異邦の旅人
皆が終わりを覚悟した程の病による騒動から少しして。
吹き行く風は相変わらず冷たく、凍える雪を運び続ける。
けれどアインマールの都を包む空気には、少しの変化があった。
病の流行による傷は癒え切っておらず、人々はその後始末に未だ奔走していた。
快癒したシュタールはロイエ達が持ち帰った物資の采配や、働き手が完全に快癒せず困窮した者達への配慮など、様々なことに矢継ぎ早に指示を出し。
アナスタシアは、まだ復調できぬもの達のもとに通っては治癒の力を施し続けていた。
魔術だけではなく、アナスタシアは持てる知識や技術を人々の暮らしの改善に使う事を惜しまなかった。
以前は控えめであり、口に出す事を躊躇っていた。敬遠されていることを悟っていたから、出すぎた真似をしないようにと。
きっかけは、ある日のやり取りだった。
その日は女性達が、病の騒動の際に使い切ってしまった様々な備蓄の補充を行っていた。
集った中には、アナスタシアの姿もある。
学んだ知識を活かして進めるアナスタシアの作業を、若い女達が黙って見つめていた。
やがて意を決したように、女達がアナスタシアへと歩みより口を開く。
「あの、アナスタシア様」
「教えて頂きたいことがあるのですが……」
その場に居た者達が、皆揃って息を飲んでやり取りに注目した。
聞く側も、聞かれる側も、まだ少しばかり戸惑いは滲む。
だが。
「私で答えられることなら、喜んで……!」
少しばかりの恥じらいと共に頷いた小さな笑顔をきっかけに。
集う人々の間に、温かな笑いが漣のように拡がっていった……。
それを始めとして、私も、と次々に問いは続いた。
何でも、アナスタシアの作業を見ていて気になっていて、実は聞いてみたいのを我慢していたとか。
アナスタシアは、知り得る限りのこと、出来る限りのことを惜しむ事なく伝えていく。
何れ王妃となるのだから恥ずかしくないように、と必死に学び続けてきたことは、アインマールの民に多くのものを齎した。
人々は、相談事に対して実に的確な答えを返し続けるアナスタシアを尊敬の眼差しで見つめるようになる。
談笑する人々の輪の中にアナスタシアがある様子を、時間の合間を見て訪れるシュタールは嬉しそうに見つめていた。
女性達の中には、シュタールやロイエが姿を現すと頬を染める者達もいる。
シュタールが美貌の持ち主である事は間違いないので、それも無理はない、とアナスタシアも心に頷く。
更には、ロイエも女性からの人気がとても高いらしい。
確かに狐の獣人であるロイエもまた整った顔立ちであり、精悍な雰囲気のシュタールとは違う穏やかな雰囲気の魅力の持ち主だと思う。
本気で思いを寄せる者達も多いのだが、ロイエが応えることはないらしい。
何故と問いかけても、大切な人がいるから、と少し困った顔で語るのみだったという。
ロイエが誰を想っているのかは女達にも分からないし、勿論それよりロイエを知って日の浅いアナスタシアには分からない。
ただ、そんな風に誰かを想える事が羨ましいと思うと同時に、何故か直後にシュタールの顔が浮かぶようになってしまい、戸惑いに頬を押さえることが増えたのである。
やがて王都の日常穏やかなものに戻りつつあるある日、驚くべき報せが齎された。
アルビオンにて、密かにではあるが物資の取引をしたいと申し出る者が現れたという。
エリオットの手前、公に支援するわけにはいかないが、素性を探ることせぬと約束する代わりに今まで通りの取引に応じると。
シュタール達はそれを信じるに足るか十分に吟味している様子だった。
アナスタシアにも、提示された条件を知らせたうえで意見を求めてくる。
見せられた条件としては、確かに信じるに足る、といえるものではある。
だが、アナスタシアは疑問を抱く。
この条件で取引を提示できる者は、王国においても限られてくる。ある程度上層に介入できる人間でなければ、これだけの規模の取引を密かに行えない、と思うのだ。
勿論エリオットであるはずがないし、罠であるといった様子もない。そうと断じるだけの根拠も上げられない。
一人だけ、もしかしたら、と思う相手が居るけれど……。
情報を元に熟考した結果、アナスタシアは信じても良いのではと意見を述べる。
シュタールは、アナスタシアの意見も参考にした上で更に話し合い、受け入れるという結論を出した。
そして、密やかにではあるもののアルビオンからの物流が再開され、当座の危機はひとまず避けられた形となる。
滞っていた物資が少しずつ王都に行き渡るようになりつつあった。
新たな騒動が起きたのは、そんなある日のことだった。
休憩する予定だというシュタールが、アナスタシアも共に、と声をかけてくれた。
一緒に作業していた者達も、そうするべきだ、と笑顔で送り出してくれたので、シュタールに続いて歩き出そうとした。
そこへ、慌てた様子の兵士が駆け込んできて知らせたのだ。
都を探るように不審な動きをしていた者達を捕らえたと。風体からして、恐らくは異国の者であるだろうと……。
途端に表情を険しくしたシュタールはすぐにそちらへ向かう事に決め、アナスタシアもそれに倣う事にした。
構わず休んでくるようにと言ってくれたけれど、何故かおかしな胸騒ぎがしたのだ。
自分も行かなければいけない、という不思議な勘とでもいうべき感覚が働いたというか。
そして、シュタールと共にその者達が隔離されている場所へ足を踏み入れて、思わず目を疑ってしまった。
こんなところにいるはずのない人物が、そこに居たからだ。
泰然とした様子の青年と、蒼褪め狼狽えながら控える従者と思しき数名。
中でも青年は、アナスタシアにとってとても馴染みがあり、見覚えがある人物である。
最後に直接あったのは一年程前だが、見間違えるはずがない。
少し浅黒い肌をした翠の瞳の異国人の姿に、アナスタシアは心当たりがあり過ぎた。
「サ、サイ兄様……?」
「やあ、久しぶりだね、アナスタシア」
どうしても問う声が震えてしまう。頭痛がするのは、多分気のせいではない。
だって、目の前の人物が本当にそうであるならば、遠く離れたアインマールの地に何故いるのか。しかも、不審人物として捕らえられて拘束されて。
蒼褪めながら震える声で言うアナスタシアを温かに見つめながら、捕らえられた人物は朗らかに笑う。
何とも言えない表情で顔色を無くして呟くアナスタシアを見て、シュタールは訝しげに首を傾げる。
「アナスタシア、知り合いか?」
問いかけられて、アナスタシアは静かに頷く。
どうして、という問いは脳裏を駆け巡り続けているけれど。
この人物がまるで虜囚のように扱われている状況は、あまりにも様々な意味でよろしくない。
「フロースの、皇帝陛下です……」
「は……?」
アナスタシアの言葉に一触即発とも言える剣呑な空気で満ちていた場が、一気に凍り付いた。
シュタールも思わず声をあげたものの、続く言葉でない様子であり。
強張った表情を浮かべる人々の中、皇帝と言われた人物だけが楽しそうに笑っていた。
アナスタシアは何とも言い難い複雑な表情を浮かべたまま、もう一度頷いて見せた。
「その方は、フロース帝国の皇帝陛下でいらっしゃるサイサリス様です。……私にとっては、従兄にあたる方に間違いありません……」
重ねて告げられた事実に、シュタールすら呆然とした面もちでアナスタシアを見て、次いで不審人物ことサイサリスを凝視する。
サイサリスの傍らに控える従者達も、激しく首を縦に振り頷いている。
当の本人はもう少し伏せておいても面白かったのに、と能天気に呟いているではないか。
アナスタシアの母がフロース皇帝の母と姉妹である事は広く知られている事実である。
そして、そもそもアナスタシアがこのような場において嘘をつくはずもない。
つまりは、そういうことである。
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