想いを託す
アルビオンの王城は、近頃穏やかとはほど遠い空気に包まれていた。
まず、病に臥せっていた国王の容態が日に日に悪化しつつあり、民は何れ来るだろう時に表情を曇らせる。
王には、側室との間に生まれた第一王子だけではなく、王妃の子であり跡継ぎたる王太子が居る。
王太子は既に成人しており、妻もいる。いずれ子も望めるだろう。けれども、今やその王太子こそが人々の最大の憂いとなりつつあるのだ。
以前は……かつて聖女と婚約していた頃の王太子は、際立った才覚を持つとはされなかったものの、まず次期国王として申し分ない人物だった。
時折短慮な言動が見受けられかけても、婚約者が取りなし事なきを得る。
幼い頃は、時折王子には酷く残虐な面がある、王家の人間として大丈夫であろうか……と声を潜めて不安視する者も居た。
しかし時が経つにつれ、それは気のせいであろう、とされるようになっていたのだ。
再び懸念の声が水面下に生じるようになったきっかけは、聖女の追放だった。
聖女アナスタシアが、自身に代わり王太子妃となった妹マデリンに嫉妬し毒殺しようとしたという。
王太子は裁判を行う事もせず、聖女から称号を取り上げ罪人として断じようとした。
王太子に近い高位の貴族を始めとして、あまりにあっさりと手のひらを返しマデリンを支持する者達も多かったが、全ての人間がそうだったわけではない。
貴族や官吏の中には、碌な調査も裁きもなかった事に疑問を口にする者もいた。実際に意見を上奏した者達も居た。
だがエリオットは、自身に諫言した人間を次々に断頭台へと送った。自分と妃に対する侮辱の罪だとして、一切の声に耳を傾けることなく。
時折、殊更苦痛が長引く残虐な刑罰を顔色一つ変えることなく命じる事さえある。
少し頼りないものの穏やかな王太子の姿は、もうそこにはない。
人々は王太子の耳に入らぬようにと怯えながら、今の妃をお迎えになるあたりから殿下は変わられた、と声を潜めて囁きあった……。
その日もまた、エリオットに苦言を呈した者が断頭台へと送るよう命じられる。
悲痛な叫び声をあげながら引きずられていく人間を見るエリオットの瞳は、あまりに冷ややかで暗く。
「僕は悪くない。皆が、僕を陥れようとするから……」
呟くエリオットの口元には、我知らずのうちに歪んだ笑みが浮かんでいた。
不穏であるのは、王太子だけではない。
その妃である王太子妃の近辺もまた、緊迫した空気に満ちていた。
侍女達は常に蒼褪めたまま、少しでも妃の勘気を被らないようにと怯えている。
王太子妃マデリンは、人々が工房と呼ぶ……王太子妃が特別に職人を集めた部屋にて苛立たしげ顔を歪めていた。
彼女の目の前には、目も眩むような輝きを讃えた美しい冠がある。
ただし、それは未完成だった。
鎖で足を繋がれた熟練の職人達が昼夜問わず作業を進め、作り上げた繊細にして華麗な細工は見る者の呼吸を奪う程に素晴らしい。
だが、花を意匠とした台座に留められ輝く宝石は半数程。残りの半数は、未だ空いたままだった。
既に花として咲く石達は、魂を惹きつける不思議な輝きを放っている。
「心臓石は、まだこれしか集まっていないのに……!」
国王すら所蔵していない見事な冠を飾るのは、雪原の獣人達が死して唯一残すとされる輝石だった。通常の宝石と違い、そう頻繁に流通するわけではない稀なものだ。
心臓石を献上しろという王太子の……彼女の要求を、蛮族達の王が拒絶した後。
王太子の命令にて心臓石を所有する者達には強制的に献上させたし、流通していた物は全て買い求めさせた。
他国にも働きかけ集め、密猟者に金をばら撒くといった、後ろ暗い手とて使った。
その強引な手段や、職人たちを理不尽に拘束している事に物申した人間は、夫に頼んで断頭台へ送った。
しかし、今のままでは到底彼女が考えている宝冠を作るには足りない。
百花が絢爛を競うように咲く宝の冠を作り上げるには、今まで手を尽くして集めた以上の数を手に入れなければならないのだ。
それができなければ、彼女は。
マデリンは、愛らしいと称される顔を更に苛立ちに歪め、やや蒼褪めながら近くにあった花瓶を叩き落した。
響き渡る甲高い音に、侍女達は顔色を失くして震えあがる。
マデリンは、更に苛立ちを露わにして爪を噛む。
命綱である物流を断ってやったというのに、獣人達が泣きついてくる様子はない。
調べたところ、帝国から支援まで取りつけ窮状から抜け出したというではないか。しかも、その輪の中には、追放したはずの彼女の姉の存在がある……。
マデリンが最大の苛立ちを込め割れた花瓶を片づける侍女の手を踏みつけると、痛みと恐怖に満ちた悲鳴があがった。
響き渡る悲鳴を聞きながら、マデリンは唇を噛みしめた。
彼女には、もう時間がない。
もう手段を選んでいる場合ではない――!
フロースの皇帝により齎された書にて、シュタールとアナスタシアが古に纏わる真実をしってから十日。
二人はアインマールの国の中枢を担う主だった者達を集め、記されていた内容を伝えた。
皆はそれぞれに驚愕し、すぐには言葉を発する事が出来ない様子だった。
無理もない、とアナスタシアは思う。
今まで言われてきた事、思われてきた事が、ほぼ真逆であったともいえるのだから。
何を口にした良いかを戸惑い、誰もが口を開くのを躊躇っていた中。
一つ深く息をした後に声をあげたのは、シュタールの側近であるロイエだった。
「つまり、このアインマールの土地が元は豊かな大地であり。元の状態に戻す策を講じれば在りし日のような豊穣を……春を、呼ぶ事が叶うのではないか、と……?」
慎重に言葉を選びながらである事が伝わる声音で、問うように眼差しをシュタールとアナスタシアに向けるロイエ。
その視線を受けてシュタールは頷いて見せながら、傍らのアナスタシアを見遣る。
アナスタシアは手にした古書を静かに机に置いて、居並ぶ人々を静かに見据え頷いた。
「春が失われたのは……この地が雪に閉ざされたのは魔力が巡らなくなった故であるなら。その問題を解決すれば、再び春が訪れる可能性があります……!」
アナスタシアの言葉に、皆から返る言葉はない。
居並ぶ者達は、アナスタシアが語った可能性について信じかねている様子だ。
アナスタシアが偽りを言うような人間ではないと思ってくれていたとしても、あまりに現実離れした話である。俄かに信じがたいのも無理はない、と思う。
唇を噛みしめかけたが、ふと自分を見つめる温かで真摯な眼差しを感じる。
そちらに目を向けると、シュタールが銀灰の瞳を向けてくれている。
強い信頼を込めた表情で深くに頷くのを見て、翳りかけたアナスタシアの表情が蘇る。
アナスタシアは何かを手にしたかと思えば、それを皆が囲む卓に静かに広げた。
「まず、大地の回路を癒す事から始めます」
皆が訝しげに見つめる中で広げられたのは、アインマールの地を……『白の荒野』を記した地図だった。
そこには、大小幾つかの点が書き入れられ、線で結ばれている。
アナスタシアが示したのは、各集落や町を結んだ線だった。
集落のある場所は、アインマールの地の中でも比較的魔力が残存しているからこそ結界を敷く事により生活を可能としていた。
それは、魔力が巡る回路の上に存在するが故のことだった。
アナスタシアは、ここ数日シュタールと共に各地を訪れて確認したのだ。自分が進む経路が……各地を結ぶ線こそがアインマールの地の魔術回路ともいえるものだと。
周りながら色々試みて。幸いにも、衝撃で傷つき閉じた路にも癒しの力が作用する事を確かめられた。
シュタールと皆の許可を得て資材や人員を投じれば、魔力が再び巡る事が可能な状態にできるはずなのだ。
皆はここ数日の二人がしていた事の理由を知り呆然としながら、圧倒されたように息を飲んでいる。
息を整えて、アナスタシアは説明を続けた。
「それが終わり次第、回路に魔力を巡らせます。けれど、ただ魔力を通すだけでは途中で途切れる可能性がある。だから、途中に要を起きます」
「要……?」
戸惑いに揺れる声音での問いに対して、アナスタシアは頷いて見せる。
そして、地図上の一際大きな三つの点を指先にて示していく
「要となる地点は三つ。ここに魔力を増幅し、循環を促す術式を敷きます」
魔力を勢いよく流入させても、長い距離を走り続ければ循環を完成させる前に失速する可能性がある。
途切れてしまうのを防ぐために、ここが限界であると計算した地点に魔力を増幅し、勢いを取り戻す為の術を展開させるのだ。
それによって、失いかけた勢いを取り戻し、巡りは続いていくはずである。
疑問に対して淀みなく、しかも確かな声音で説明を紡がれ、徐々にその場に集った者達が騒めき始める。
それならば、と呟く者もいる。
言葉はないものの、戸惑いの中に希望が宿り始めている者もいる。
だが、ある者が控えめな声音で一つの問いを口にする。
「それだけの魔術を成功させる為には、膨大な魔力が必要となるのでは……」
アナスタシアは思わず目を見張り、そこで初めて言葉に詰まってしまった。
そう、最後にして最大の問題は、起動する為の動力源である。
如何にアナスタシアが人には稀だと言われる程に強大な魔力を有しているといっても、到底足りないのだ。
皆の視線がアナスタシアに集まり、その表情が目に見えて陰り始める。
最も重要な根幹を担う問題に関して解決策がないのだろうか、と視線は問いかけている。
無いわけではないのだ。
アナスタシアの魔力を如何にすれば増幅し、動力とするに足るのか、策はある。
けれども、アナスタシアはある理由にてそれを口にする事ができずにいる。
その場が少しばかりざわつき始め、シュタールがそれを制止する為に声を上げかけた時。
扉の外から入室の許可を希望する言葉と共に、静かな女性の声が響いた。
「その事について、アナスタシア様に申し上げたい事がございます」
扉を開けてその場に足を踏み入れたのは、フロイデと、城に仕える多くの者達だった。
一体何事、と室内に集っていた者達は訝しむけれど、アナスタシアは思わず目を見張る。
現れた人々は、皆それぞれに命の煌めきとも言える石を手にしていたからだ。
「皆……」
「アナスタシア様」
何故、と問いたかった。けれど、言葉にできずに呻くような吐息が零れてしまう。
アナスタシアが辿り着いた解決策が……希望を繋ぐために必要な物が皆の手にある。
目を見開いたまま言葉を紡ぐことが出来ずにいるアナスタシアに、フロイデは微笑んだ。
「愛する家族が我々に遺してくれた心を、貴方様に託します」
皆が手にしていたのは、それぞれの家族が遺した形見……心臓石だった。
心臓石を魔力の増幅の為に使う事ができたなら。それは、アナスタシアが昨日から一睡もせず考えていたことだった。
心臓石は美しいというだけではない。魔術の媒介として非常に優秀なものなのだ。
殊に、魔力の増幅においてかなりの効果を発揮する。複数あれば共鳴しあい、更に威力は増す。
多数の心臓石にて増幅できるならば、幾重にも元となるアナスタシアの魔力を増幅できる。試みが成功する可能性は格段に高くなる。
だが、それでも確かに成功するとは言い切れないのだ。
それに、試みに使うとすれば、心臓石は成功しても失敗しても失われる。
心臓石は皆にとって大切な家族の形見である。不確かな試みに、愛しい者達の形見を差し出してくれとどうしても言えなかった。
そして、翌日となりこの場となったのだ。
呟きを聞いていたフロイデが、無言のまま他の侍女達と視線を交わし合っていた事に、アナスタシアは気付いていなかった。
フロイデと侍女達は人々に声をかけて歩いた。
この地に春を呼ぶために、アナスタシが必死で考え、動いていたことを伝えていった。
希望を繋ぐために自分達に出来ることがあるのだと。アナスタシアだけに負担を強いるわけにはいかない、と……。
「私の父は酔狂な人でしたからね。面白い事が大好きだったので、是非とも使え、と言ってくれるでしょう」
フロイデは、手にした心臓石を見つめつつ肩をすくめて笑う。
彼女の後ろに控える者達も、手にした石を見つめながら頷いて笑っている。
拡がっていく微笑みに、アナスタシアはその場に温かな光が満ちたように感じた。
ややあって。
「我らの父祖も、この地に春を呼ぶ為なら協力してくれるでしょう」
考えるように黙していたロイエが微笑みながら言うと、卓を囲む者達もそれに同意し、倣うように頷いていく。
皆が口々にいう。この地に春を……希望を呼ぶためならば、と。
この場にいる全ての人々が、遺された形見を試みに使う事に頷いてくれている。
アナスタシアは何時しか溢れでる心を抑えきれず、熱い雫が幾つも頬を伝い落ちていく。
かつて自分を遠巻きにしていた人々が。
かつては、信頼する事もされる事もできなかった自分の声に応えてくれた。
夢を繋ぐために、自分を信じて託してくれると言っている……。
ふわりと、肩に温かな感触を覚える。
見上げると、アナスタシアの肩に労わるようにシュタールが手を置いている。
「もともと、途方もない試みだった。けれど、アナスタシアがこの地に訪れたことにより、全く見えなかった希望が見えて来た」
白銀の獣人王は、居並ぶ者達へと揺るぎない眼差しを向けていきながら、確かな声音で言葉を紡ぐ。
皆もまた王を揺るがぬ確かな瞳で見つめながら、王の真摯な言葉を黙して聞いている。
遥か昔から、この地は雪に閉ざされた厳しい荒れ野だった。
険しい気候と大地に暮らす民は常に苦しみ苛まれ、それでも必死に生きて来た。
だが、終わりなき冬を、今ここに終わらせられるかもしれないのだ。
皆が望みながらも無理と諦め続けてきた春をこの地に。
今を生きる人々に、そして未来に生まれる命達に希望を繋ぐ事ができるかもしれないのだ、と王の銀灰の眼差しは訴えている。
「俺は、それに賭けてみたいと思う」
王は、聖女の肩を抱く手に力を込めて告げた。
迷いも恐れもない、確かな信頼の籠った揺るぎない言葉だった。
その場に集った全ての人々は王の言葉に頷き、真っ直ぐな眼差しを王と、隣に在る聖女へと向けた――。
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