提示された言葉

 アナスタシアの言葉が真実だと――大国の皇帝を不審者として捕らえていた事実がわかると、場は俄かに騒然とした。

 如何にアインマールを正式な国家として国交を結ぶ国が少ないとはいえ、貴人として扱うべき大国の主を虜囚としていた事にアインマールの人々は蒼褪める。

 他国の国主に対して無礼を働いたとして、国家として報復されたとて文句を言えない状態なのだから。

 サイサリス達は直ちに拘束を解かれ、賓客としての扱いをされるようになった。

 貴賓室として扱われている部屋に大慌てで丁重に通されたサイサリスは、椅子に腰かけながら何事もなかったかのように笑う。


「まさか、いきなり捕まるとは思ってなかったなあ。ちょっとアナスタシアの顔を見たかっただけなのに」

「サイ兄様……」


 朗らかに宣う皇帝陛下に、アナスタシアは何とも言えない様子で呟く。

 彼の従者達も、自分達の皇帝が素性を伏せさせたことも原因なのだと気付いているせいで、どうにも居心地が悪そうな様子である。

 シュタールは何とか表情を落ち着けようとしているが、気を抜くと複雑な面持ちになってしまっているし。

 ロイエやフロイデは、気を抜くと呆れたような眼差しになってしまうのを必死に耐えている様子だ。

 アナスタシアだって抑えているが、気を抜くと盛大な溜息が零れてしまいそうになる。


「どうしてサイ兄様がアインマールに……」


 膝から崩れ落ちてしまいそうになるのを必死で堪えながら、アナスタシアは何とか呻くように問う。

 アインマールの国とフロースは遠く距離が隔たっている。気が向いたのでちょっと立ち寄った、などとは間違っても言えない程に。

 従妹の微妙な表情と声音を意にも介せず微笑んで見つめながら、サイサリスはおもむろに口を開いた。


「諸国を外遊していたのだけど、つい先日交換留学している学生たちの慰問にアルビオンを訪れてね」


 アルビオンとフロースが学術的交流を積極的に行っており、多くの学生を交換留学させている事はアナスタシアも知っている。その学生たちを、定期的にサイサリスが慰問していた事も勿論。

 故に、その言葉についてはすんなりと納得する事が出来た。

 しかし。


「その後、とてもアナスタシアに会いたくなって来てみたのだよ」


 続いた言葉には、内心で大いに思うところがありすぎた。

 今でこそアナスタシアは馴染んでいるものの、人間にとって獣人達の国であるアインマールは未知の異邦である。しかも、正式な国交のない。

 アルビオンのように国とは認めず属領のように見下す事はないが、取引に関して干渉しないだけで、積極的に関わろうとはしてこなかった。

 そこに行ってみたくなったから、で向かおうとするのは、大国の皇帝として如何なものかと思ってしまうのは仕方ない気がする。

 従者たちの苦渋の表情からして、多分彼らは主の思いつきを必死に止めたのだろう。

 しかし、笑顔で煙に巻いて押し切られて現在に至っているのが表情から伺える。

 従者たちの様子を見て色々と察したらしいアインマールの獣人達の表情もまた、複雑微妙なものであった。

 とても物申したげなアナスタシアに少しだけ安堵した風に息を吐いて、サイサリスは笑みを向け続ける。


「何やら色々あったようだから心配していたけど。元気そうで安心した」


 アルビオンにおけるアナスタシアの追放は、あまり公に語らぬようにと触れが出されていたはずだ。

 だが、そもそもアルビオンの宮廷人は噂話に目がなく、ここだけの話ですけれど、と姦しく語り合っている様子が嫌でも想像できる。

 妹に王太子を奪われた元聖女が、王太子妃となった妹を毒殺しようとしたなど、彼ら彼女らにとっては恰好の話題だっただろう。

 加えて、このサイサリスという人物は独自の情報網を持ち合わせていることを、彼女は良く知っている。

 社交界にてアナスタシアがある令嬢達から冷たい扱いをされた、といった騒ぎにすらなっていない事まで彼は何故か掴んでいた。

 もっともアナスタシアがそれを知ったのは、令嬢達が何故か突然社交界を去った後だったが。


「何時かやらかすとは思っていたけど、あそこまで馬鹿とは思わなかったなあ」


 サイサリスがのんびりと呟いたのを聞いて、アナスタシアの顔が強ばる。

 冷たい仕打ちをした程度で『それ』である。

 まさかアルビオンに何かとんでもない事をしでかしてきたのでは、とアナスタシアの顔から血の気が引いた。

 それを読み取ったらしいサイサリスは、まだ何もしていないよ、と苦笑する。

 そして、従兄妹二人の会話を沈黙したまま、呆然と見守るしか出来ていなかったアインマールの者達へと視線を向けた。


「アナスタシアを保護してくれていたことに、彼女の従兄としてまず礼を言う」

「いえ。……むしろ、非礼をお詫び申し上げる」


 いち早く我に返ったシュタールが、礼を取りつつ改めて謝罪を口にする。如何に相手が身分を伏せていたとはいえ、結果として無礼を働いてしまったことに変わりはない。

 それについてはもういい、と苦笑して告げてから、サイサリスは表情を真面目なものへと転じる。

 シュタールへと翠の眼差しをしっかりと据えて、おもむろに口を開いた。


「フロースは、アインマールに対して国としての支援を行う準備がある」


 あまりに予想しなかった言葉に、シュタールもアナスタシアも、その場に居たサイサリス以外の人間が驚愕の表情を浮かべる。

 今までフロースとは、個人の商人が取引に応じる程度の繋がりだった。

 それを『国として』の支援を行う気があるというのだ。

 サイサリスの言葉は、フロースがアインマールを一つの国として正式に認めるということでもある。

 咄嗟に誰も言葉を返す事が出来ず唖然とする中で、サイサリスの眼差しはアナスタシアに向けられた。


「ただし。アナスタシアが、私の皇妃としてフロースに来ることが条件だ」

「え……」


 アナスタシアは、思わず戸惑いの声をあげてしまう。

 シュタールは目を見張って顔を強ばらせ、周囲の人間は騒めき始めている。

 皇帝の真意が掴めずおそるおそるはしばみ色の瞳で見つめた先で、皇帝は肩を竦めた。


「国内の政治的なものを汲んで皇后を迎えたが。何せ、まだ幼くてね」


 それについてはアナスタシアも知っている。

 結婚を避けていたサイサリスだったが、一つの国の主として許されるはずもなく。一年ほど前に、国内の有力者の血筋から正式な妻たる皇后を迎えた。

 しかし、一つだけ問題があった。


「跡継ぎは早急にもうけたいが。さすがに、十を少し越えたばかりの子供と致すわけにもいかないだろう?」


 それは確かに、とアナスタシアは心の中で慎ましく頷いた。

 そう、サイサリスの迎えた皇后はほんの子供なのである。記憶が確かであれば、今年で十二歳のはずだ。

 無理を強いれば懐妊は可能かもしれないが、如何に政治的な結びつき故仕方ないとしても、些か……いや、かなり問題がある。

 フロースの皇帝は皇后の他に、数人の皇妃を傍に置く事が出来る。

 所詮正妻に対しては妾と揶揄されることもあるが、帝国の法に則った正式な妻である事に変わりはない。事実、サイサリスの母もまた先帝の皇妃の一人である。

 皇妃から生まれた子供であれば、正しく跡継ぎとして認められる。故に、無理に皇后に皇子を求める必要はないのだ。

 だが、だからといって、何故。アナスタシアが心の中で呻くのを知らぬ振りでサイサリスは続ける。


「だから、跡継ぎの母足りえる皇妃を探していた。あの馬鹿……いや、王太子との婚約が解消されたと聞いて喜び勇んで迎えに行こうとしていた矢先に、追放騒ぎだ」


 サイサリスの忌憚ないエリオットへの評価を聞いた気がするが、敢えて触れなかった。

 いや、触れられる程の余裕はアナスタシアに無かった。

 サイサリスが皇妃を求めている事は分かった。けれど、それが何故自分であるのか。

 確かにサイサリスは昔からアナスタシアを可愛がってくれた。自分もサイサリスを兄のように慕っていて、私的な場では実の兄妹のように過ごしてきた。

 その『兄』に唐突に妃にと願われて、アナスタシアには困惑しかない。

 アナスタシアは何故と問いたかったし、無理だと訴えようとした。

 何故なら、アナスタシアはもう聖女でもなければ、公爵家の令嬢でもない。王国を追放された一人の罪人だ。それが大国の皇妃に相応しいはずがない。

 驚愕に震える自分を叱咤して、それを口にしようとした瞬間、サイサリスはアナスタシアを見て笑みを深くした。

 サイサリスの笑みを見てアナスタシアはまたも言葉を失う。分かっていて、その上で言っているのだと悟ってしまったからだ。

 サイサリスはアナスタシアの身に何が起きたのか知っている。知っていてそれでも申し出ているのだと、言葉に寄らずとも笑みの中にある強い光を宿す翠の瞳が言っている。


「アナスタシアが私の皇妃となるならば。皇妃たる女性を手厚く保護してくれていた貴国に対し心からの礼を。アルビオンとの取引に寄らずとも足るだけの支援を約束しよう」


 絶句するアナスタシアや居並ぶ者達へと、サイサリスは泰然とした様子で告げる。

 皇帝の言葉を理解した瞬間、アナスタシアは弾かれたようにシュタールの方を向く。

 自分がどんな表情をしているのかはわからないが、何故かシュタールを見ずには居られなかったのだ。

 白銀の獣人王は、固い表情にて沈黙したままだ。

 アルビオンとの取引に寄らずとも足るだけの支援、それはあまりにも魅力的に過ぎる。

 匿名の人物が取引を再開してくれたとはいえ、完全に信頼しきるには危うい。それにエリオットに知れた場合、より理不尽を強いられる原因にもなりかねない危険を孕んでいる。

 危険に寄らずとも必需を満たす事が出来るのだ――アナスタシアが、サイサリスの申し出にさえ頷けば。


「私は本気だよ? 私の可愛い小さな聖女」


 それは、昔からサイサリスがアナスタシアを慈しむ時の呼び名だった。

 私の可愛い小さな聖女と呼びながら、彼はアナスタシアを愛し、微笑んでくれていた。

 けれど、アナスタシアは強張った表情を浮かべて俯いてしまう。

 嫌だ、と思ってしまったのだ。

 サイサリスを嫌ってなどいない。むしろ好ましく思い慕っている。大切な人である事に変わりはない。

 だが、彼女にとって、サイサリスはあくまで『兄様』なのだ。伴侶として見ることができるかどうか自信がない。

 いや違う。そうではないのだ。

 一人の異性としてサイサリスを見ることができない理由は、それだけではない。

 今、自分の心の中に確かな位置を占めるのが、違う人物だからだ。

 そうなのかと問われれば、自分でもはっきり答える事はまだ出来ない。でも先程、気が付いた時には見つめてしまっていた。

 シュタールは沈黙し何かを思案している様子であり、ロイエやフロイデは蒼褪めた様子で王の挙動を伺っている。

 彼は、獣人達の王なのだ。王であるならば、私の情だけで物事を決めることはできない。国としての利を考えて動かなければならない。

 サイサリスはこのような状況で偽りを口にするような人物ではない。

 恐らく自分が申し出を受け入れれば、間違いなく彼の言葉は実行され、アインマールは長きに渡り救われる。

 自分が頷くことでアインマールの行く末が保証されるというならば、と思うのに。

 全身が凍り付いてしまったように、身動きが取れない。『わかりました』と告げて頷くだけでいいはずなのに、それが出来ない。

 ただ、怖い。

 シュタールが、今どんな表情を浮かべているのか。彼が、どんな答えを口にしようとしているのか。

 誰もが身動きすら取れないほどに重い沈黙が室内に満ちる。

 サイサリスは答えを催促しようとはしていない。黙したまま、翠の眼差しをアナスタシアに、次いでシュタールに向けただけだ。

 一人として言葉を発する事が出来る者が無い中、アナスタシアは必死に自分を奮い立たせ、口を開こうとした。

 その時だった。


「断る」


 静まり返った場に、完結にして明瞭な拒絶の言葉が響いた。

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