彼の真意

 皇帝は翠の瞳を瞬き、皆はその声の主へと視線を向ける。

 一滴の雫が水面に波紋を描くように、揺れる気配の源となったのは。

 大国の皇帝に対し確かな声音で答えたのは、他でもないアインマールの王その人だった。

 何が起きたのかをすぐに理解できずに呆然とした眼差しを向けてしまったアナスタシアへと視線を向けた後、シュタールはサイサリスと真っ向から対峙する。


「俺は、何があろうとアナスタシアに誠実であると誓った。けして、裏切らないと」


 それは、かつてシュタールがアナスタシアに確かに誓ってくれたこと。

 自分だけはけして裏切らない、そう言ってくれた声に宿っていた確かな心は今でも鮮やかに胸に蘇る。

 震えそうになる手で口元を押さえ、アナスタシアはシュタールを見る。

 白銀の王の横顔には、少しの揺らぎも迷いもなかった。


「それなのに、彼女を売り渡すような真似はできない」


 己を見据えるサイサリスの探るような眼差しと、揺れるアナスタシアの眼差しを受けながら、シュタールははっきりと告げた。

 アナスタシアは思わず唇を噛みしめる。

 胸の奥底から湧き上がってくる熱い感情が溢れてしまいそうで。突き動かされて叫んでしまいそうで。

 サイサリスは黙したままシュタールへ視線を向けていたが、やがて少しの皮肉を込めて首を傾げて見せる。


「王として、国としての利より一人の女性を選ぶと?」

「王であるというならば。俺は王として、民の意思を無視することもできない」


 それはどういう事か、とアナスタシアは疑問を抱いた。

 サイサリスも同様であり、シュタールを見る眼差しがやや訝しげな色を帯びる。

 最初は、一人の男性従者が声をあげた。私は王の選択を支持すると。それに続くようにその場にいた者達が一人、また一人と同意の声をあげていく。

 アナスタシアがアインマールにとってどのような存在であるのか。

 彼らは、アナスタシア他に替えようがない大きな存在となっていることを真摯な声音で口々に訴えた。

 呆然とするアナスタシアだったが、声をあげたのはシュタールに従っていた者達だけではなかった。

 何かに気付いたフロイデが部屋の扉を開けると、そこには。

 アナスタシアと日頃接する事の多い城の女達だけではなく、衛兵たちや、何と子供達まで居るではないか。

 彼女達は、従者たちと同じく王の選択を支持する旨を叫ぶ。

 何故に彼女達がと驚くアナスタシアに、一人の女性が説明した。

 聞き耳を立てていた聴覚に殊更優れた者達が、皆に慌てて触れ回ったのだという。アナスタシアが支援と引き換えに連れていかれてしまう、と。

 フロイデとロイエが落ち着くように宥めても、集まった者達はおさまらなかった。

 アナスタシアは、アインマールにとって大切な存在だと。ずっと、我らと共に居て欲しいのだと。

 心から失う事を恐れながら、集った者達は必死に訴え続けてくれている。

 支援を受ければ日々の苦労が緩和される事を知りながら、それよりもアナスタシアが此処に居ることを願ってくれる。

 アナスタシアにアインマールに居て欲しいと。アナスタシアは、ここに居ていいのだと……。

 必死に願い声をあげる獣人達の声を聞きながら、サイサリスは僅かに驚いたように目を見張っていた。

 シュタールは、言葉を紡ぐ事ができずに佇むアナスタシアの手を取る。

 けして離さないというように確かにアナスタシアの手を握ったシュタールを見て、サイサリスは一つ息を吐き。

 それまでとはうってかわって朗らかな笑みを浮かべた。


「うん、合格」

「何……?」


 サイサリスが大きく頷きながら告げた言葉に、シュタールもアナスタシアも、居並ぶ人々も一瞬唖然としてしまう。

 大きく戸惑いながらサイサリスを見つめるアナスタシアと、訝しげに唸るシュタール。

 二人を見つめながら、サイサリスは呟いた。

 試すような事を言ってすまなかった、と。


「ここで、そうですかとアナスタシアを差し出してくるようなら、一度の支援と引き換えに切り捨ててやろうと思っていた。むしろ、アルビオンに梃入れをしてもいいかなとね」


 事態の理解が追いついていない者達に、苦笑しながら皇帝は言った。

 アルビオンに居た時よりも、アナスタシアは穏やかで満ち足りた表情をしている。

 きっと、この国で大切なものを見つけたのだろう。皇帝は久方ぶりに会った従妹を見てそう思ったらしい。

 だが、彼女が故国にて受けた仕打ちを知るからこそ、もう彼女の世界が揺らいでほしくないとも思った。

 だからこそ彼女にとってこの国が揺るぎなく彼女を愛するものである事を望み、それを計る為に問いかけた。

 これにシュタール達が頷くようならば。そんなに呆気なく彼女を手放す者達の元にアナスタシアを置いておきたくない。傷ついた彼女を直ちにフロースに連れ帰るつもりだった。

 我ながら意地の悪いことこの上ない問いではあった、とサイサリスは苦く笑う。


「どうやら、貴殿は信頼するに足るようだ。アナスタシアについては条件としない。改めて、正式な支援の申し出をさせてもらう」


 立ち上がり礼をとりながら、サイサリスは真摯な声音で謝罪した後に確かな申し出を口にした。大国の皇帝としての威厳を感じる、毅然とした態度を以て。


「アルビオンとの関係に支障が出るのではないか?」

「構わない。正直、アルビオンはあのエリオットが王になるというなら先は明るくない」


 あまりに率直に過ぎる言葉に、アナスタシアもどう返答していいものかと複雑な表情になってしまう。

 そもそも、アルビオンと変わらぬ付き合いを続けてきたのは先代達の交わした約束もあるが、ひとえにアナスタシアが王妃になると思っていたから故だという。

 何か言って来られるなら言ってくればいい、と口元に皮肉を浮かべながら言うサイサリスに、アナスタシアは困ったように沈黙してしまう。

 サイサリスは側近に命じると、荷物から何かを取り出させた。そして、それをアナスタシアへ差し出す。


「私はアルビオンや諸国ほどこの国を過小評価していない。獣人達の力を、エリオットは甘く見過ぎだ」


 サイサリスが手渡してきたものは、一冊の本だった。

 触れる力の籠め方を少し間違えれば、ばらばらになってしまいそうな程に脆く、古い書物。古代の文字にて記された題字は、掠れてしまって既に読む事が叶わない。

 これは、と疑問を浮かべながら本を受け取るアナスタシアを見て、サイサリスは告げた。


「アインマールの建国に関する秘された真実が記された書だ。帝国の皇族のみ立ち入りが許される秘奥の書庫にあったのを見つけた」


 帝国の最高学府にて念入りに検証した結果、確かに遡って遥か昔の……アインマールの地に獣人達が誕生した逸話について記されている事が確認されたらしい。

 禁書庫に、とアナスタシアは呻くように呟いた。

 皇帝や皇帝の許可を得た皇族のみが立ち入ることを許される書庫があり、そこには外には出せぬ知識を記した書物や、秘された史実を記録した書物があるという。

 それについては、アナスタシアもサイサリスに聞いて知っていた事である。

 けれど、何故アインマールの建国に纏わる事実を記した書が、この国ではなく帝国の禁書庫にあったのだろうか。

 その問いには、サイサリスは困ったように笑いながら、アルビオンの手前外に置いておくわけにはいかなかったのだろうね、と。

 サイサリスの口ぶりからして、アルビオンにとって都合の悪い事が記されているのを察したが、戸惑いは強くなるばかり。


「アナスタシアは古代文字について学んでいたね?」


 問われ、静かに頷くアナスタシア。

 確かに、聖女であった時に学んでいたからだ。

 よろしい、と頷きながら言ったサイサリスは、続いて何かを思案するように目を伏せる。


「この書に記された内容が真実であれば。この地は、アルビオンよりも豊かな土地となる可能性がある」


 まさか、と思ってしまうけれど口には出せない。手の中に感じる重みが、何故か皇帝の言葉が確かであると訴えているような気がしたからだ。

 書を手にしたままアナスタシアが黙している前で、サイサリスは先程の申し出についての答えを求めるように、シュタールの白銀の瞳を見据える。

 二人は暫くの間、言葉なく互いの瞳だけを見つめていた。

 そこにある意思を一つも余さず読み取ろうとでもいうように。

 やがて、シュタールは静かに口を開いた。


「申し出、有難く受け入れさせて頂く」


 その瞬間、サイサリスの顔に改めて朗らかな笑みが浮かんだ。

 集った人々は最初こそ半信半疑といった様子だったが、皆の前でサイサリスはシュタールに握手を求め、シュタールは確かに握り返す。

 それを見て、アナスタシアを奪われない事と大国の支援が確かな事を知るにつれ沸き立つように喜びの声をあげた。

 落ち着くようにロイエ達がまたも宥めるが効果は薄く、二人も苦笑いを浮かべる。

 フロイデが手を打ち鳴らし、お客様をおもてなしするのです、と声をかけると人々は足早に準備の為に散っていく。


 その夜は、フロース皇帝を招いての宴となった。

 大国からすれば宴とも言えぬようなささやかなものであったかもしれない。

 だが終始サイサリスはご機嫌であり、無邪気なまでに楽しそうな笑みを絶やさなかった。

 兄と慕う相手が楽しそうであることに。そして、シュタールもまた笑顔であることに。

 アナスタシアの顔にも、心からの笑みが有り続けた。



 宴の翌日、早々にサイサリスは出立する事になった。

 もう少し居たいけれど、と言うサイサリスに対して側近たちが訴えかけるような悲痛な眼差しを送っている。

 多分、アインマールに立ち寄ったこと自体がもう予定外のことだったのだろう。

 サイサリスの日頃の多忙さを思えば、この後彼も臣下達も大変な事になるのは容易に想像がつく。

 心配そうに見つめるアナスタシアを安心させるように笑っていたサイサリスだが、ふと表情を引き締めて低く呟く。


「アナスタシア。マデリンについては、もう諦めたほうがいい。エリオットについても」


 咄嗟に言葉が返せず、アナスタシアは目を見張った。

 このタイミングでサイサリスから妹と王太子について言及があったことを純粋に驚いたのと、意図が理解できなかったのと。

 二つの戸惑いを以て見つめる従妹へと、サイサリスは深い溜息と共に続ける。


「あれは、ある程度の魔力を持つ人間にはかなり効果があるだろうね。私ぐらいの防護を常に巡らせているならまだしも……」


 彼には珍しく苦い響きにて呟かれた言葉に、疑問は更に増すばかりだった。

 元々、サイサリスはあまりマデリンとは合わなかった。けして粗略に扱うことはないが、アナスタシアを愛するようにマデリンに接することはなかった。

 何故と問いかけても、曖昧に笑って答えてくれた事はないのだが……。

 アナスタシアが重ねて問う前に、サイサリスは身を翻して出立の号令を発する。

 従者達が力を合わせて移動の転移陣を発動させ、フロース皇帝一行は不可思議の光に覆われていく。


「息災にね。私の可愛い小さな聖女」


 眩い光が辺り一面に満ちて。

 消えた後には、見送ったアインマールの者達だけが残っていた。

 最後にアナスタシアが慣れ親しんだ優しい兄の笑みを残して、皇帝サイサリスは自国へと帰っていった。

 一冊の真実と、消えない謎を残して――。


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