古の真実
サイサリスの訪問という騒動から数日して。
アナスタシアは彼が置いていった本を前に物思いに耽っていた。
アインマールの建国、そして獣人達の誕生に関する真実が記された書であると、サイサリスは言っていた。
アルビオンや近隣の国において、獣人達はかつて王国を追われた罪人達が、幻獣達の呪いを受け誕生した種族とされている。
他国で食いつめ人ならざる種となった、脛に傷を持つ者達の集まりなのだと。
アインマールに来て暫く経つが、アナスタシアはその説に疑問を抱くようになっていた。
獣人達からは、確かに幻の獣の気配を感じる。人に幻獣が不思議に溶け込み同化したような感じを覚える。
しかし、そこには呪いのような負の感情を一片も感じないのだ。むしろ獣の特性を活かして日々生きる獣人達からは、彼らに向けられた温かさや慈しみを感じることがある。
けして暗い経緯から生まれた種族だと思えなくなっていた。言い伝えに悪意すら感じ始めていたところに、齎された『真実』。
一体何が、と思うけれど、開くのを僅かに躊躇う思いがある。
「アナスタシア、どうした?」
「シュタール……」
声をかけられ驚いて振り向くと、いつの間にか表情を曇らせながらこちらを伺うシュタールが居た。
呼びかけたが応えないので心配してくれたらしい。
シュタールは、アナスタシアが向かう机の上に先だって皇帝が置いていった本がある事に気づいたようだ。
アナスタシアの隣まで歩みを進めながら、シュタールは苦笑する。
「悩んでいるのか?」
「……少しだけ」
フロースの魔術的最高機関である学府において検証された結果、これは正しくアインマール建国について記されたものというなら、信憑性は限りなく高い。
だが、内容を確かめたはずのサイサリスがそれを語るのではなく、書を手渡す形でアナスタシアに託してきた理由が気になるのだ。
サイサリスの口ぶりからして、アルビオンにとってはあまり公にしたい事実ではなさそうだが……。
何故獣人達は誕生したのか。何故に彼らはこの地に国を築き、常冬の荒野で暮らすことになったのか。
伝えられている事実に悪意を感じる以上、真実を知りたい気持ちは勿論ある。けれども、もしかしたら伝えられているよりもっと辛い事実が記されているかもしれない。
アナスタシアの迷いを察したらしいシュタールは、書の表紙に置かれたアナスタシアの手に、そっと自らの大きな手のひらを置いた。
包み込むような温かさに目を瞬くアナスタシアを、シュタールは真っ直ぐに見つめる。
「俺達は、自分達の始まりがどんなものだったとしても構わない。自分達の種の在り方に、誇りを持っている」
始まりがどう伝えられているか、当然ながら彼らも知っている。自分達が後ろ暗い罪人の子孫であり、呪われた種族なのだと蔑まれていることも。
しかし、雪原に暮らす彼らに己の種族を後ろめたく思う気持ちはない。
厳しい土地であっても生き抜いてきた種としての誇りを抱き、毅然と前を向き続けている。
けして臆することなく、目を逸らすことなく、険しい常冬の大地に立ち続けている。
誇り高き獣人達の王は、アナスタシアの手に触れた己の手にそっと力をこめた。
「俺達は何が記されていたとしても受け入れる覚悟がある」
だから恐れなくてもいい、とシュタールの銀灰色の瞳に宿る温かで強い光は言っている。
ああ、とアナスタシアは心の裡にて呟く。
この人も、皆も。アインマールの国に生きる獣人達は強いのだから。
何を恐れる事が、迷う事があったのだろうか。
例えどんな事実がこの書に記されていようと、それで揺らぐ彼らではなかったのだ。
シュタールは改めてアナスタシアを見つめ、記されている内容を聞かせて欲しいと願う。
アナスタシアは静かに頷き、古びた書物の表紙を丁寧に開き。
隣り合っておいた椅子に腰を下ろしながら、記された内容を静かに読み上げていく。
アルビオンとアインマール。
先に建国されたのは、女王により開かれたアルビオンであった。
それについては特に何事もなく二人は受け入れた。
だが、不思議に思ったのはアルビオンを表す下りだ。
魔力が少ない不毛の土地故、争いが耐えなかったと記されていたのだ。
その段階でアナスタシアもシュタールも、怪訝そうに眉を潜めた。
都全体に溢れる程魔術の恩恵を施す事ができる、あれだけ魔力に恵まれた国が不毛の地。
しかし、更に二人が表情を変えたのは続く内容だった。
――アルビオンから少し距離を隔てた場所に、アインマールと呼ばれる精霊と幻獣達が暮らす豊穣の地があった、と……。
アインマールの名が、緑に覆われた精霊の恵み深き実りの大地と記されていたのだ。
確かにサイサリスは、この書の内容が確かであれば、アルビオンよりもアインマールの地のほうが豊かになり得るとも言っていた。
だが、厳しい吹雪に閉ざされた常冬の白き地が、翠の大地であったという事実は俄かには受け入れがたい。
アルビオンの民は、豊かなアインマールの地に移り住む事を願い続けた。
だが、精霊と幻獣達は欲深き浅慮を見抜き、人間達を受け入れようとせず。土地の精霊と幻獣達を脅威に思う故に諦めながら、細々と代を重ねていた。
そして、王家にある兄弟が生まれる。
兄の名を見て、アナスタシアが驚きの声をあげた。
「この王は……興国の祖として……今日のアルビオンの基礎を築いたとされる方です!」
しかし、書に記された王の姿は、アナスタシアが聞いて育ってきたものとは大いにかけ離れたものだった。
後に偉大な王として長く語り継がれるはずの王子は、長男であるが故に王位こそ約束されたものの凡庸な性質だった。
卑屈で臆病であり、ひどく猜疑心が強い人間であったと記されている。
次なる王に失望を隠せない人々の心は、優秀で勇猛果敢な弟王子にあったという。
弟王子の名をアナスタシアが読みあげた瞬間、今度はシュタールが驚きの声をあげる。
「それは……。アインマールの初代の王の名だ……」
聞いた瞬間、アナスタシアは弾かれたようにシュタールを見る。
二人は、揃ってどういうことだ、と言いたげな表情を浮かべて顔を突き合わせる。
無論、名前が同じだからといって同一人物とは限らない。
けれど、この本は『アインマールの建国に纏わる真実』を記された書であるというのだ。無関係、偶然の一致、と言い切る事はできない。
兄王子は、優秀で人心を集める弟王子に嫉妬し、憎悪を募らせた。
そしてある日、王となった兄は、罪人として弟王子を追放した。
無論、それは兄により着せられた濡れ衣であり、当然ながら弟王子は抵抗した。
だが兄は逆らうものを粛清することにより、恐怖にて人々を圧し擁護の声を封じた。
弟を支持していた者、兄に諫言した者も揃って国を追われた。兄王の勘気を被った罪なき者も、騒ぎに乗じるように追われたという。
国を追放され、行く当てなく彷徨う弟王子達を受け入れたのは……翠の大地に住まう精霊と、彼女に従う幻の獣達だった。
人間を拒み続けた精霊は罪失くして追われた者達を哀れに思い、閉ざし続けてきた大地を開いてくれた。放浪していた人々は、恵み深き地に受け入れられ安寧を得たのだ。
やがて、人々は小さいながらも集落を作り、それは街となり。放浪していた人間達は、少しずつアインマールの大地に根ざしていく。
その中で、弟王子と精霊は何時しか恋に落ちていた。
精霊と人である故に結ばれる事は叶わないけれど、弟王子は終生彼女を思い続け生きることを誓う。精霊もまた弟を愛し、彼が守ろうとしたものを守り続けることを誓った。
思いがけぬ形で開かれた新天地にて、王国で罪人と呼ばれた人々は幸せに暮らしていた。
しかし、それを快く思わぬ人物がいた。他でもない兄たるアルビオンの王である。
兄は、罪を追わせて国から追放した弟が、自分達を拒絶し続けた恵みの大地で幸せに暮らしている事に更なる憎しみを募らせる。
人々はこれみよがしに、アインマールに比べて我らが国は、と囁きあう。
かつて自分を焼くほどに苛んだ劣等感は抑えようもないほど膨れ上がり、憎悪の黒い焔はただただ燃え上がり。
兄は、ある日弟へと使いを出した。『精霊の仲立ちにて、かつての遺恨を解消させてはくれまいか』と。
弟は兄を信じてしまった。かつて不本意な形で袂を分かつことになってしまった事を悲しく思っていたけれど、兄も後悔してくれていたのだと。
精霊は最初こそ訝しみ、止めようとした。けれど、弟があまりに嬉しそうなので仲立ちとなることを受け入れたという。
――その思いが、結果として悲劇を招いてしまう。
和解の為に設けられた席にて、兄弟は再会し。
あろうことかその席にて、兄王は二人の和解の仲立ちをしようとした精霊を害したのだ。
精霊は悲痛な叫び声と共に、美しい宝石――心臓石を残して死んでしまう。
兄は心臓石を奪うと、潜ませていた軍隊に罪人共を滅せよと命じて姿を消す。
呆然自失の弟を守りながら、人々はアインマールの地まで何とか逃げ伸びた。
だが、異変は既に起きていた。
戻った翠の大地は、既に色彩を失いつつあったのだ。
空は灰色に覆われ、引きすさぶ風は肌を切るように冷たく白を帯びている。
人々は凍えて震えながら、変わり行く大地を前に茫然としていた。
精霊の死と共に、アインマールの地から大地を巡る魔力が失われつつあったのだ。
大地を潤していた魔力の道は精霊の死の衝撃により傷つき閉ざされ、役目を果たす事ができなくなってしまっていた。
吹雪に閉ざされ常冬の地に転じたアインマールにて、人々は為す術もなかった。
肩を寄せ合い生き延びようとしても寒さは容赦なく苛み、飢えは確実に人々の命を脅かしていく。
弟王子は苦しんだ。
自分が、兄の言葉を迂闊に信じてしまったから、精霊を失ってしまった。
自分と兄の因縁の為に、アインマールの地に暮らす人々は凍え、死にかけている。
悔恨に打ちひしがれる弟王子に、声をかける者達があった。
それは、死した精霊に従っていた幻獣達だった。
幻の獣たちは、弟王子を始めとする人間達に問いかけた――今の人間としての生を失ったとしても、生きたいかと。
不思議の存在である自分達と同化し新たな種となれば、この凍てつく土地でも生きていけるようになるだろうと。
何故そこまでしようとしてくれるのか、と問う人間達に幻獣達は答える。
彼女が愛した者達を、自分達もまた愛していると。我らがこの形を失ったとしても、我らはお前たちと共に在り、生きるだろうと。
暫しの思考の後、弟王子は静かに頷き、人々もそれに続き。
幻獣達はそれぞれ人間達と同化し現の身体を失い。人間達は獣達の特徴を受け継ぎ、新たな命を得た。
そうして、アインマールの地に新たな種族である『獣人』が誕生した……。
兄王は、持ち帰った精霊の心臓石を元に都に魔力を巡る仕組みを作り上げた。
見違えるように都には豊穣が満ちるようになり、そしてそれは都から国の隅々まで伝わり行き、アルビオンは今日のように繁栄することとなる。
豊かさを王国に齎した兄王は繁栄の礎を築いた者として、偉大な王として語られるようになったという……。
なるべく落ち着いた声音で読み続けていたかったが、語り聞かせる途中からアナスタシアの声は震えていた。
黙したまま聞いていたシュタールの表情また、厳しい。
兄と弟の確執。いや、確執と呼ぶにはあまりに一方的なそれが、翠の大地を白の大地へと変える原因となったのだ。
そして、王国の現在の繁栄はアインマールから奪った……殺して手に入れた精霊の心臓石を元に魔力が巡る仕組みを作った為だった。
回路を管理し、維持する為には膨大な魔力が必要となる。
ああ、だからこそ、とアナスタシアは心に呻く。
だからこそ、アルビオンにおいて王族やその妃は強い魔力を持つ事が求められるのだ。
精霊の心臓石が回路の中枢に据えられてから、長い年月が経過している。
動力として常に稼働させられ続けている心臓石、その消耗を補うために強い魔力を持つ者を求めるのだ。
王族の魔力で誤魔化し続けてはきたが既に心臓石は限界を迎えつつあるのだろう。だから、王都を巡る魔力は減り、存在する精霊たちが消えつつあったのだ。
この書を記したのは、かつて兄王の侍従を勤めていたものだという。
名を聞いて、アナスタシアは目を見張った。
その名前は、王国の名高い歴史学者として語られる人物だった。兄王のもと『正当な』国史を編纂し、後の世に遺した功績を讃えられる人間だ。
そんな方が何故……と問いを抱いたアナスタシアに、悲痛な文面が答えを齎す。
罪なき弟を追放した兄に仕え続けた事を彼は後悔していた彼は、弟と精霊に起きた悲劇を防げなかった事を後悔し、真実を記す事を決意した。
そして、万が一にもアルビオンの手によって失われぬ場所に真実を隠す事を望み、書は帝国の皇族のみが許された秘奥へと収められた。
何時か、正しい形で真実が後の世に明らかになるようにと願って……。
願いを以て締めくくられた文章を読み終えると、二人の間には沈黙が満ちる。
雪に閉ざされた常冬の大地は、本来豊穣の翠に満ちた大地だった。人ならざる者に呪われた罪人とされる人々は、優しき幻の獣に愛され守られた人々だった。
真実だと突きつけられても俄かには信じがたい、あまりに心を揺さぶる内容である。
明かされた衝撃的な事実に、アナスタシアもシュタールも暫くの間どちらも言葉を紡ぐ事が出来ずに居た。
流石のシュタールも、今は受けた衝撃の大きさに顔色を失い、唇を引き結んでいる。
まさか、と否定したくても、できない自分が居ることにアナスタシアは気付いていた。
この内容が真実であったなら、と思う心が生じつつあるからだ。
今日のアインマールが雪に閉ざされた『白の荒野』である原因は、魔力が巡らぬせいだ。
それは、とりもなおさずアインマールの地が、魔力さえ元のように巡れば豊かな大地へとなり得る可能性を示唆するものだった。
精霊の死の衝撃に傷つき閉じてしまった回路を修復し、そこに元のように魔力が巡るように出来れば。荒野に再び魔力が巡れば、大地は恵みを育む力を取り戻す事が叶うはずだ。
そうすれば……!
「もし、この書に記されていた事が真実だとしたら」
アナスタシアは振り絞るように、何とか言葉を紡ぎ始める。
驚いたように自分を見つめる眼差しを感じながら、その瞳をしっかりと見つめ返し。
「希望が掴めたかもしれません……!」
震えかけた声を必死に抑えながら、見出したひとつの『希望』を口にした――。
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