流行り病
アルビオンが客人を迎えていた頃。
アインマールには、ある異変が生じていた。
始まりは子供達が熱を出して寝込んでしまった、と訴えた一人の母親だった。
それを皮切りに、うちの子も、うちも、と。一人、また一人と子供が病に伏せたと訴える親達が増えて行ったのだ。
流石におかしいと民が首を傾げた頃、異変は更なる牙を向いた。
子供だけではなく、次いで老人。そして、若い世代でも怪我人をするなど、多少弱っていた者達が。次々と熱に喘ぎ、皆は相次いで床から起き上がることができなくなっていく。
もはや診療所の床だけでは足りず、城の大広間……かつては聖堂として用いられていただろう場所を、臨時の診療所とした。
集まる情報に王と側近たちが難しい顔をしていたさなか。
病人達に異様な眼瞼の充血と皮膚の赤い斑点が生じ始めたことに気付いたシュタールとロイエは蒼褪め顔を見合わせた。
問う眼差しを向けるアナスタシアを見て、難しい顔で沈黙したままのシュタールに代わり、ロイエが説明する。
「古い風土病とも言える病です。数年前にも流行った事があります」
ロイエの蒼褪めた顔に、苦く、どこか切ない悔恨が過ったように感じた。
いつものシュタールらしからぬ、唇を噛みしめ俯く様子を見たアナスタシアは、もしかして、と心の中で呟く。
数年前に流行した病。数年前に病で姉を失くしたシュタール。
二つの出来事を結び付けて考えるのは不自然ではないが、それを今敢えて問うのは躊躇ってしまう。
だがシュタールの今の表情は、何よりも雄弁な答えのように感じる。
「薬の材料となる薬草の備えはどれぐらいある……?」
「……貯蓄してあったものは僅かです」
暫し何かを思案しながら沈黙していたシュタールだが、やがて低く重い声音で問う。
応えるロイエの声もまた、重く苦しげなものだった。
苛立たしげに小さく呻きながら、シュタールは拳を握りしめた。
「皆が弱りつつある時期に……。いや、だからか……」
獣人達は人よりも遥かに頑健な身体を持っている。
しかし、今アインマールの人々は困窮しつつある。
遠方から、或いは秘密裡の取引によって贖おうとしても、人々を賄うには足りていない。
都市を取り巻く環境は整備され改善しつつあっても、物流に関しては悪化しつつあるのを、アナスタシアを感じていた。
そこに発生した流行り病は、皆がゆるやかに衰えつつある中、病は少しでも弱気ものたちを容赦なく喰らおうとしている。
シュタールは言葉を失い立ち尽くすアナスタシアに気付いて、一つ大きく息を吐く。
そして、努めて落ち着いてあろうとしているのが分かる声音で、事態の説明を始める。
数年前にもアインマールを襲った流行り病が、現在王都に蔓延している事。
今はそこまで重症化している者はいないが、かつては死者を出した病である事。
その際に、概ね何故に起き、どう広がるのかの解明はされている事。
「治療法はわかっている。ある薬が効くこともわかっているんだ。その薬があれば何とか収束させられるだろう。だが……」
しかし、ロイエは言っていたではないか。貯蓄されている薬草は僅かであると。病は今も広がり続けているのに。
それならば、一刻でも早く調達する必要があるのではないか。
焦燥を滲ませて見つめてしまったアナスタシアに返ってきたのは、苦痛に耐えるようなシュタールの銀灰の眼差しだった。
「薬を取り扱っているアルビオンの商人とは、一切の取引を禁じられている」
「あ……」
アナスタシアは、小さく呻くような声を発しながら蒼褪めてしまう。
アルビオン……今、王国の実質的統治を任されているエリオットは、愛する妃の為にアインマールに非道な要求を突きつけた。
その上、拒絶したアルビオンに対して、一切の物流を止めるという理不尽を科したのである。
箍が外れたように思えるエリオットが、緊急の事態だからといって命令を撤回するとは到底思えない。
沈黙が満ちる場に遠い吹雪の音と、人が慌ただしく叫び行き交う声が聞こえてくる。
時は、待っていてはくれないのだ。
「ロイエ、足の速さに特に秀でた者達を集めてフロースへ。墓所の石から、対価を許す」
シュタールは、ロイエに鋭く命じる。
王の意向を察した側近は、素早く踵を返した。
去っていくロイエの背中を黙し見送っていたシュタールは、アナスタシアへと向き直る。
彼は静かに説明してくれた。
フロースであれば、薬を始めとして病の蔓延を防ぐために必要なものが手に入る。
自身で交渉に出向きたいが、混乱しきった皆を置いてもいけない。
だから、機動力に秀でた者達を集めてフロースへと向かい、薬を調達してくるように命じたと。
歴代王の墓所から対価とする心臓石を持ち出すことを許可するとともに。
それは獣人にとってあまりに大きな代償ではないか、と息を飲むアナスタシアに、シュタールは苦く笑う。
「かつて、そう望んだ人がいた。自分の心臓石を、皆の薬の為に使ってほしいと」
呟いたシュタールは、どこか寂しげであり、悲しげでもあった。
アナスタシアが返す言葉を探す間に、次いでシュタールはフロイデへ視線を向ける。
「フロイデ。……アナスタシアを連れて、東の集落へ」
「承知致しました」
「待って……!」
やり取りを耳にしたアナスタシアは、弾かれたようにシュタールを見る。
フロイデもまた王の意向を素早く察して踵を返そうとするが、それを遮るようにアナスタシアが叫ぶ。
驚いた様子で自分を見る主従に、アナスタシアは戸惑いの声をあげる。
「ど、どうして……?」
「東の集落では病の報告はない。直ちにそちらへ避難を」
動揺の為に声が震えるのを何とか抑えようとするが、効果は捗々しくない。
病が蔓延しつつある王都から逃げるように言われている、と気づいてしまったからだ。
目を見張り見つめるアナスタシアに、耐える眼差しと、気遣う眼差しが向けられている。
「私も……。私もここに残って、貴方や皆を助けたいのです……!」
「駄目だ」
かつて人を救うためにあったものとして。そして、この国に未来を願うために呼ばれた者として。苦しんでいる皆を置いて、一人だけ逃げるようなことはしたくない。
アナスタシアはか細く震える声で必死に願いを紡ぐが、シュタールはアナスタシアを真っ直ぐに見据えながら低く拒絶の意思を紡いだ。
呆然と見つめるアナスタシアを見る獣人王の表情には、苦しみに耐える色がある。
「この病は、獣人が罹った時の事なら大体予測できるが。人間が罹った時は、何が起こるかわからない」
獣人の病に人が罹患した場合、どのような症状となるのか。どの程度の影響が出るのか。
もしかしたら獣人のみ罹る病なのかもしれないし、そうでないかもしれない。それすら分からないのだ。
アナスタシアが罹患した場合、獣人達よりも余程悪いことになるかもしれない。
人が病にかかった場合の想定ができない。前例がないからこそわからぬ恐怖がある。
「アナスタシアを危険に晒したくない。……頼む、聞き分けてくれ……!」
アナスタシアの両肩を掴みながら、シュタールは懇願した。
声音と表情に、そして両肩に悲痛な願いを感じる。
肩を掴む手は痛いほどに力が籠っている。
いつもはアナスタシアに不安や憂いを与えないようにと、優しい表情と態度を崩さないシュタール。
こんな風に縋りつくように何かを告げてきたことはない。今の彼から、少しの余裕も感じることができない。
それだけの事が、今起きているのだ。
シュタールはアナスタシアを思うからこそ今拒絶しているのだ、と分かるからこそ何も言葉を返せない。
それでも、と訴え続けることができない。
不用意にアナスタシアに触れることに苦言を呈する事が多いフロイデも、黙したままだ。
王の振舞いがアナスタシアを大切と思うが故だと分かるから。
ややあって、アナスタシアは掠れた声でようやく、承諾の旨を口にしたのだった……。
数刻後、アナスタシアはフロイデに連れられて王都を出立した。
二人の姿が消えてなくなるまで見送り続けていたシュタールだったが、不意に呟いた。
切ない程の決意の籠った、重い声音で。
「もう悲劇は繰り返さないと、俺達は貴方に約束したのだから……」
アナスタシアが王都を立ってから、病が王都中を覆い尽くすまでに左程時間はかからなかった。
シュタールは近隣集落と密に連携をとり、乏しい中でも最大限に物資を融通しあい、病人を受け入れる環境を整えた。
努力を嘲笑うように発症者は増え、徐々に重症者は増えていったが、幸いにもまだ死者は出ていない。
最大限の対策を打っていることが、水際にて功を奏したのもあるだろう。
だが理由として大きいのは、獣人が元々頑強であるが故だろう。
種による個体差こそあるものの、獣人は皆一様に人間よりも強く丈夫な身体を持つ。
人の病がアインマールの地に持ち込まれた事があるが、罹患するものが全く居らず、広まらなかったのがその証拠とも言える。
どうか薬が届くまで持ちこたえてくれ、とシュタールは病人達に声をかけて回った。
病に気弱になりつつあった人々も、王の言葉に己を奮い立たせるように頷いて見せる。
側近の中には、王が何かを思う切ない表情で東の方角を見つめていることに気付いたものも居た。
しかし誰かが問おうとしても、その前にシュタールはいつもの表情に戻るのだ。
猛威を振るう病に負けぬと歯を食いしばる王の指示のもと、人々は対応に奔走した。
だが、獣人の身体が如何に頑強であっても。対応に奔走しようとも。
倒れ、動くことすらままならぬ者達の数は日増しに増えていく有様だった。
このままでは、死者が出るのは時間の問題と人々の口の端に上るようになっていく……。
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