫びるけれど。

 胸に満ちる熱く幸せな心を感じながら、アナスタシアは頭を左右に振る。

 裡に宿り、時として苦しく感じ、けれど強く自分を動かすその思いの正体を漸く気付いた気がする。


 支えてくれる温もりに、アナスタシアは確かに感じた――自分の裡にある、シュタールを愛しいと思う心を。


 あの日出会ったこの獣人王が、何時しか自分にとってどれ程に大きく、力強い存在になっていたのかを。

 シュタールに支えられ揺るぎなく立ちながら、アナスタシアは術を展開し続けた。

 巡り続ける魔力の流れは、第一の要に続いて第二の要にさしかかる。

 今度は覚悟していた事もあり。

 また、支えてくれる手がある事から反動は左程受けずに済んだ。

 密かに安堵の息を裡に零したアナスタシアの耳に、何かが聞こえてくる。

 その場に集った人々が。そして、ここではない場所で試みを見守る人々が。

 祈るようにアナスタシアの名を呼ぶ声が。

 子供達が、励ますように叫ぶ声が。

 声はアナスタシアの背を押し、少しずつ擦り減り力が消えていきそうな身体に新たな力を与えてくれる。

 流れゆく魔力の奔流は、威力も速度も衰えることなく無事第二の要を通過した。

 残るは、この始まりの点に至るまでの道のみ。

 攫われ、意に反して踏み入れる事になった国だった。失い、打ちひしがれて辿り着いた場所だった。

 けれど、アインマールにて。アナスタシアはとても多くのものと出会い、手に入れた。

 全てがこの場所に……愛しい人と、愛すべき人々と出会うためにあったのだとしたら。

 奪われた事、失った事。辿り着くためにあった全てのものに感謝すらしたいと思う。

 もう、アナスタシアは自分に何もないとは絶対に思わない。こんなに確かなものが、溢れるほどに自分の世界にあるのだから――。

 アナスタシアの瞳から、透明な雫が一つ頬を伝い零れた時。

 巡り巡った魔力が、始まりにして終わりの点において完全な円環を描いた。

 それは、試みが正しくあるべき形に収まった瞬間だった。


 過去にアインマールの大地に生きた人々の想いを受けて。

 現在をアインマールの大地に生きる人々の願いを受けて。

 聖女が紡ぎ続けた夢のかたちが、皆の目の前で少しずつ緩やかに現となっていく。


 土地の隅々までいきわたり大地を巡った魔力の奔流が、あちこちから何かに呼応するように天へと吹き上がる。

 その空に向かう奔流が厚い雲に覆われた灰色の空に、一つ、また一つと穴を穿っていく。

 皆が呆然と事態を見守っている中、ふと空を白く覆っていた吹雪が途切れた。

 何が起きたのか、と誰から呟いたのが聞こえた次の瞬間、呟きは驚きの声へと転じる。

 物語や言い伝えのみでしか知らなかった、人々が本当の意味で知り得なかったものが、そこにあるのだ。

 太陽だ、と人々は呆然と見上げながら口々に呟いた。

 雲に穿たれた穴から眩いばかりの陽光が幾筋もさしこみ、大地を照らしている。

 人々が、アナスタシアが、シュタールが眩しさに目を細めていた時だった。

 不意に、陽光が凝るように集約し始めて、アナスタシアは目を見張る。

 何が起きようとしているのかと恐れを抱きかけたアナスタシアの前で、光は形を変え。

 やがて、一人の少女の姿を形作る。

 呆然と見つめていたアナスタシアの口から小さな声で「せいれい……」という言葉が零れると、シュタールは愕然としている様子だった。

 はかつてアインマールの大地を守り豊穣を呼び、失われた事により終わる事なき冬の原因となったもの。

 それが目の前に現れた小さな少女だというのか、と銀灰の瞳は言葉に依らずとも呟いていた。

 皆もまた揺れる眼差しで、問うように少女を見つめていた。

 戸惑うと同時に不思議な慕わしさを感じていた皆は、次第に理解する。

 この少女が、魔力が巡った事により、多くの人々の祈りを受けて大地が新たに形作り生み出したものだと。

 未だ幼くか弱いけれども、確かにアインマールの大地を司る新たな精霊である事を。

 小さく幼い精霊は、人々に向かって微笑みかけた。

 その微笑みに合わせるように、ふわりと穏やかな風が吹き抜ける。

 起きている事が未だ現実と信じきれずに目を見張り続ける人々の頬を、風が撫でた。

 未だかつて感じたことのない優しい風は、柔らかな匂いと温もりを帯びていた。


 アインマールの民たちは、気付いた。

 今大地を満たすものこそが、彼らが夢見ていた『春』というのだと――。


 アナスタシアは思い描いていた形が現実のものとなった事を理解した瞬間、その場に崩れ落ちかけた。

 慌ててシュタールが抱き留めてくれた為に倒れる事はなかったが、もう自らの力で立っている事は出来ない。

 身体に力が入らない。アナスタシアの身体の魔力はすっかり空となってしまっている。元に戻るまでは長い時間を要するだろう。

 けれど、そんなことはどうでも良かった。

 自分は、やり遂げる事ができたのだ。皆の長年の願いを叶え、アインマールの大地に春を呼べたのだ。

 愛しいシュタールの目に滲む涙と、空に輝く太陽にも負けぬ笑顔がここにある事。

 自分を抱き留めてくれる腕の確かな温かさ。

 それだけが、今のアナスタシアにとっての全てだった。

 人々は、漸く盛大な歓声をあげた。

 アナスタシアの名を讃え、シュタールの名を讃え。そしてアインマールの名を讃えるように叫んだ。

 涙しながら喜びあう人々を、生まれたばかりの精霊は嬉しそうに見つめていた――。



 その頃、アルビオンの王都は混乱の極みにあった。

 『白の荒野』における新しき精霊の誕生は、古きの終わりをも意味していたのだった。

 精霊が心臓石を遺す理由は、新しい精霊が生じるまでの繋ぎの為。

 魔力回路の中枢にあったかつての精霊の心臓石は、新しい精霊の誕生を以て役目を果たし漸く眠りにつく事が許された。

 動力源であり要であったものが機能を停止した為に、魔力を巡らせる回路そのものが停止してしまったのだ。

 都市機能が突然麻痺してしまった形であり、戸惑う人々は王宮へ救いを求めて殺到した。

 だが、事態を把握しきれず、自身でも何が起きたのか理解できぬ王太子はそれらを全て蹴散らすよう指示してしまう。

 多数の負傷者を出した事件は、王都の民の中に暗く燻る思いが生じる原因となったのである……。

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