心に想う光
――吹き荒ぶ風の音が、地の底にあるという魔物の唸り声にも聞こえる。
そこは、王都から離れたところにある集落だった。崩れかけた鐘楼を中央に据えた広場から、拡がりゆくように在る家々に人々は暮らしている。
アインマールにおいて『東の集落』と呼ばれる場所である。
広場から離れた、隔離されたように佇む建物の一つ。元は倉庫として使われていたという家の一室にてアナスタシアは俯き、物思いに沈んでいた。
隔離されるように過ごすのは、アナスタシアが望んだことでもある。
自分達が万が一にも病の源を持ち込んでしまったら、という懸念ゆえの事だった。
この集落においては、今の処病の発生はないという。
集落では病の対策の為に必要な物品を作り、王都へ届ける為の準備に皆が奔走している。
女達は針仕事や台所仕事に勤しみ、必要なものを作り用意して。男達は声をかけあって荷の用意をする。
アナスタシアも、無言のまま針を動かしていた。何もしていないというのが我慢できずに、出来ることはないかと頭を下げて頼み込んだのだ。
最初こそ、集落の人間はどれほどフロイデに咎められようとも余所者に対する警戒を解かず、してもらうことなどないと拒絶した。
けれど、諦める事なく熱心に頼み続けるアナスタシアを見て、折れるように針仕事を幾つか任せてくれたのだった。
向かい合うように座っているフロイデも、渋面のまま手を動かしている。手元には、同様に布と糸と針がある。
しかし、フロイデの手元の進みは捗々しくない。手を進めては止まり、また進めたかと思えば止まる。
大丈夫だろうかと気になり始めていた時、フロイデは不意に低く呻くように呟いた。
「……力仕事の手伝いのほうが、向いている気がしてきました」
何事もそつなくこなすこの兎の獣人は、どうやら針仕事を苦手としているらしい。
他の事は何をやらせても器用なのに、とアナスタシアは目を瞬いた。
誰にでも苦手の一つや二つあるものだ、と思いつつ苦笑してしまう。
「それじゃあ、私がフロイデの分も針仕事をするので。フロイデは他に出来そうな事を聞いてきたらどうでしょう」
「そうさせて頂きます……」
うんざりとした表情のまま、進まぬ手元を気にし続けるフロイデへと、アナスタシアは問いかける。
深い溜息と共に立ち上がったフロイデの顔に、助かった、と言ったような様子がある。
余程苦手だったのだな、と突き合わせてしまったことに罪の意識を覚えてしまった。
ついでに新しい報せがないかも確認して参ります、と言い残してフロイデの姿は部屋から消えていく。
一人となり、部屋に静寂が満ちる。
窓の外では相変わらず唸り声のような風が吹き続け、押し寄せる寒さを押し返そうと暖炉では炎が爆ぜる。
再び手元に視線を戻して、針の運びを再開する。
淀みなく手を動かしながら、アナスタシアは物思いに沈んでいく。
王都を離れてから。シュタールと離れてから。幾日かの話なのに、もう長い時が流れたような感覚を覚える。
アナスタシアにとって、シュタールが居ることはもはや日常となっていたのだ。
起きて身支度を整えて、広間に出ると決まってシュタールの姿がそこにある。
傍らにはロイエがいて、人々と話し合っていたり。時として、修練の為に剣を交えて居たり。
けれどどんな時もアナスタシアの姿に気付くと、シュタールは必ず笑みを浮かべてアナスタシアの名を呼んでくれる。
それを聞くとアナスタシアは、新しい日が始まったと感じていた。
シュタールが笑ってくれること、何時しかそれがアナスタシアの日常であり、胸に灯る明かりのようにも思えていた。
私にとって、あの人はどんな存在なのだろう、とアナスタシアは心の中で呟いた。
何もかもを失い、罪人として辺境に送られるところだった自分の窮地を救い、この国へと連れてきた男性。
アナスタシアには確かなものがあるとして、それを頼りと思ってくれたひと。
終わらぬ絶望を断ち切りこの国に春を呼ぶために、アナスタシアに出来ることがあると信じてくれているシュタール。
自分に信じることができなくなり、結果として誰に対しても信頼を抱けなかったアナスタシアに、シュタールは自分を信じろと言ってくれた。
シュタールは何がろうとアナスタシアに誠実である事を誓い、他の誰が背こうとも最後まで信じると誓ってくれた。
貴方を信じる自分を信じろと、あの白銀の獣人王は真摯な言葉をくれた。
その言葉を聞いて以来、アナスタシアは少しずつ取り繕うような笑みを浮かべなくなっていた。心が笑んでいないのに、笑顔になることをやめるようにした。
アナスタシアがぎこちないものの、打ち解けて話そうとしている様子を見て。
作った笑みが消えた事に驚いた者達の中から、一人、また一人と接し方を変化させる者達が現れるようになる。
まだ多くの人々から遠巻きにされているのは事実であっても、アナスタシアを取り巻く環境は変わりつつあった。
我知らずのうちに、どこか張り詰めていた心が解れていくような不思議な感じがしていた。
シュタールは、アナスタシアにも自然に意見を求めていた。思うところがあれば、忌憚なく言って欲しいとも。
アナスタシアは、最初おおいに戸惑いに目を見張ってしまったものだ。
エリオットは何か進言しようとすると明らかに機嫌を損ねるため何か思う事があっても口を閉ざすようになっていたし、そもそもアルビオンにおいては女性があまり表舞台に立つ事を求められていない。
自然と慎ましく控えるように立つのが身についてしまっていたが、シュタールはそんなアナスタシアへとごく自然に手を伸ばす。そして思うところを聞いてくれる。
けして性急には答えを求めようとはせず、アナスタシアの考えがまとまるのを待ったうえで。
それこそが当たり前のことだというように穏やかに笑うシュタールを見ている内に、自然と自分から意見を口にする事ができるようになっていく。
シュタールは頷きながら真摯に聞き、意見をし、対等な話し合いの相手としてアナスタシアを扱う。アナスタシアにとっては、我知らずのうちにはにかんでしまう程、嬉しくて。
時折、女性に対しては場合によっては無礼と言われかねない扱いをすることもある。
あの日、突然抱き締められた時の衝撃は忘れようにも忘れられない。高鳴る鼓動と共に、記憶に焼き付いてしまっている。
フロイデが言うように、確かにシュタールの周囲には男性か、或いは女性であっても剣をとるような武に長けた人物しかいない。
アルビオンの社交界にてよく見かける、何かあればすぐさま気絶してみせる女性や、楚々とした佇まいで滑るように歩む女性も。そして、目に涙を浮かべて見せながら、扇に隠した口元に笑みを浮かべる女性はいない。
飾る事もないし、時として率直にすぎることもあるアインマールの人々を、アナスタシアはアルビオンよりも心地よいと感じていた。
雪に閉ざされた厳寒の荒野に存在する、獣人達の王国。険しい環境の中で偽る事無く心を預け合い、助け合う人々をアナスタシアは好ましいと感じる。
遠巻きにされることを何時しか悲しいと思うようになるほど、アナスタシアはアインマールに馴染み、親しむようになっていた。
だが、その中でもアナスタシアの日々に大きな存在を持つようになったのは……シュタールだった。
シュタールが笑みを向けてくれる。声をかけ、手を差し出してくれる。
洗練とは遠い武骨な仕草であっても、アナスタシアにとって何よりも温かで、胸を満たす何かを感じて。
気が付けば、ふわりと心の奥から花開くように笑っていて……。
自分にとって、シュタールはどういう存在なのか。
アナスタシアがなかなかはっきりと答えを出せずに、手が止まっていることにも気付かぬままに思考していた時だった。
軋んだ音をたてて扉が開いたかと思えば、先程出ていったフロイデが戻って来る。
何か仕事はあったのかと問いかけようとしたが、ふとアナスタシアは動きを止める。
見てすぐに分かる程、フロイデの表情は優れないからだ。
何とか笑みを作ろうとしているものの、顔色は無きに等しい程に青白い。言葉にせずとも、何かあったのは一目瞭然だった。
何があったか問いかけても、フロイデは言葉を濁し答えようとしない。
裡に湧き上がるように生じた不安に自身も顔色を失いつつも、重ねて問い続ける。
けして逸らすことなく自身に向けられる懸命な眼差しに、ついにフロイデは折れるようにしてその事実を口にした――シュタールが病に倒れたという報せがあった、と……。
一瞬、痛い程の沈黙が二人の間に満ちた。
咄嗟に理解できない。
アナスタシアが出立するのを何時までも見送ってくれたシュタールが。
事態が落ち着いたらすぐに報せを送ると、少しだけ辛そうな笑みで約束してくれた彼が。
王都を襲う病の牙に倒れた、など……。
有り得ない、有ってはならない。いや、有って欲しくない。
脳裏を否定の言葉が巡る。事実を拒絶したい。だが、フロイデがこのような時にそんな質の悪い冗談を言う筈だがない。辛そうに顔を歪めながら、嘘を告げるはずが。
そう思った次の瞬間、アナスタシアは椅子を蹴るようにして立ち上がっていた。
そのまま駆け出しかねない勢いのアナスタシアを、フロイデが止める。
「どこへ行かれる気ですか?」
「決まっているでしょう! ……王都に戻ります!」
細い身体のどこにそんな力があったのかと言う程の力で、止めようとするフロイデを引きずるようにしてアナスタシアは進もうとする。
必死に縋りつくようにしながら、フロイデは叫ぶ。
「いけません! シュタール様は、事態が収束して遣いをやるまでここに居ろと……!」
「それまで、待ってなんかいられません……!」
防寒具をしまってある棚に手をかけるアナスタシアの手を、フロイデは叫びながら必死で止めようとする。
癇癪を起こした子供のように頭を左右に激しくふりながら、アナスタシアはそれでも、と棚を開こうとする。
もみ合いになりながらも、止めようとし、進もうとする。
「フロイデが来てくれないというなら、私は一人でも行きます!」
「アナスタシア様!」
自分をあくまで止めようとするフロイデに、アナスタシアは悲痛な叫び声をあげた。
聞いたフロイデが更に蒼褪め、更に表情を険しくしたのが分かる。
アナスタシアだって分かっている。吹雪の荒野を一人で進もうとすることが、どれだけ無謀なことであるか。
分かっている。けれど、止まれない。身体の奥底からこみ上げてくるのは、ただ『会いたい』という思いだった。
尚も止めようとするフロイデだったが、はっとしたように表情を変え、動きを止めた。
「お願いです、戻らせて……」
アナスタシアの頬を、幾筋も透明な雫が伝い、次から次へと落ちていく。
願うことを叫びながら泣き出すなんて、我儘を聞き入れられない子供のようではないか、と思う。
どう考えても、フロイデの言う事のほうが正しいのだ。
シュタールはここにいるように言ったのだから。
アナスタシアが病にて戦場と化した都に戻って何が出来るというのだとも思う。
けれど。
「このまま何もできないのは……何もできないで後悔するのは、嫌です! このまま会えないなんて、嫌なのです……!」
何もできないまま、ここでもどかしい想いをしていたくない。
あの人が倒れ、苦しんでいるというのに。
何かしたい。小さなことであっても、出来ることを探したい。助けになりたい。
このままここで最悪の想像をしながら、ただ待ち続けるだけでは居たくない。
あの人の側にいきたい。ただ優しく強く、そして温かなあの人の傍に在りたいのだ……。
「アナスタシア様……」
それきり言葉を失い、動きを止めてただ涙し続けるアナスタシアを見て、フロイデは戸惑いの表情にて唇を引き結んだ。
二人が口を閉ざしてしまえば、部屋には重苦しい沈黙が満ちて。
やがてフロイデは、恐ろしい程に真剣な表情で静かに口を開いた……。
アインマールの王都は混乱の際にあった。
対策の指揮をとっていた王もまた、都に蔓延する病に倒れてしまったからだ。
如何に頑強な王であれども、重なる疲労に弱っていた状態では迫る病に打ち勝つことが出来なかった。
その上、右腕とも言える側近ロイエは王の命令にて遠方に向かったまま、未だ戻らない。
王の居室にて、人々は祈るように傍に控えていた。
魘される王の汗を拭う事しかできない。風を送り少しでも熱を逃がす事しかできない。
王は、薬も食物も、自分に費やすよりも先に他の者達に使えと命じるのだ。
人々の悲痛な眼差しを感じながら床に伏せるシュタールは、自分はいいから他の者達の対応をせよと譫言のように言う。
自分はこのまま死ぬのだろうか、とふとシュタールは思った。
動かす事もままならぬ身体は炎かと思う程に熱く、焼かれるようにして命が擦り減っていくのを感じる。
次第に、声を出す事すら辛いと感じるようになってきた。
人の出入りする気配を感じても、視線を巡らすことも出来ない。それどころか、目を開くことも難しい。
聞こえる声も切れ切れであり、周囲の人間が何を言っているのか聞き取れない。酷く驚いたような気配を、いやに遠くに感じるだけだ。
生ある者である以上、いずれ死は避けられず。また、戦士であるが故に、紙一重であるとは感じていた。
けれど、まだやるべき事があるのに。病に混乱しきった人々をこのままにはしていきたくないのに。
彼女と、約束したのに‥‥…。
シュタールの脳裏に、ふわりと浮かんだのはアナスタシアの姿だった。
この大地に春を呼ぶために、アルビオンから攫ってきた聖女。
罪科にて王国を追われると聞いた彼女を、半ば無理やりこの地に連れてきた。
戸惑いながらも、アナスタシアは彼の申し出を受け入れてくれた。
聖女として生きて来た彼女は笑顔にて人と壁を作り、自分の心を見せようとしなかった。
彼はそれが少し切なく、悲しく。
余計な事かもしれないと懸念しつつ口にしてしまったのだ。何故そのように笑うのかと。
その出来事が、アナスタシアと彼がお互いを名で呼ぶ切っ掛けとなったのだけれど……。
最後かと思う時に、次々に浮かんでくるのはアナスタシアの顔だった。
母の胸は温かいのか、と寂しそうに呟いたアナスタシア。
何を信じれば良いのか、と泣いたアナスタシア。
戸惑いを越えて、少しずつ本当に笑ってくれるようになった彼女。
守るために避難させた彼女に、落ち着いたらすぐに遣いをやると言ったのに、それが果たせないと思うと口惜しい。
会えぬままに逝かねばならないということが、胸を突くほどに悲しい。
ここまでもう一度顔を見たいと願う自分を、朦朧とした意識の中で何故と思う。
その時、何かを感じた。
全身を包み込む優しい波のような、不思議な温かさを感じる。
焼かれ乾き切った自分に、温かな何かが沁み込んでいくような心地がする。
ああ、アナスタシアのようだ、とぼんやりと思う。
本人は自分を卑下するが、謙遜が過ぎると思う。
彼女のはにかむような笑みはとても温かなのだ。胸を満たしながら明かりを灯す、とても大切な何かを与えてくれる、かけがえのない……。
温もりに満ちた波が広がりゆく度に、身体にのしかかっていた重みのような苦痛が軽くなっていく。
開く事が出来ないほどに重かった瞼が緩やかに動かせる。乾き切った唇が少しずつ動く。
目を開き、そこにある姿を目に移した時。そして、それが誰なのかを理解した時。
シュタールは、掠れた声で静かに彼女の名を口にしていた。
王はゆっくりと、静かに銀灰色の目を開いた。
そしてそこに、祈るように手を組ながら彼を覗き込む、紅茶色の髪の聖女の泣き出しそうな顔を見出したのである……。
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