感謝と信頼

 長く、暗く冷たい空間を彷徨っていたような気がした。

 けれど、手に不思議な温もりを感じて。その温もりが確かなものとなり、アナスタシアは呟く。

 大丈夫、私は行くべき道を間違えない。もう、彷徨わないと……。


 そして、アナスタシアは緩やかに瞼を開けた。

 感じる感触はとても柔らかく温かい。

 次いで戻って来た感覚が、今自分が寝台に寝かされているのだと教えてくれる。

 平素感じていたものより、温かで幸せな温もりを感じる。

 不思議に感じていたアナスタシアは、一番幸せな温かさを手に感じることに気づいた。

 ゆっくりと、焦点が合いつつある眼差しをそちらに向けようとする。

 視界に美しい銀色が過ったような気がして、目を瞬いて。

 確かになった視界には、痛い程に気遣う光を宿した銀灰の瞳を向けながら、アナスタシアの手をしっかり握りしめる獣人王の姿があった。


「シュタール……」


 涙しそうな程に悲しげに顔を歪めながらアナスタシアを見つめていたシュタールは、己の名を呼ぶ掠れた声を聞いて目を見張った。

 何かを言いたいのだが言葉にならないといった様子で吐息を零すシュタールを見つめるアナスタシアの表情に、微かな安堵が滲む。


「シュタールは……もう、大丈夫なのですか……?」

「……アナスタシアのおかげだ」


 まず何よりも聞きたかった問いを口にしたアナスタシアに、このような時でも問うのは自分の事ではないのか、と優しい溜息と共に呟きながらシュタールは答える。

 身体はそのまま地に沈むのではないかと思う程に重いけれど、頷きながら言うシュタールを見て心は軽くなっていく。

 シュタールが無事である、ということが何よりも心に温かに灯る。

 微笑むアナスタシアを見て、シュタールが安堵したように息を吐いた。

 そして表情を引き締めると、何故にアナスタシアがここにあるのかを説明し始める。


「疲労と魔力の使いすぎで倒れたのだ。……身体が冷たくて、呼んでも応えなくて……」


 もうすぐ薬が齎されるという報せを聞いて、安堵に緩んだ直後。

 アナスタシアは皆の前で倒れてしまったのだという。

 起き上がり、動けるようになったシュタールが部屋から出てきた事にも気付かぬままに。

 最初は、まさか病にと皆がざわめいたものの、症状はなく。熱があるのではなくむしろ冷たい。息はかろうじてあるものの、呼べども叫べども一言の答えもない。

 取り乱しかけたシュタールに、魔力の使いすぎではと進言する者があった。

 獣人の中にも微かに魔力を有する者達がいる。その者達が魔術を使った時に同様の状態を見せたと。

 すぐに部屋へと運び休ませたのだが、アナスタシアは何と三日も意識を取り戻さなかったという。

 アナスタシアが倒れてから程なく、薬草や必要物資を手に入れたロイエ達が帰還した。

 かなりの強行軍に疲弊していた一行ではあったが、確かな成果として多くの薬や物資を手に入れられたらしい。

 それらは王の采配により、未だ病癒えぬ者達から先に与えられ、次いで癒えかけた者達に与えられたとの事だった。

 心の底から安堵の息を零しながらも、アナスタシアの表情はすぐに曇ってしまう。 


「心配をかけて、ごめんなさい……」


 消え入りそうな声で呟き俯こうとしたアナスタシアを、シュタールは優しく制した。

 心配は確かにしたけれど、と苦笑したものの、すぐに緩く首を左右に振った後、アナスタシアに眼差しを向ける。


「アナスタシアが懸命に頑張ってくれたおかげで状況は良い方向に向かっている。ありがとう、アナスタシア」

「私は、私のしたいことを……必死にしただけで……」


 真摯な光を宿した瞳で見つめ感謝を口にされ、アナスタシアは戸惑ったように目を瞬く。

 言いつけを破り戻って来た上に勝手をしたとも言える行動だった。だから、ここまで素直に真っ直ぐに感謝を口にされて、どう返していいのかと思わず声が震えてしまう。

 そんなアナスタシアを見て優しく笑いながら、シュタールは視線を室内へと巡らせた後に言った。


「アナスタシアに感謝を抱いているのは、俺だけではないぞ?」

「え……?」


 どういう事かわからず、不思議そうに声をあげてしまう。

 シュタールは、アナスタシアの肩を抱えるようにして起き上がらせると、部屋の中を見回せるに支えてくれた。

 アナスタシアの目に、部屋の中の様子が明らかになる。


「これ、は……」

「アナスタシアに救われた者達が、それぞれに心づくしの品を持ち寄ったんだ」


 アナスタシアの居室の中は、様々な物で埋めつくされていた。

 見れば、寝かされていた寝台の寝具もまた、いつもとは違う見事で……人の心の温かさを感じるもの。

 少しばかり呆然としながら見つめているアナスタシアに、シュタールは教えてくれた。

 アナスタシアが魔力の使いすぎにて倒れ昏睡状態に陥った後、状況を聞かされた皆はおおいに慌てたらしい。

 そしてすぐさま各自が家に戻ると、皆がそれぞれに様々な物を持ち寄ったのだという。

 一番上等の掛物であったり、敷布であったり。安静のために少しでも役立てて欲しいと。

 かけて差し上げて欲しいと肩掛けを編んで持って来たもの、替えてさしあげてほしいと取り置いていた質の良い布で夜着を縫ったもの。

 寒さを防ぎ、目覚めたアナスタシアの目を愉しませられるようにと、秘蔵のタピストリーを持参したもの。

 起き上がれるようになった時に足が冷たくないようにと、毛織の敷物を持参したもの。

 少しでも心が慰められたら、と美しい木彫りの置物を持参したもの。

 目が覚めたら食べさせてさしあげてくれ、飲ませてさしあげてくれ、と自分達も苦しいであろうに食物や飲み物を持ち寄ったもの。

 数え上げればきりがない程の数多の、精一杯の心が、そこにあった。

 皆がそれぞれに、どれだけ些細な形であってもアナスタシアに何かをしたいと願ってくれた心の証は。アインマールの民がアナスタシアの回復を願い持ち寄った品々は、部屋を溢れるかと思う程に満たしていた。

 見つめている内に、目頭が熱くなるのを感じる。

 言葉を口にしようとしているのだが、出来ずにいる。何かを言った瞬間に、胸の奥から溢れてくる熱いものが零れてしまいそうなのだ。


「皆の、感謝と信頼の証だ」


 アナスタシアは、言葉を紡げぬままではあったが必死に頷いた。

 ただただ、嬉しかったのだ。

 皆の為に、自分が何かを成し遂げることができたのだと知って。

 自分の心が、誰かの心に響く事があったのだと。想いを、こんな形で皆が返してくれたのだと。自分の中にも、世界にも、こんなにも確かなものがあったのだと知って……。

 喜びに涙を滲ませるアナスタシアを支え、シュタールは静かに見守ってくれていた。

 だが、ふと何かに気づいたのか少し慌てた様子を見せる。


「すまない。これでは、またフロイデに叱られるな……」


 アナスタシアはすっかりシュタールに肩を支えられる形であり、はたから見れば抱き寄せられているとも言える。

 不用意に女性に触れるのではありません、と日頃叱る女性を思い出したのだろう。

 シュタールは、少しだけ気まずそうにアナスタシアを元通り横にさせようとする。

 だが。


「いえ……もう少しだけ。……もう少しだけ、こうしていてもらえますか……?」


 少しの恥じらいを含みながらも、アナスタシアが口にしたのはそれを止める言葉だった。

 シュタールは一瞬目を瞬いたものの、頷いてそれまでのように肩を抱きかかえ続ける。

 恐らく、アナスタシアがもう少し室内を見ていたいと思ったと感じた様子だった。

 優しい笑みを浮かべながら、確かに自分を支えてくれる頼もしい腕を肩に感じて鼓動は高鳴っている。

 けれど、頬を寄せた胸から、確かな鼓動を感じる。

 それは、この男性が生きてここにいるという証で。ゆっくりと穏やかに伝わりつつある音が、アナスタシアにとって、あまりに幸せに感じるのだった。

 鼓動が、アナスタシアの鼓動と響きあうように重なっている。

 一つ重なる度に、心の中に何かが生まれ、育っていくように感じる。

 心に育ちゆく温かなものを、人は何と呼ぶのか。

 アナスタシアは、少しずつ気付き始めているような気がした……。



 かつてアインマールに悲劇を齎した流行病は、此度は一人の死を奪う事も出来なかった。

 影響が残った者達もあったが、多くの者は間に合った薬を得て快癒していく。

 奇跡だと、人々は囁き合った。そして、それが誰によるものであるかも。

 そうして、アインマールの地を襲った病は、緩やかに収束する様子を見せた――。


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