聖女の戦い

 ただ、必死で名を呼び続けた。

 無我夢中で、気が付いたら持てる全てで治癒の力を使っていた。

 いつも優しい光を宿して見つめてくれていた瞳が、伏せられたままなのが辛くて。

 苦痛の表情を浮かべ辛いはずなのに、譫言ですら民を気遣う心に辛くて。

 どうか目を開けて、と願いながら身体の奥底から湧き上がってくる熱い思いに背を押されていた。

 アナスタシアの治癒の力がどこまで効果があるかはわからない不安はあったけれど、考えるよりも先に行動に出ていた。

 願いが届き、苦しみに耐え目を伏せていたシュタールは、緩やかではあったが瞼を開く。

 始めは焦点が定まらずぼんやりとしていた眼差しは、徐々に確かなものとなり。

 やがて、驚きと共にアナスタシアを見据えた。

 再び銀灰色の瞳を見つめることが出来た喜びに、胸に安堵が満ちると共に力が抜けて寝台の脇に座りこみそうになってしまう。

 喜びに人々が騒めく中、少しずつ思考が明瞭になってきたらしいシュタールは気付いたようだ。

 本来ここに居る筈のないアナスタシアが、自分の寝台の傍に立っている事に。


「何故……戻って来た……」


 弱弱しく咎める声には、アナスタシアを心配する響きが滲んでいた。

 言いつけを破り、危険とされる場所に戻ってきたことには違いない。

 いつもとは程遠い程に危ういが、責を問うように険しい眼差しをフロイデに向けようとするのを遮るように立つ。

 そしてシュタールの視線を真っ向から受け止めながら、アナスタシアは告げる。


「私にも、まだ出来ることがあるなら。何もしないままで居るのは嫌なのです」


 危険だからとアナスタシアを遠ざけようとしてくれた心は理解できる。

 けれど、小さくとも出来ることがあるかもしれない。今までに得てきたことを、役立てることができるかもしれない。

 可能性がそこにあるならば。この人を、そしてアインマールの人々を救うために出来ることがあるならば、もうじっとしては居られない。

 毅然とした眼差しを返しながら、アナスタシアは今までになかった強さで叫んだ。


「かつて施療所にて多くの病や怪我を癒してきました。私だって……役に立てます!」 


 必死に己が今抱く思いを訴えるアナスタシア。

 シュタールは、沈黙したままだった。

 だが、やがてアナスタシアのはしばみ色の瞳を見つめるシュタールの瞳に温かな色が浮かび、口元には微かな優しい苦笑が浮かぶ。

 アナスタシアの名を囁くように呼んだ直後、シュタールは再び目を閉じてしまった。

 よもや、とアナスタシアを皆は慌てたが、すぐにそれは杞憂であると知る。

 王の表情に、先程までの苦痛の色はない。

 吐息は完全に元通りとはいかないものの、先程よりも随分と安らかだ。ただ純粋に消耗しているが故に、回復のために眠りについただけのようだった。

 アナスタシアは安堵の息を吐く。そして、皆がそれぞれに王の回復を喜ぶのを聞きながら立ち上がり、居並ぶ者達を見回した。


「私の治癒の魔力がこの病に効果がある事はわかりました。症状の重い方から順番に、教えて下さい!」

「ま、まさかこれだけの数の病人を癒して回るおつもりですか?」


 強い声音で告げられた言葉に、集う人々は騒めいた。

 既に歩みを進めているアナスタシアに、フロイデの強い戸惑いの滲む問いを叫ぶ。

 やや震える声で紡がれた問いかけに、アナスタシアは静かに、迷いのない眼差しを向けて頷いた。

 アナスタシアの治癒の力が効果を発揮するというならば、ロイエが薬や物資を調達して帰ってくるまでに、一人も死なせたくない。

 数は確かに無謀とも言える程に多い。一人一人を完全に治癒して回る事は、如何に強大な魔力を有していても難しいかもしれない。

 けれど、だからといって打つ手がないわけではない。


「重い方からある程度まで持ち直していければ。完全に治す事は叶わないとしても、薬が届くまでにもたせることはできるはずです!」


 シュタールは、薬があればこの病は快癒すると言っていた。

 今、ロイエ達は必死に調達した薬を届けようとしてくれているはず。それなら、アナスタシアに今できることは、希望の灯火を絶やさず繋ぐ事だ。

 アナスタシアに気圧されるように、一人、また一人と頷いて走り出す。

 対するのは自分にとっては未知の病である。恐ろしくないとは言わない。

 だがそれ以上に、恐怖を上回る強い力が胸の奥から湧き上がり、身体を突き動かすのだ。

 シュタールが穏やかに寝入ったのをもう一度確かめて、アナスタシアは蹴るようにして走り出した。



 防護の策を講じながら、アナスタシアは病に喘ぐ人々の間を駆ける。

 以前はアナスタシアが傍によると警戒露わに顔を顰めていた人々も、もう顔を歪めることも、アナスタシアが近くにいる事にも気付けない様子だった。

 呻く病人達に、アナスタシアは治癒の術を施していく。

 アナスタシアの祈りから生じるような温かな光の波が人々を包んでいくにつれ、床に臥す人々の顔から苦痛の色が薄れていく。

 意識を戻す事こそなかったが呼吸が穏やかになり、看病していた人々の顔に喜色が滲む。

 戸惑いながらも感謝を述べようとする者達を緩やかに制しながら、アナスタシアは歩みを止めない。

 アナスタシアは休む事なく、一人、また一人と治癒を施し続ける。自身が病の媒介とならぬようにと最大限注意しながら、一つの部屋が終われば次の部屋へ。

 治癒術以外でも、施療所にて学んだ医術や衛生の知識がある。

 それらを病の拡大を防ぐために人々に共有しながら、アナスタシアはフロイデの手を借りながら、今や戦場と化した王城を、王都を駆け続けた。

 驚き戸惑い続っていた者達も、アナスタシアの真剣な眼差しに押されるようにして彼女に続き、指示を求めるようになっていく。

 シュタールはまだ起き上がれないものの、少しずつ会話する事が可能となっていった。

 無理をしてはならない、と咎めるシュタールに、アナスタシアは困ったように微笑む。

 言葉を交わせた事によって再び身体に力が満ちるのを感じて、王の居室を後にしたアナスタシアはやはり駆けるのだ。

 アナスタシアは、病に対峙し続けた。

 フロイデに休むように懇願され、仮眠をとることはあった。だが、それも最低限で済ませると、止める声も聞かずに再び駆け始めるのである。

 アナスタシアが眠っている間も、病は待ってはくれない。自分でも驚くほどに強い想いが胸の奥から湧き上がり、力が抜けかけた手足に満ちていく。

 一人、また一人と容態が落ち着き安堵するけれど、動きを止めている暇はない。

 人々が慌ただしく走り回る中、アナスタシアも足を止める事なく治癒の術を使い続ける。

 徐々に、動かす手足が酷く冷たく感じるようになっていく。

 自分の鼓動を、やけに遠く感じるようになっていく。感覚が曖昧で、自分の身体が自分のものではないような、そんな不思議さを覚える。

 それもそうだ。かつて、ここまで休むことなく、力を使い続けた事はない。

 けれど、止まれない。止まりたくない。自分に出来る事がまだ一つでもあるならば、動きを止めたくない。

 弱音を吐いている暇があるならば、一人でも多くを救うために走りたい。この国の未来を……シュタールが愛し、守ろうとする人々の未来を、絶対に繋げたい。

 アナスタシアは、大きく息を吐いて己の胸に手をあてた。手のひらに伝わるのは、はっきりとした鼓動だ。


 見失うな、私は此処に居る。私の心臓はここにある。私は、まだ生きている。

 まだ、私には出来る事がある。

 今まで、奪われても失っても、仕方ないと諦めてきた。自分には何もできないと、壁を作り自分を守ることしかしてこなかった。

 でも、もう何も諦めたくなどない……!


 アナスタシアは、戦い続けた。

 聖女は、もう以前のように優しげに微笑んではいなかった。鬼気迫る程に険しい表情で、目の前の困難に向かい続けた。

 以前まで見せていた控えめな物腰はなく、切羽詰まった様子で厳しい指示を飛ばし、自身も次から次へと治癒術の行使には駆け回る。

 重症者が出たらそちらへ駆け、持ち直したら休む間もなく次に重いものへと駆け続ける。

 けれど、アナスタシアを見る獣人達の目もまた以前と違った。 

 彼らがアナスタシアを見つめる眼差しは、次第に確かなものとなりつつあった。

 器から零れ落ちようとする重症者達を引き戻し続けながら、重くなりかけた者達の状態を留めながら。

 同時に、新たな発生を可能な限り減らすために知恵と技術を振り絞りながら。

 アナスタシアの戦いは、既に日数の感覚が消える程に続いていた。

 だが、王都の状況は見て驚くほどに変化しつつあった。

 都を覆い尽くそうとしていた死の影は、未だ一人の命すら奪いさることができていない。

 皆が滅びを覚悟する程に深かった暗闇は徐々に薄れ、微かであっても光が差し込みつつある。

 人々の表情から少しずつ悲痛な色が消えていく。

 安堵の色を取り戻しつつある皆は、それが誰故のものなのか気付いていた。

 重症者は皆快方に向かいながら容態を安定させる中、アナスタシアがその日も目まぐるしく病人達の間を走り回っていた時。

 アインマールにとってこれ以上ない吉報が……フロースへ向かっていたロイエが、もうじき帰還できるという報せが先駆けて届いたのである。

 シュタールも、床から起き上がれるようになっている。

 薬や足りぬ物資が届く時がすぐそこに来ている。希望が王都に齎される時が……!

 アナスタシアは、傍らのフロイデに微笑もうとした。

 だが、その瞬間足元を強い力で掬われ、なぎ倒されるような感覚を感じた。

 固い床に身体を打ちつける感覚はあるが、何故か不思議と痛みを感じない。感覚の何もかもが曖昧で、身体が酷く冷たい気がする。


「アナスタシア様……!」


 血を吐くような悲痛な声音で名を叫ばれたのを最後に。

 アナスタシアの意識は闇に溶けた。


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